新約聖書:マタイによる福音書・第26章・第41節 その他 [聖書]

◯新約聖書:マタイによる福音書・第26章・第41節
「誘惑に陥らないよう、目を覚まして祈りなさい。心ははやっていても、肉体は弱いものだ。」

◯新約聖書:マルコによる福音書・第14章・第38節
「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈りなさい。心ははやっていても、肉体は弱いものだ。」

◯新約聖書:ルカによる福音書・第22章・第40節・第46節
「誘惑に陥らないように祈りなさい。」、「誘惑に陥らないように、起きて祈りなさい。」
以上の聖句は、『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

この聖句(イエス・キリストの言葉)は、イエス・キリストが磔刑(たっけい:十字架の刑)に処せられる前夜、ゲッセマネの園で律法学者やファリサイ派の人々に捕らえられる直前、弟子達に「誘惑に陥らないように祈りなさい」と説かれた場面でのことです。
誘惑は、サタン(悪魔)の仕業(しわざ)と捉えます。サタンの存在理由は、人間を罪に陥らせるためです。そのための方法が誘惑なのです。私達が誘惑に抵抗して戦う時、なによりの武器となるのが“祈り”です。それがどのような誘惑であろうと、祈りは欠かすことのできない私たちの武器となります。ロザリオの祈りも然りです。
サタンが人間を誘惑する目的は、私たちを罠にはめて<神の恩寵(おんちょう)から遠ざける>ことなのです。「神の恩寵から遠ざける。」とは、言い方を変えると、誘惑に陥って「悪い行いをさせる。(してしまう。)」ということになるです。

祈りは神様との交わりであり、誘惑の目的と正反対のものです。祈りは、私達から神様への交わりをつなげてくれます。その祈りの中で神様に近づく時、神様から与えられる慈しみ、慰めと愛、そして敵に立ち向かう勇気を与えてくれるのですね。
ここでは、誘惑は弟子達が陥る可能性のあるものであり、それに対する正しい対応は祈りであることが語られています。ですから、祈りと誘惑は正反対のものなのです。もし彼らが祈らなければ、誘惑に陥る結果になることは明らかだったのです。

祈りの中で神様との交わりを持ち、神様とつながり、自分の必要な励ましや助けを祈りの中でいただくことは、誘惑への防御となります。決して誘惑が来ないという意味ではありません。誘惑は、常に私たちを取り巻いています。しかし、ここで確かなのは、もし誘惑が来たら、もしくは誘惑が来る時、祈りは私達の信仰を堅固にさせると共に、誘惑の罠にはまることから逃れさせてくれるのです。このことは、私の最も自戒とすることです。

【誘惑】
心をまどわせ、悪い道へさそいこむこと。また、そのさそい。「悪い仲間に-される」、「-にうちかつ」
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豚カツ大好き日記2022.8.25(四ツ谷「名代トンカツ かつ満」) [豚カツ大好き日記]

一週間前の17日(水)に、カトリック麹町・聖イグナチオ教会の敷地内にある「イエズス会聖三木図書館」に行った折り、JR四ツ谷駅近くにある「CO・MO・RE Mall(コモレモール)」2階の豚カツ専門店「名代トンカツ かつ満」で、大好きなロースカツ定食を食べました。このブログに掲載するのを忘れていました( ̄▽ ̄;) トッピングに海老フライを一本追加しましたが、これが超特大サイズで、本体のロースカツよりも大きく、これ一本でご飯一膳は軽くいけます!
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教会日記2022.8.24(カトリック成城・聖タデオ教会「ロザリオの祈り」水曜日) [教会日記]

今朝は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会で6時20分から「ロザリオの祈り」を一環お祈りしました。まだコロナ渦にあるということで、水曜日と土曜日の平日のミサは、中止となっています。ですから、毎水曜日は成城教会でロザリオの祈りを一環お祈りしているのですが、水曜日だけは9月の第2週から平日のミサが復活します!でも、土曜日はまだお休みだそうです。今日も清々しい朝を迎えています。

「ロザリオの祈り」を終えて、祈願しました。
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と主を讃えて、
続いて
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
とお祈りしました。
続いて、
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」と祈り、
そして、同僚の病と同じ病の私が親しくしているご婦人のお二人が癒されるようお祈りしました。
終わりに、『大天使聖ミカエルへの祈り』をお祈りしました。
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
とお祈りしました。

