今日の日記2022.10.2(NHK大河ドラマ!その2) [日記]

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NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のオープニングに、たくさんの登場人物の像が出てくるのですが、先々週10月2日、このブログに掲載した「今日の日記2022.10.2(NHK大河ドラマ!)」に、このオープニングに出てくる北条政子像が、どうしても聖母マリア像に似ていると書きました。
https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2022-10-02-1
そうしたら、まだありました!今度は、どうしても「聖家族(せいかぞく:母親である聖母マリア様と赤ちゃんのイエス様、その2人を見守る父親(養父)の聖ヨセフ様)」に見える像があったのです!やはりこれも私だけでしょうか?やはりカトリック教会のクリスチャンだからでしょうか?カトリック教会のクリスチャンなら、私に共感していただけると思います。このオープニングを制作担当された方又はご像を作られた方は、クリスチャンに間違いなしですね。
次の写真は、クリスマスシーズンになると飾る一般的な聖家族のご像です。
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【聖家族】
聖家族(せいかぞく、ラテン語:Sacra Familia)は、幼少年時代のイエス・キリストと養父ヨセフ、聖母マリアの3人家族のことであり、キリスト教美術の主題の一つとなっています。聖家族をモチーフとした作品の創造は、15世紀から17世紀のルネサンス美術・バロック美術において盛んで、よく描かれたのは『マタイによる福音書』が伝える「聖母のエジプト逃避」で、旅の途上で休憩する聖母マリア母子が、有名な画家によって豊かな風景画として描かれました。後の画家たちは、この画題に幼い洗礼者ヨハネや他の聖人を配して描いています。

ちなみに、スペインのバルセロナにある有名な「サグラダ・ファミリア(スペインのカタルーニャ語でSagrada Família)はカトリック教会ですが、正式名称は「聖家族贖罪教会(せいかぞく しょくざいきょうかい、カタルーニャ語でTemple Expiatori de la Sagrada Família)」といいます。日本語では「聖家族教会」と呼ばれることも多いですね。次の写真は、完成予想画像です。着工したのは1882年3月19日で、完成(竣工)は2026年の予定です( ̄◇ ̄;) なんと教会を建てるのに、一世紀以上もかかってる!(⌒-⌒; )
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【贖罪(しょくざい)】
広い意味では神の救済,償い,和解,ゆるしと同義ですが,イエス・キリストの生と死と復活を通じての神の恩恵として実現される人間の罪からの解放と、これによってもたらされる神との交わりの回復をいいます。








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「いちじく」のお話し [キリスト教関係事項・用語等]

今年も「いちじく」を食べました。
いちじくは漢字で「無花果」と書きますが、花がないわけではなく、実の中に小さな花をつけるため、外からは確認できないのです。果実を半分に切ると赤いつぶつぶがたくさんつまっていますが、それが花なのですね。分類はクワ科イチジク属で、原産地はアラビア半島南部、地中海沿岸地方です。日本では、5月ごろから11月くらいまでがシーズンです。ちなみに、いちじくという名前の由来は、毎日1つずつ熟すことから「一熟」→「いちじく」になったという説や、ひと月で実が熟すため「一熟」→「いちじるく」という説もあります。また呼び名としては南蛮柿(なんばんがき)、唐柿(とうがき)と呼ばれることもあります。
昨年は新潟県産(生産量全国7位)のいちじくでしたが、今年は愛知県産(生産量全国1位)のいちじくです!甘くて美味しい!
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いちじくは、古代エジプトの壁画にもブドウと共に描かれており、さらには、聖書にも数多く登場する歴史ある果物なのです。あの旧約聖書の創世記に登場するアダムとイブが、裸を隠すのに使ったのもいちじくの葉でした!ご存知でしたか?(⌒-⌒; ) 新約聖書には「実のならないいちじくの木のたとえ」として、いちじくが登場しますね。はるか昔にアラビア半島で誕生したいちじくは、少なくとも6000年前には栽培が始まっていたといわれています。その後ヨーロッパからペルシャ、中国へと伝わり、日本へは江戸時代に中国から長崎に運ばれました。当初は薬用として栽培されていましたが、生産量が増えるにつれ食用として親しまれるようになったそうです。美味しい!\(^◇^)/

ところで、このいちじくが、次のとおり新約聖書に「実のならないいちじくの木のたとえ」として登場します。では、ご紹介しましょう!
◯新約聖書:ルカによる福音書・第13章・第6〜第9節
「それから、イエスは次のたとえ話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。切り倒してしまえ。なぜ、土地を無駄に使っているのか。』園丁は答えた。『ご主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥料をやってみます。もし来年実を結べばよし。それで駄目なら、切り倒してください』」
『聖書協会共同訳聖書』から

ぶどう園の持ち主が、ぶどう園にいちじくの木を植えていました。ぶどう園の持主(農夫)にとっては、普通の行為であって珍しいことではありません。いちじくの木は根を広く張りますので、実がならなければ、その木が占めている土地は無駄になってしまうのです。そのため、切り倒して他の実のなる木を植えることは理にかなったことです。この喩え話しは「実のならないこのいちじくの木を切り倒すことをもう少し待ってほしいという番人の願い」が聖句のポイントとなっています。喩え話しに出てくるほど、いちじくは当時から一般的だったのですね。この喩え話しの教えは次のとおりです。

