教会日記2022.11.15(カトリック成城・聖タデオ教会「平日のミサ」火曜日) [教会日記]
今朝は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会での7時からの「平日のミサ」に与りました。雨天になり冷たい雨が降っています。寒いですが、今日も清々しい朝を迎えています。
ミサでは、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と主を讃え、
続いて
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
とお祈りしました。
続いて、
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」と祈り、
そして、同僚の病と同じ病の私が親しくしているご婦人のお二人が癒されるようお祈りしました。
終わりに、『大天使聖ミカエルへの祈り』をお祈りしました。
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
とお祈りしました。
ミサでは、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と主を讃え、
続いて
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
とお祈りしました。
続いて、
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」と祈り、
そして、同僚の病と同じ病の私が親しくしているご婦人のお二人が癒されるようお祈りしました。
終わりに、『大天使聖ミカエルへの祈り』をお祈りしました。
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
とお祈りしました。
「報い」のお話し [キリスト教関係事項・用語等]
このブログの昨年6月に掲載した「報い(むくい)のお話し」を再掲載いたします。
「報い(むくい)」は、『広辞苑』によると次の3つの意味があります。
①善行や悪業の結果として自分の身に受ける事柄(返報)。
②善悪因果の応報。
③仕返し。
ある行為の結果として、身に跳ね返ってくる事柄のことで、善悪いずれについても「報い」はありますが、現在では悪い行為の結果についていうことが多いようです。聖書には、旧約聖書にも新約聖書にも「報い」についての聖句(イエス・キリストの言葉・聖書の言葉)がたくさんありますが、次の2つの聖句を掲載いたします。
◯新約聖書:コロサイの人々への手紙:第3章・第25節
「不正を行う者は、自分の行った不正に対して報いを受けるであろう。それには差別扱いはない。」
この聖句は不正という悪業の結果として、自分の身に報いを受けることになり、それには差別扱いはないということです。悪行の因果応報ですね。その報いとは、自分も不正の被害に遭うという報いであったり、苦しみという報いであったり、困窮という報いであったり、死後に地獄に落ちるという報いであったりするわけですね。これを罰といいます。
◯新約聖書:マタイによる福音書:第5章・第11~第12節
「わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。」
この聖句は悪の因果応報ではなく、相手から迫害されたり、悪口を言われたり、虐められたりした人は、死後に天の国で受け取る報いに大きいものがあるというものです。ですから幸いであり、喜びなさいということです。現世は不幸でも、死後に受ける報いは天の国に入ることができるということです。
「因果応報(いんがおうほう)」の仏教用語としての意味は、善い行いをすれば善い結果が得られ,悪い行いをすれば悪い結果をもたらすということです。 善因善果、悪因悪果などと表現されます。意味はキリスト教も同じですね。聖書(旧約聖書と新約聖書を合わせて)には、「報い」という語が何十も出てきますが、人間は大なり小なり、いとも簡単に他の人を陥れたりして罪を犯しますが、中でも「悪意」だけは絶対に行ってはいけないことです。他の人に対する悪意は、極めて厳しい報いを受けることになるのです。
悪意で最も多いのが、嘘(うそ)や噂(うわさ)を吹聴することです。他の人から聴いたことを当事者にその真実を確認もせずに吹聴するわけです。つまり自分の目で見ることもせず、自分の耳で聴くこともせずということですね。しかし、困ったことに、故意にやっているはずなのに本人はなかなか気づかない、自覚さえしていないものなのです。これはその内容が真実であると思い込み、聴いたことが正しいと錯覚しているからなのですね。人格的に良心がないのか、何らかの目標や目的達成のために故意にやっているのか。
いずれにしても、悪意は人生において最も極めて厳しい報い、つまり厳しい罰を受けることになります。そのような良心の欠如は、周りのいろいろな環境に影響を及ぼします。生活環境だったり、職場環境だったりしますが、その人だけの問題ではなくなるのです。それに、自分のまわりの人にも悪い報いを与えたりするものなのです。自分の家族であったり、職場の同僚であったりするわけですね。まったくもって迷惑千万な話しです。そのような人は、聖書にあるとおり現世においてすでに報いを受けているかもしれません。
