教会日記2022.10.19(カトリック成城・聖タデオ教会「平日のミサ」水曜日) [教会日記]
今朝は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会での7時からの「平日のミサ」に与りました。今日は晴れるようですが、気温が20度を切って寒くなりますが、今日も清々しい朝を迎えています。
ミサでは、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と主を讃え、
続いて
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
とお祈りしました。
続いて、
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」と祈り、
そして、同僚の病と同じ病の私が親しくしているご婦人のお二人が癒されるようお祈りしました。
終わりに、『大天使聖ミカエルへの祈り』をお祈りしました。
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
とお祈りしました。
ミサでは、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と主を讃え、
続いて
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
とお祈りしました。
続いて、
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」と祈り、
そして、同僚の病と同じ病の私が親しくしているご婦人のお二人が癒されるようお祈りしました。
終わりに、『大天使聖ミカエルへの祈り』をお祈りしました。
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
とお祈りしました。
新約聖書:ルカによる福音書・第22章・第31~32節 [聖書]
「シモン、シモン、サタンは、あなたがたを小麦のようにふるいにかけることを願った。しかし、あなたの信仰がなくならないよう、わたしはあなたのために祈った。それで、あなたが立ち直った時とき、兄弟たちを力づけなさい。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から
※以下「フランシスコ会聖書」と略す
「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
『新共同訳聖書』から
「シモン、シモン、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願い出た。しかし、私は信仰がなくらないように、あなたのために祈った。だから、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを、力づけてやりなさい。」
『聖書協会共同訳聖書』から
※以下「聖書協会聖書」と略す
聖書のこの箇所は、イエス・キリストが磔刑(たっけい:十字架での死刑)される前夜の「最後の晩餐」での一場面です。この晩餐で、イエス・キリストは、使徒(弟子)の頭であるペトロに、ご自分が逮捕されて大祭司の家に連行された時に、「あなたは三度、私を知らないと言う。」と、ペトロがご自分から離反することを予告します。その予告の直前の言葉です。
3つの聖書の訳の違いは、「サタンは、あなたがたを小麦のようにふるいにかけることを願った。」と訳されたフランシスコ会聖書と、「サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。」と訳された新共同訳聖書と、「サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願い出た。」と訳された聖書協会聖書との違いです。
サタンが神に、①「願った。」、②「聞き入れられた。」、③「願い出た。」とあります。①と③の意味は、神に願ったということで同じですが、②は違いますね。②は神に聞き入れられたと「結果」が書かれています。いずれにしても、サタンが神に願っているということです…ということは、神がサタンの存在自体を認めて、神が願いを聞き入れているといことです。
神は、サタンの存在を認めているというか、この世の全てを創られた神ですから、サタンも創られたわけですね。旧約聖書の『ヨブ記』にも天界に顔を出したサタンが出てきます。ただ、『ヨブ記』もそうですが、サタンは神の許可なしには何もできません。神が聞き入れて、しかも神の許可を得ていなければ、サタンは人間に試練などを与えることはできないのです。
ですから、気をつけなければいけないというか、誤解してはいけないことは、サタンの位置づけで唯一の神と対抗して並び立つような、いわゆる「悪の神」ではないということです。この世に善なる神と悪なる神がいて、両者が戦っているという考え方を「善悪二元論」と言いますが、そういう考え方はありませんし、聖書は否定しています。ただ、悪ではあります。
では、なぜサタンが人間に苦しみや悲しみ、試練を与えることを神が認めておられるのでしょうか?それは、あくまでも神様のみ手の中でのことです。最終的なすべての支配は、神様がしっかりと握っておられる。それが神様と悪魔との関係についての聖書の理解です。これは、神様が悪魔やサタンの力を用いて人間に苦しみや試練を与え、信仰者をふるいにかけて試そうとしていると理解すべきではありません。私たちのこの世の歩みには様々な苦しみや悲しみがあり、どうしても説明のつかない、いわゆる不条理・理不尽なことが多々あります。私たちはそれらによってふるいにかけられ信仰を試されます。それがサタンによる試なのみです。
