今日の日記2023.1.13(駅の男性トイレ!) [日記]
年末の12月30日に小田急線世田谷代駅の近くにある鰻屋で会食をした際、帰りに駅の男性トイレを使用させていただきました。なんか贅沢に造られているようですね( ̄▽ ̄;) このスペースなら、小便器を5つは並べることができると思いますが、3つしかありません。実用よりもデザイン重視でしょうか(⌒-⌒; )
教会日記2023.1.13(カトリック成城・聖タデオ教会「平日のミサ」金曜日) [教会日記]
今朝は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会での早朝7時からの「平日のミサ」に与りました。今日も寒かですたい!(九州弁?)明日と明後日の2日間は、「大学入学共通テスト」です。本格的に入試シーズンが到来します!私も職場である大学で入試業務に携わりますが、受験生が落ち着いて悔いなく受験できるよう万全の体制で臨みます!
ミサでは、先唱奉仕を担当して、まず、主を讃えるお祈りです。
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と祈りました。
そして、主に感謝です。
「今日も清々しい朝を迎えさせていただき、ご聖体を拝領させていただいたことを感謝申し上げます。」
次に、主により頼むお祈りです。
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
と祈りました。
次に、派遣のお祈りです。
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」
と祈りました。
終わりに、『大天使聖ミカエルへの祈り』です。
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
と祈りました。
ミサでは、先唱奉仕を担当して、まず、主を讃えるお祈りです。
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と祈りました。
そして、主に感謝です。
「今日も清々しい朝を迎えさせていただき、ご聖体を拝領させていただいたことを感謝申し上げます。」
次に、主により頼むお祈りです。
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
と祈りました。
次に、派遣のお祈りです。
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」
と祈りました。
終わりに、『大天使聖ミカエルへの祈り』です。
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
と祈りました。
新約聖書:ガラテヤの人々への手紙・第6章・第7〜第10節 [聖書]
「思い違いをしてはいけません。神は人から愚弄されることはないのです。人は自分の蒔いたものを刈り取ります。自分の肉という畑に種を蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊という畑に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。倦まず弛まず善を行いましょう。飽きずに励めば、時が来たとき、わたしたちは刈り取ることになります。ですから、機会のあるごとに、すべての人に、特に、信仰によっていわば家族となった人々に対して、善を行いましょう。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から
新約聖書には、「種蒔き」と「刈り取り」についてのイエス・キリストのたとえ話しがよく出てきます。この聖句(聖書の言葉)は、使徒パウロの言葉ですが、この「人は自分の蒔いたものを刈り取ります。」は、具体的には「自分で蒔いた種は、自分で刈り取る。」ということになります。この言葉の意味は、自分がきっかけを作って招いた悪い事態のことのことで、「自分の身に起こることは、すべて自分の過去の行動がもたらしたものである。」という意味になりますね。
この聖句に続いて、使徒パウロは「自分の肉という畑に種を蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊という畑に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。」と説いております。つまり、「良い実を得たいのであれば、良い場所によい種を蒔きなさい。」、「豊かな収穫を得たいのであれば、良い場所によい種をまきなさい。」ということです。結局、良くも悪くも 「最終的には蒔いた種は自分で刈らねばならない。」わけです。だったら良い種を蒔きましょうということです。
作物を収穫する「刈り入れ」は、一何で一番大きな喜びの時です。畑を耕して種を蒔き、水や肥料をやって草取りをし、毎日毎日世話をしてやがて実が豊かに実ります。それを刈り取る=収穫するのです。収穫はこれまで汗水流して働いた労苦の実りを刈り取る時であり、労働の成果を目に見えるかたちで手にする最高の時です。良い種を蒔いたのであれば、良い実をつけ豊かな収穫を得ることになるわけです。
ナスビの種を蒔いたらキューリがなった!Σ( ̄ロ ̄lll) ということはありませんね。ナスビの種を蒔けばナスビが生ります。同じように愛の種を捲けば、愛の芽が出て、その愛が成長して、平和を刈り取ることができます。その反対に、憎しみの種を蒔けば、憎しみという芽が出て、その憎しみが成長して、戦争を刈り取ることになります。仏教で説くところの「因果応報(いんがおうほう)」と似ていますね。
これは、「種蒔き」と「刈り取り」のたとえ話しですが、イエス・キリストが説く<種蒔き>とは、私たち信徒が、人々に神のみ言葉(教え)を蒔くことであり、福音を告げ知らせることであり、善き行いをすることでもあります。<刈り入れ>とは、種蒔きの結果の報いであって、イエス・キリストが再臨する時に行われる、永遠の安らぎが与えられる天の国に昇る者と、人を食いつくす蛆(うじ)や燃え盛る火が尽きることのない地獄に落ちる者とが選別される「最後の審判」を指しています。ですから、私たち信徒は、日々において神のみ言葉を実践し、福音を告げ知らせ、隣人のために善き行いをしなければならないのです。
