今日の日記その二2022.11.18(釜飯!) [日記]

今日の夕飯は、JR横浜線町田駅で売っていた「おぎのやの峠の釜飯」でした!本来の容器は、釜型の陶器製なのですが、これは電子レンジでそのままチンできる紙製です。おぎのやの峠の釜飯は有名ですね。「おぎのや横川本店」は、峠の釜めしの発祥の地です。群馬県安中市、信越本線横川駅前で明治18年より駅弁の販売を行っていました。釜めしは昭和33年に生まれました。私の生年と同じですから、今年で64年ですね。美味しかったです!
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今日の日記2022.11.18(濃厚接触者認定!) [日記]

ついに!妻が新型コロナウイルス感染症陽性となりました!( ̄◇ ̄;) したがって、私は濃厚接触者に認定されました!隔離期間は5日間です。この週は、2人とも朝が早く帰りが極端に遅かったこともあり、接種したのが16日の朝でしたから、20日(日)までの隔離となりました。今日の14時に第5回目のワクチン接種でしたが、濃厚接触者ということで医師から止めらました( i _ i )改めて再予約です。

この期間の自宅での生活ですが、1階は妻の専用、2階は私の専用、トイレもそれぞれの階にありますから、基本的に妻との接種は最小限にできそうです。ただ、キッチンとバスルームは、極力短時間の使用で、使用後は窓を全開にして消毒をこまめにするしかないですね。私も発熱しなければよいのですが(⌒-⌒; ) とりあえず、よく寝てよく食べて抵抗力をつけます!後は読書三昧&音楽鑑賞三昧ですね。
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教会日記2022.11.18(カトリック成城・聖タデオ教会「平日のミサ」金曜日) [教会日記]

今朝は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会での7時からの「平日のミサ」に与りました。今日は、14時から自宅近くの市民センターで新型コロワクチンの第5回目の接種があります。接種の日は勤務免除でお休みになるのですが、午前中に会議が2つあってお昼前に退勤します。接種が終わったら自宅でおとなしく寝ることにします。今朝も寒いですが、清々しい朝を迎えています。

ミサでは、金曜日の先唱担当として先唱奉仕を行い、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と主を讃え、
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
とお祈りし、続いて、
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」
と祈り、
そして、同僚の病と同じ病の私が親しくしているご婦人のお二人が癒されるようお祈りしました。
終わりに、『大天使聖ミカエルへの祈り』をお祈りしました。
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
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「信仰で大切なこと」のお話し [キリスト教関係事項・用語等]

カトリック教会の扉を初めて叩いたのは、東日本大震災(2011年3月11日)があった2011年です。その翌月4月30日のことでした。カトリック教会というよりは、キリスト教の門を初めてくぐったと言った方がよいかもしれませんね。翌々月の6月から入門講座を受講し始め、翌2012年4月7日の復活徹夜祭で洗礼を受けました。

そして、今年受洗して10年が経ちました。この10年間、主日のミサや平日のミサに与ってご聖体を拝領し、自宅では朝夕欠かさずお祈りし、毎日の日課として就寝前に聖書を読み、毎日ロザリオの祈りを唱え、ミサ中の朗読奉仕、先唱奉仕や聖歌奉仕、教会の運営にも携わってきました。また、仕事や社会活動での出張で、北は北海道旭川市にあるカトリック旭川五条教会から、南は福岡県福岡市にあるカトリック大名町教会まで、全国92の教会・修道院を訪問してミサに与ってきました。この経験には大きな意味があり、多くのことを学びました。

その10年が経ち、「信仰するという神を信じる心」について、自分なりに確信できたことがあります。それは主に次の5項目です。
一、神を讃えること。
二、神に栄光を帰すこと。
三、神に感謝すること。
四、神に熱心に祈ること。
五、善き行いを実践すること。

