ワイン『Sanctus(サンクトゥス)』のご紹介 [日記]

今日ご紹介するワインは、ドイツ西部のマインツ近くにあるベネディクト会聖ヒルデガルト修道院で造られた白ワインです。修道院の名称になっている聖ヒルデガルトが、1165年に建てた女子修道院が『聖ヒルデガルト修道院』です。リューデスハイムから30分ほど小高い丘を登ったアイビンゲンの地にあります。今でも彼女の教えを守りながら修道女たちが暮らしています。
◯ 『サンクトゥス(Sanctus)白ワイン・750ml/聖ヒルデガルト修道院(ドイツ)¥3,280 税込です。とにかくフルーティーですが、甘い系!です。四ツ谷にあるサンパリーノで購入しました。ちなみに、「サンクトゥス」とは「聖なる」の意で、カトリック教会のミサ典礼では、「感謝の賛歌」のことです。
C75E2F88-0D0E-4C19-8165-7BB619E3AFFB.jpeg0ADF5213-D868-4353-912A-48D9F34C4A6F.jpeg
C609245C-ABCB-4E9A-A977-D607F6646719.jpeg
◯聖ヒルデガルト修道院です。
B031A19F-8975-4854-A96D-66609BCCF34D.jpeg
聖ヒルデガルトの正式名は、ヒルデガルト・フォン・ビンゲンです。西暦1100年ころにライン川のリューデスハイムとその対岸のビンゲンで活動していた修道院長、神秘家、作曲家です。医学・薬草学に知見が深く、ドイツ薬草学の祖と言われています。ハーブを勉強した方は、ヒルデガルトの名を一度は聞いたことがあると思います。史上4人目の女性の教会博士でもあります。聖ヒルデガルトのもっと詳しいことは、このブログに改めて書きたいと思います。
◯聖ヒルデガルトです。
73E2A13F-FF6D-4D32-ACB9-882D95E2A183.jpeg
nice!(0)  コメント(0) 

教会日記2023.1.3(カトリック成城・聖タデオ教会「降誕節火曜日(主の公現前)のミサ」火曜日) [教会日記]

今朝は、カトリック成城・聖タデオ教会で、早朝7時からの「降誕節火曜日(主の公現前)のミサ」に与りました。今日は「イエスのみ名」の任意の記念日でもあります。「イエスのみ名」についての詳細は、カトリックの修道会 聖パウロ女子修道会(女子パウロ会)のWebサイト「聖人カレンダー」をご覧ください。
https://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=010302
ものすご〜く寒いですが、清々しい朝を迎えています!写真は、早朝6時15分の聖堂です。
64206FD0-00F4-40CB-BCC5-4ECB875CA9CF.jpeg
ミサでは、まず、主を讃えるお祈りです。
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と祈りました。
そして、主に感謝です。
「今日も清々しい朝を迎えさせていただき、ご聖体を拝領させていただいたことを感謝申し上げます。」

次に、主により頼むお祈りです。
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
と祈りました。

次に、派遣のお祈りです。
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」
と祈りました。

終わりに、『大天使聖ミカエルへの祈り』です。
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
と祈りました。
nice!(0)  コメント(0) 

新約聖書:ヤコブの手紙・第2章・第14〜第26節 [聖書]

「わたしの兄弟たちよ、たとえ、誰かが自分は信仰をもっていると言っても、行いを伴わないなら、何の役に立つでしょう。そのような信仰は、その人を救うことができるでしょうか。仮に兄弟か姉妹かが、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとしましょう。あなた方のうち、誰かが、その人に、「安心して行きなさい」「たくさん着なさい」「十分食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないとするなら、何の役に立つでしょう。信仰もまた同じで、行いを伴わないなら、それ自体、死んだものです。
ところで、次のように言う人がいるかもしれません。「あなたには信仰があるが、わたしには行いがある。行いが伴わないあなたの信仰をわたしに見せなさい。そうすれば、わたしは行いをもって信仰を見せよう。あなたは、神が唯一であることを信じている。それは善いことである。悪霊どももこれを信じており、おののいている。愚かな人よ、行いを伴わない信仰のむなしさを知りたいのか。われわれの父アブラハムは、その子イサクを祭壇の上にささげたとき、その行いによって義とされたのではないだろうか。あなたは、信仰が彼の行いとともに働いたこと、また、行いによって信仰が完全なものとされたことが分かるだろう。こうして、『アブラハムは神を信じた。そのことは、彼が義とされるにふさわしいとみなされた』という聖書の言葉が成就され、彼は、『神の友』と呼ばれたのである」。
これで明らかなように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるものではありません。これと同じく、娼婦ラハブも、使いの者たちを家に入れ、ほかの道から送り出したとき、その行いによって義とされたのではありませんか。息をしない体が死んだものであるのと同じように、行いの伴わない信仰もまた死んだものです。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳註聖書』から

この聖句(聖書の言葉)は、私がキリスト者である存在理由であり、私の信仰生活の拠り所としている重要な聖句です。
この『ヤコブの手紙』の著者は、イエス・キリストの兄弟の義人ヤコブと言われています。紀元50〜60年代くらいに書かれたようです。この手紙のテーマは、全体的に「人は信仰だけでなく、行いによって義とされる」と説いているところです。ここでよく問題となるのは、『ローマの人々への手紙』の中で、パウロが「人は行いがなくても、信仰によって義とされる」と説いていることです。

パウロは、「行い」をパウロが生きた時代の律法上の行為、例えば「割礼」などの儀式規定を守る行為や神が定めた掟ではない人間が作った形骸化した掟などを指しており、このような行いに関係なく、信仰によって義とされると説いています。一方の『ヤコブの手紙』は、「行い」は神への愛、隣人への愛という最大の掟に総括される諸々の「行い」、「善き行い」というものを指しているのです。

使徒であるパウロは、この時代の律法上の行為(行い)、すなわち儀式規定を守る行為(行い)は、イエス・キリストへの信仰に取って代わられたもので、もはや死んだものと言っていますし、『ヤコブの手紙』は、愛の伴わない(善き行いが伴わない)信仰は死んだものと言っています。「信仰」について、両方とも正しく説いています。どちらか一方が間違いではありません。この違いは、パウロの説くパウロの生きた時代の「行い」への批判からの信仰解釈と、ヤコブの説くキリスト者(クリスチャン)の絶対条件とする「行い」への信仰解釈の違いです。

いずれにしても、「信仰とは、神を信じるだけでなく、神への愛、隣人への愛という行いが伴うこと。行いが伴って初めて信仰といえる」ということです。私たちキリスト者は、毎週ミサに与り、毎日お祈りに専心することだけでなく、「隣人への善き行い」、すなわち「愛の行動」を実践することが大切なのです。自分でできる善き行い、多くの人たちと一緒にできる善き行い、どのような善き行いでもいいのです。善き行いが伴った信仰生活でありたいものです。
nice!(0)  コメント(0)