しかし、このみ聖句が示そうとしているのは、そのサタンの試みも主なる神様のみ手の外で起っているのではなく、試練においても私たちを最終的に支配し導いて下さる恵みの神がおられるということです。そのことを信じることによって私たちは、試練の中で、そこにもなお働いている神様のみ心を求めていくことができます。それはとても労苦を伴うことでうし、簡単に答えが得られるようなものでもありません。苦しい問いを抱きながら何年も歩まなければならないこともあります。ですが、そのように苦しみの中にも神様のみ心を求めていくことによってこそ、苦しみは意味を持つものとなっていくのですね。それが信仰ということです。
もしも苦しみが神様のみ手の外にあるとしたら、苦しみに意味はありません。そこでは、何とかして苦しみを逃れるか、あるいはその意味を自分で考え出さなければならなくなります。逃れることもできず、意味を考え出すこともできなければ、絶望するしかありません。それゆえに、サタンによる試練も神様のみ手の下にあるという教えは、大いなる恵みとなるのですね。「サタンがあなたがたをふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」という聖句は、「サタンの願いを聞くなんて、そんなことする神様なんか信じられない!ということにつながるのではなくて、むしろ苦しみや試練の中にある私たちに、希望を与える聖句なのです。
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から
※以下「フランシスコ会聖書」と略す
「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
『新共同訳聖書』から
「シモン、シモン、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願い出た。しかし、私は信仰がなくらないように、あなたのために祈った。だから、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを、力づけてやりなさい。」
『聖書協会共同訳聖書』から
※以下「聖書協会聖書」と略す
聖書のこの箇所は、イエス・キリストが磔刑(たっけい:十字架での死刑)される前夜の「最後の晩餐」での一場面です。この晩餐で、イエス・キリストは、使徒(弟子)の頭であるペトロに、ご自分が逮捕されて大祭司の家に連行された時に、「あなたは三度、私を知らないと言う。」と、ペトロがご自分から離反することを予告します。その予告の直前の言葉です。
3つの聖書の訳の違いは、「サタンは、あなたがたを小麦のようにふるいにかけることを願った。」と訳されたフランシスコ会聖書と、「サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。」と訳された新共同訳聖書と、「サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願い出た。」と訳された聖書協会聖書との違いです。
サタンが神に、①「願った。」、②「聞き入れられた。」、③「願い出た。」とあります。①と③の意味は、神に願ったということで同じですが、②は違いますね。②は神に聞き入れられたと「結果」が書かれています。いずれにしても、サタンが神に願っているということです…ということは、神がサタンの存在自体を認めて、神が願いを聞き入れているといことです。
神は、サタンの存在を認めているというか、この世の全てを創られた神ですから、サタンも創られたわけですね。旧約聖書の『ヨブ記』にも天界に顔を出したサタンが出てきます。ただ、『ヨブ記』もそうですが、サタンは神の許可なしには何もできません。神が聞き入れて、しかも神の許可を得ていなければ、サタンは人間に試練などを与えることはできないのです。
ですから、気をつけなければいけないというか、誤解してはいけないことは、サタンの位置づけで唯一の神と対抗して並び立つような、いわゆる「悪の神」ではないということです。この世に善なる神と悪なる神がいて、両者が戦っているという考え方を「善悪二元論」と言いますが、そういう考え方はありませんし、聖書は否定しています。ただ、悪ではあります。
では、なぜサタンが人間に苦しみや悲しみ、試練を与えることを神が認めておられるのでしょうか?それは、あくまでも神様のみ手の中でのことです。最終的なすべての支配は、神様がしっかりと握っておられる。それが神様と悪魔との関係についての聖書の理解です。これは、神様が悪魔やサタンの力を用いて人間に苦しみや試練を与え、信仰者をふるいにかけて試そうとしていると理解すべきではありません。私たちのこの世の歩みには様々な苦しみや悲しみがあり、どうしても説明のつかない、いわゆる不条理・理不尽なことが多々あります。私たちはそれらによってふるいにかけられ信仰を試されます。それがサタンによる試なのみです。
しかし、このみ聖句が示そうとしているのは、そのサタンの試みも主なる神様のみ手の外で起っているのではなく、試練においても私たちを最終的に支配し導いて下さる恵みの神がおられるということです。そのことを信じることによって私たちは、試練の中で、そこにもなお働いている神様のみ心を求めていくことができます。それはとても労苦を伴うことでうし、簡単に答えが得られるようなものでもありません。苦しい問いを抱きながら何年も歩まなければならないこともあります。ですが、そのように苦しみの中にも神様のみ心を求めていくことによってこそ、苦しみは意味を持つものとなっていくのですね。それが信仰ということです。
もしも苦しみが神様のみ手の外にあるとしたら、苦しみに意味はありません。そこでは、何とかして苦しみを逃れるか、あるいはその意味を自分で考え出さなければならなくなります。逃れることもできず、意味を考え出すこともできなければ、絶望するしかありません。それゆえに、サタンによる試練も神様のみ手の下にあるという教えは、大いなる恵みとなるのですね。「サタンがあなたがたをふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」という聖句は、「サタンの願いを聞くなんて、そんなことする神様なんか信じられない!ということにつながるのではなくて、むしろ苦しみや試練の中にある私たちに、希望を与える聖句なのです。