まず、第一にある「神を讃えること」ですが、天地を創造した全能永遠の神を讃えるべきです。唯一の神に信頼し、神の存在と神の御業(みわざ)を讃えることです。それは、神を賛美することが神を信じることの第一義だからですね。
次に、第二にある「神に栄光を帰すこと」ですが、何ごとも神に栄光を帰すことです。自分が得た成功、栄誉・名誉も、日常の生活におけるすべてのことは神に栄光を帰すことです。それは、すべては神の御業(みわざ)だからですね。
次に、第三にある「神に感謝すること」ですが、何ごとも神に感謝することです。今、自分が生かされていることも、日常生活すべてのことも感謝すべきことです。それは、感謝の心があるからこそ神の前で謙虚に正直になれるのです。
次に、第四にある「神に熱心に祈ること」ですが、いつも神に熱心に祈ることです。それは、神に祈るということは、神に想いを聴いてもらえる唯一の方法であり、神と対話する唯一の機会だからです。何時でも何処でも祈りましょう。
最後に、第五にある「善き行いを実践すること」ですが、とにかく善き行いを実践すること。それは、信仰とはただ信じることだけではなく、善き行いが伴って初めて信仰と言えるからです。隣人を愛するとは必ず善き行いが伴います。

信仰は、自由であり、個人の問題であり、個人の心の持ちようです。ですから、誰かから束縛されるようなものではありません。よく新興宗教団体で献金(お金)や勧誘といったことが問題となりますが、そのようなことで救われることは一切ありませんし、多額の献金をしたからといって絶対に幸せにはなりません。信仰で大切なことは、「お祈りと善き行い」です。時間があるなら、病気で苦しんでいる人・弱い立場にある人たちが救われるために祈るべきですし、お金に余裕があるなら、貧困で苦しんでいる人たちを支援するために使うべきです。

関連してお話しします。
最近は故安倍総理の事件があってから、宗教(宗教団体)というものに厳しい目が向けられています。何十年にも前から問題となっていた宗教団体が、事件をきっかけにその悪質な実態がやっと世間の知るところとなり(知っていた国民は多かったはずですが)、国会でも論議となって規制のための法制化も検討されるようになりました。しかし、国会議員が特定の悪質な宗教団体を頼って選挙活動をしていたという事実に、我々国民は大いに失望しましたね。しかも与党も野党も現職の大臣もです!辞職はしないし、残念というより情けないことです。

そこでお話しを続けます。
日本は多神教の国ということです。山に行けば山の神(大山祇神(オオヤマヅミノカミ)など)がおり、川には川の(神天水分神(あめのみくまりのかみ)など)がおり、皆さんよくご存じの「七福神(しちふくじん)」を祭っている神社はたくさんありますね。ちなみに、七福神の説明をしておきます。
・恵比寿(えびす)は七神の中で唯一日本の神様です。
・大黒天(だいこくてん)はインドのヒンドゥー教の神様です。
・毘沙門天(びしゃもんてん)はインドのヒンドゥー教の神様です。
・弁財天(べんざいてん)はインドのヒンドゥー教の神様です。
・寿老人(じゅろうじん)は中国の道教の神様です。
・福禄寿(ふくろくじゅ)は中国の道教の神様です。
・布袋尊(ほていそん)は中国の仏教の様です。
ちなみに、毘沙門天は仏教を守護する四天王の一仏である多聞天(たもんてん)と神仏習合していますし、大黒天は大国主命(おおくにぬしのみこと)と習合しています。そして、毘沙門天は玄関の守護神で、トイレは弁財天の守護神となっています。このように、日本人は、神仏というか宗教に寛大であり寛容でありますが、欧米人は一神教であるキリスト教を信仰している人がほとんどです。イスラーム(イスラム教)も一神教であり、一神教は唯一の神を信じているということですから、日本人の多神教と宗教観に大きな違いがあります。

この日本人が宗教に寛大・寛容といったところに、新興宗教が入り込む隙間があるのです。日本の宗教は、神道であれ仏教であれ、多少なりとも「信仰=ご利益」を求めるものですから、「ご利益=お布施・献金(お金)」となる要素があるのです。ですから「お布施・献金すれば救われる。幸せになれる。」となり、それも多額のお布施・献金すれば、なおのこと救われる・もっと幸せになれると教えられるのですね。問題となった宗教団体の信徒は、1億円以上も納めて破産しているようですが、お金で救われるとか幸せになれるとか、そのようなことを神様や仏様にお願いしてもまず成就することはないですね。お金は、その宗教団地の教祖?幹部?などの一部の人たちの懐に入って贅沢な生活をする資金となっているのでしょうか。でも、信者の皆さんにとっては、嘘でもそれを信じることによって心の精神的な拠り所としてるのでしょうね。
以上に関連して、私が信仰しているカトリック教会での献金(お金)はどうなっているのか?このブログの2022年7月12日に掲載した「宗教と勧誘と献金(お金)のお話し」を是非ともお読みください。
https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2022-07-12-3
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