悪意を行っている、悪意を持っているということが、悪いこと(いけないこと)だと自覚した(わかった)時点で、悔い改めるべきです。主(神)は、怒るに遅く、憐れみ深く、慈しみ深い方です。悪意を行った罪を神様に告白し、赦してもらうことです。そのための悔い改めですね。カトリック教会の信徒であれば、聴罪司祭(ちょうざいしさい)に「赦しの秘跡」を授けてもらい、神様に赦してもらうことです。そして2度と悪意を持たないことです。悪意は信頼関係を壊し、人間関係を壊してしまします。心することですね。
◯旧約聖書:シラ書(集会の書)・第19章・第13〜第17節
「友に問いただせ。
彼は、何もしていないかもしれない。
何かしていたとしても、二度とはしなくなるだろう。
隣人に問いただせ。
彼は、何も言っていないかもしれない。
何か言っていたとしても、二度と繰り返さないだろう。
友人に問いただせ。
しばしば中傷にすぎないものだ。
噂は一切信じるな。
心ならずも口を滑らせてしまう者もいる。
自分の舌で罪を犯したことがない者がいるだろうか。
隣人を脅す前に、問いただせ。
あとは、いと高き方の律法に任せよ。」
『聖書協会共同訳聖書』から
最後にある「いと高き方の律法に任せよ。」は、後はすべてを見ておられる神様に委ねなさいということです。
「報い(むくい)」は、『広辞苑』によると次の3つの意味があります。
①善行や悪業の結果として自分の身に受ける事柄(返報)。
②善悪因果の応報。
③仕返し。
ある行為の結果として、身に跳ね返ってくる事柄のことで、善悪いずれについても「報い」はありますが、現在では悪い行為の結果についていうことが多いようです。聖書には、旧約聖書にも新約聖書にも「報い」についての聖句(イエス・キリストの言葉・聖書の言葉)がたくさんありますが、次の2つの聖句を掲載いたします。
◯新約聖書:コロサイの人々への手紙:第3章・第25節
「不正を行う者は、自分の行った不正に対して報いを受けるであろう。それには差別扱いはない。」
この聖句は不正という悪業の結果として、自分の身に報いを受けることになり、それには差別扱いはないということです。悪行の因果応報ですね。その報いとは、自分も不正の被害に遭うという報いであったり、苦しみという報いであったり、困窮という報いであったり、死後に地獄に落ちるという報いであったりするわけですね。これを罰といいます。
◯新約聖書:マタイによる福音書:第5章・第11~第12節
「わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。」
この聖句は悪の因果応報ではなく、相手から迫害されたり、悪口を言われたり、虐められたりした人は、死後に天の国で受け取る報いに大きいものがあるというものです。ですから幸いであり、喜びなさいということです。現世は不幸でも、死後に受ける報いは天の国に入ることができるということです。
「因果応報(いんがおうほう)」の仏教用語としての意味は、善い行いをすれば善い結果が得られ,悪い行いをすれば悪い結果をもたらすということです。 善因善果、悪因悪果などと表現されます。意味はキリスト教も同じですね。聖書(旧約聖書と新約聖書を合わせて)には、「報い」という語が何十も出てきますが、人間は大なり小なり、いとも簡単に他の人を陥れたりして罪を犯しますが、中でも「悪意」だけは絶対に行ってはいけないことです。他の人に対する悪意は、極めて厳しい報いを受けることになるのです。
悪意で最も多いのが、嘘(うそ)や噂(うわさ)を吹聴することです。他の人から聴いたことを当事者にその真実を確認もせずに吹聴するわけです。つまり自分の目で見ることもせず、自分の耳で聴くこともせずということですね。しかし、困ったことに、故意にやっているはずなのに本人はなかなか気づかない、自覚さえしていないものなのです。これはその内容が真実であると思い込み、聴いたことが正しいと錯覚しているからなのですね。人格的に良心がないのか、何らかの目標や目的達成のために故意にやっているのか。
いずれにしても、悪意は人生において最も極めて厳しい報い、つまり厳しい罰を受けることになります。そのような良心の欠如は、周りのいろいろな環境に影響を及ぼします。生活環境だったり、職場環境だったりしますが、その人だけの問題ではなくなるのです。それに、自分のまわりの人にも悪い報いを与えたりするものなのです。自分の家族であったり、職場の同僚であったりするわけですね。まったくもって迷惑千万な話しです。そのような人は、聖書にあるとおり現世においてすでに報いを受けているかもしれません。
悪意を行っている、悪意を持っているということが、悪いこと(いけないこと)だと自覚した(わかった)時点で、悔い改めるべきです。主(神)は、怒るに遅く、憐れみ深く、慈しみ深い方です。悪意を行った罪を神様に告白し、赦してもらうことです。そのための悔い改めですね。カトリック教会の信徒であれば、聴罪司祭(ちょうざいしさい)に「赦しの秘跡」を授けてもらい、神様に赦してもらうことです。そして2度と悪意を持たないことです。悪意は信頼関係を壊し、人間関係を壊してしまします。心することですね。
◯旧約聖書:シラ書(集会の書)・第19章・第13〜第17節
「友に問いただせ。
彼は、何もしていないかもしれない。
何かしていたとしても、二度とはしなくなるだろう。
隣人に問いただせ。
彼は、何も言っていないかもしれない。
何か言っていたとしても、二度と繰り返さないだろう。
友人に問いただせ。
しばしば中傷にすぎないものだ。
噂は一切信じるな。
心ならずも口を滑らせてしまう者もいる。
自分の舌で罪を犯したことがない者がいるだろうか。
隣人を脅す前に、問いただせ。
あとは、いと高き方の律法に任せよ。」
『聖書協会共同訳聖書』から
最後にある「いと高き方の律法に任せよ。」は、後はすべてを見ておられる神様に委ねなさいということです。