イエス・キリストは、悔い改めない当時のユダヤ人への非難として、この喩え話しを語っておられます。「実のならないいちじく」とは、神様の教えを守らずに背信し続けたイスラエルの民、つまり当時のユダヤ人を表しており、「実り」とは、悔い改め、隣人への愛、赦しのある行為のことを指しています。そして、「番人の願い」とは、忍耐と愛を持って実りを切望する神様の願いを表しています。また、ぶどう園の持ち主が父である神様だとすれば、ぶどう園は神様が造った世界を表しており、「番人」とはイエス・キリスト自身を表していますね。喩え話しに登場する人や物には意味があるのです。

実を実らせないという、神の教えを守らず背信しているイスラエルの民(当時のユダヤ人)を救うために、父である神様によって地上に降誕されたイエス・キリストは、逆に救おうとしたイスラエルの民(当時のユダヤ人)によって十字架に付けられて殺されてしまうのです。それは、すべての人々の罪を背負われてお亡くなりになったイエス・キリストの贖罪が、悔い改めた新しい民となり、いちじくの木に豊かな実がつく=悔い改め、隣人への愛、赦しのある行為を神様は忍耐を持って切望しているのですね。この喩え話しは、そのような神様の恵みと裁きの両方の意味をもって私たちに教えているのです。

この喩え話しによる教えは、昔のイスラエルの民(当時のユダヤ人)だけの昔話しではありません。現在を生きる私たちに与えられた教えでもあります。私たちは、いつも罪を犯してしまいます。でも、その度に何度でも繰り返し立ち直って、神様の恵みにふさわしい実を実らせる生活をしなければなりません。神様の恵みにふさわしい実を実らせることのできない者は、この聖句にあるとおり「もしそれでもだめなら、切り倒してください」となります。つまり、地獄行き!という言い方はどうかな?と思いますが、天の国で神様の食卓に与るという報いを受けることはできないということですね(⌒-⌒; )

【贖罪(しょくざい)】
広い意味では神の救済,償い,和解,ゆるしと同義ですが,イエス・キリストの生と死と復活を通じての神の恩恵として実現される人間の罪からの解放と、これによってもたらされる神との交わりの回復をいいます。
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教会日記2202.10.16(カトリック成城・聖タデオ教会「主日のミサ」日曜日) [教会日記]

今日は、カトリック成城・聖タデオ教会の10時からの主日のミサに与りました。ミサが終わってから、来週(10月23日)のミサの聖歌奉仕で歌う聖歌を練習しました。コロナ感染防止対策のため、聖歌隊全員では歌わず、5人一組で歌うという担当制の聖歌隊です。コロナ渦以前のように会衆(信徒)全員で歌えるようにしたいですね。

練習した聖歌は、次のとおりです。
入祭の歌:典礼聖歌集・第5-11番「あなたの息を」
答唱詩編:典礼聖歌集・第128番「主を仰ぎ見て」①・⑤・⑥
アレルヤ唱:典礼聖歌集・第273番「年間アレルヤ唱」30-C
奉納の歌:典礼聖歌集・第395番「主よわたしが悩む時」①
拝領の歌:典礼聖歌集・第7番「あなたのいぶきをうけて」

ミサでは、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と主を讃え、
続いて
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
とお祈りしました。
続いて、
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」と祈り、
そして、同僚の病と同じ病の私が親しくしているご婦人のお二人が癒されるようお祈りしました。
終わりに、『大天使聖ミカエルへの祈り』をお祈りしました。
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
とお祈りしました。
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「射祷(しゃとう)」のお話し [祈り]

カトリック教会には「射祷(しゃとう)」というお祈りの形態があります。
祈り方には、大きく二つの方法がありますが、一つ目は「口祷(こうとう)」で、祈祷文を口で声に出して唱える祈り方です。二つ目は「念祷(ねんとう)」で、祈祷文を心の中で唱える祈りです。これは「黙想(もくそう)」も含みます。そこで、口祷の中でも最も単純な祈り方をご紹介しましょう。それは、カトリック教会では「射祷」というものです。<ごく短い祈りを口で唱える>、ただそれだけです。つまり、矢を次々に射るように繰り返しお祈りするのです。ものすごく簡単なお祈りの方法ですね。

例えば、「主よ(又はイエス・キリスト)、憐れみ給え。」、「主よ、私たちを哀れんでください。」、「主よ、来てください。」などです。いつ、どこででも、心に思いが浮かんできた時、心の中でも口に出してでも唱えることができる。自分の思いを短い言葉に込めて、まさに矢を射るように、神の心に直接訴えかける祈り方です。その時その時で祈りの祈祷文を換えてもいいいし、自分なりの言葉を決めておいて、それをいつも唱えるのもいいでしょう。自分なりの言葉がだんだんと決まってくるとしめたものです!

同カトリック教会の「連願(れんがん)」や正教会(日本正教会、ロシア正教会、ギリシャ正教会など)の「連祷(れんとう)」と似ていますね。私の場合、お祈りの一つである「絶えざる御助け(おんたすけ)の聖母マリア、私達のためにお祈り下さい。」や「イエス・キリスト憐れみ給え。」を繰り返し祈る射祷をしています。歩いている時はこのお祈りですね。また、いつどこでも声を出してお祈りしたいのですが、電車の中などでは声を出してお祈りできませんので、この場合は射祷をしながら念祷にしてお祈りしています。
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