他にも種蒔のたとえ話しはたくさんありますが、ここでは次の3つを掲載いたします。
〇新約聖書:コリントの人々への第一の手紙・第19章・第6節
「少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。」
〇新約聖書:マルコによる福音書・第4章・第26~第29節
「神の国は、ある人が地に種をまくようなものである。 夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。 地はおのずから実を結ばせるもので、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる。 実がいると、すぐにかまを入れる。刈入れ時がきたからである。」
〇新約聖書:マルコによる福音書・第4章・第30~第32節
「神の国を何に比べようか。また、どんな譬で言いあらわそうか。 それは一粒のからし種のようなものである。地にまかれる時には、地上のどんな種よりも小さいが、 まかれると、成長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が宿るほどになる。」
【因果応報】
人はよい行いをすればよい報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがあるということ。仏教の用語で、行為の善悪に応じて、その報いがあることを意味します。現在では悪いほうに用いられることが多いですね。「因」は因縁の意で、原因のこと。「果」は果報の意で、原因によって生じた結果や報いのことです。
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から
新約聖書には、「種蒔き」と「刈り取り」についてのイエス・キリストのたとえ話しがよく出てきます。この聖句(聖書の言葉)は、使徒パウロの言葉ですが、この「人は自分の蒔いたものを刈り取ります。」は、具体的には「自分で蒔いた種は、自分で刈り取る。」ということになります。この言葉の意味は、自分がきっかけを作って招いた悪い事態のことのことで、「自分の身に起こることは、すべて自分の過去の行動がもたらしたものである。」という意味になりますね。
この聖句に続いて、使徒パウロは「自分の肉という畑に種を蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊という畑に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。」と説いております。つまり、「良い実を得たいのであれば、良い場所によい種を蒔きなさい。」、「豊かな収穫を得たいのであれば、良い場所によい種をまきなさい。」ということです。結局、良くも悪くも 「最終的には蒔いた種は自分で刈らねばならない。」わけです。だったら良い種を蒔きましょうということです。
作物を収穫する「刈り入れ」は、一何で一番大きな喜びの時です。畑を耕して種を蒔き、水や肥料をやって草取りをし、毎日毎日世話をしてやがて実が豊かに実ります。それを刈り取る=収穫するのです。収穫はこれまで汗水流して働いた労苦の実りを刈り取る時であり、労働の成果を目に見えるかたちで手にする最高の時です。良い種を蒔いたのであれば、良い実をつけ豊かな収穫を得ることになるわけです。
ナスビの種を蒔いたらキューリがなった!Σ( ̄ロ ̄lll) ということはありませんね。ナスビの種を蒔けばナスビが生ります。同じように愛の種を捲けば、愛の芽が出て、その愛が成長して、平和を刈り取ることができます。その反対に、憎しみの種を蒔けば、憎しみという芽が出て、その憎しみが成長して、戦争を刈り取ることになります。仏教で説くところの「因果応報(いんがおうほう)」と似ていますね。
これは、「種蒔き」と「刈り取り」のたとえ話しですが、イエス・キリストが説く<種蒔き>とは、私たち信徒が、人々に神のみ言葉(教え)を蒔くことであり、福音を告げ知らせることであり、善き行いをすることでもあります。<刈り入れ>とは、種蒔きの結果の報いであって、イエス・キリストが再臨する時に行われる、永遠の安らぎが与えられる天の国に昇る者と、人を食いつくす蛆(うじ)や燃え盛る火が尽きることのない地獄に落ちる者とが選別される「最後の審判」を指しています。ですから、私たち信徒は、日々において神のみ言葉を実践し、福音を告げ知らせ、隣人のために善き行いをしなければならないのです。
他にも種蒔のたとえ話しはたくさんありますが、ここでは次の3つを掲載いたします。
〇新約聖書:コリントの人々への第一の手紙・第19章・第6節
「少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。」
〇新約聖書:マルコによる福音書・第4章・第26~第29節
「神の国は、ある人が地に種をまくようなものである。 夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。 地はおのずから実を結ばせるもので、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる。 実がいると、すぐにかまを入れる。刈入れ時がきたからである。」
〇新約聖書:マルコによる福音書・第4章・第30~第32節
「神の国を何に比べようか。また、どんな譬で言いあらわそうか。 それは一粒のからし種のようなものである。地にまかれる時には、地上のどんな種よりも小さいが、 まかれると、成長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が宿るほどになる。」
【因果応報】
人はよい行いをすればよい報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがあるということ。仏教の用語で、行為の善悪に応じて、その報いがあることを意味します。現在では悪いほうに用いられることが多いですね。「因」は因縁の意で、原因のこと。「果」は果報の意で、原因によって生じた結果や報いのことです。