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「聖バルトロマイ使徒」のお話し [聖人・福者・尊者]

今日8月24日は、イエス・キリストの12使徒(弟子)の一人である聖バルトロマイ使徒の祝日です。
聖バルトロマイは、イエスの12使徒の1人で、別名ナタナエルとも呼ばれ、イスラエルのカナに生まれ育ちました。使徒であった友人フィリポの勧めでイエス・キリストと出会ったとき、イエスは「まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」(ヨハネによる福音・第1章・第47節)とバルトロマイのことを言いました。この出会いをきっかけに、彼は弟子としてイエス・キリストに従いました。

伝承によると、イエス・キリストの復活後、彼はインドとアルメニアで宣教し、インド又はアルメニアで殉教したとされています。彼の遺骸は、983年にローマに移され、聖堂に安置されました。職人の守護の聖人とされています。日本では、キリシタン時代にとても尊敬されていた聖人であり、最初のキリシタン大名大村純忠が洗礼を受けた際に、聖バルトロマイを守護の聖人に選んだといわれています。肖像画は、皮剥ぎの刑で殉教したといわれていることから、例えば、バチカンのシスティーナ礼拝堂に描かれているミケランジェロ作の「最後の審判」には、剥がれた自分の皮とナイフを持った姿で描かれています。ただ、この皮の顔はミケランジェロの自画像になっているとのことです。

ミケランジェロの大作「最後の審判」です。
最後の審判.jpg
聖バルトロマイが、剥ぎ取られた自分の全身の生皮を持っています(; ̄O ̄)上の絵の中心にいるイエス・キリストの右下に描かれています。聖バルトロマイは、アルメニアで伝道活動をしていたときに既存宗教の指導者から恨まれ、捕らえられて生きながら皮を剥がれて殉教したことから描かれているのです。
バルトロマイ.jpg
◯新約聖書:ヨハネによる福音書・第1章・第45~第51節
「フィリポはナタナエルを見つけて言った、「わたしたちは、モーセが律法の書に記し、預言者たちも書き記している人を見つけました。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスです」。すると、ナタナエルは、「ナザレから、何か善いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。
イエスは、ナタナエルがご自分の方へ来るのを見て、彼についてこと仰せになった。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には嘘偽りがない」。ナタナエルが、「どうして、わたしをご存知なのですか」と尋ねると、イエスは、「フィリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを、わたしは見た」とお答えになった。
ナタナエルは答えた、「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」。イエスはさらに答えて仰せになった、「あなたがいちじくの木の下にいるのを見たと言ったので、あなたは信じるのか。これよりもって素晴らしいことをあなたは見る」。また、仰せになった、「よくよくあなた方に言っておく、天が開けて神の使いたちが人の子の上に昇り降りするのを見ることになる。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から
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教会日記2022.8.23(カトリック成城・聖タデオ教会「平日のミサ」火曜日) [教会日記]

今朝は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会での7時からの「平日のミサ」に与りました。今日も一日中曇り空のようですね。でも気温は30度は超すそうです。私は今日も清々しい朝を迎えています。

ミサでは、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と主を讃えて、
続いて
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
とお祈りしました。
続いて、
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」と祈り、
そして、同僚の病と同じ病の私が親しくしているご婦人のお二人が癒されるようお祈りしました。
終わりに、『大天使聖ミカエルへの祈り』をお祈りしました。
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
とお祈りしました。

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「ミサにおける聖書朗読について」のお話し [キリスト教関係事項・用語等]

主日のミサでも平日のミサでも、ミサの司式の中に第一朗読(旧約聖書から)と第二朗読(主日のミサのみ(一部平日のミサもあり)・新約聖書の書簡から)があります。この両方の朗読は、どこの教会も、その日のミサに与る会衆(信徒)で、予め決められた「朗読奉仕者」が朗読することになっています。「ミサの中で、なぜ聖書朗読があるのか」ということについては、別の日に改めて書くとして、今日は、ミサ中の大切な聖書(聖句)朗読を「いかに朗読するのか」ということに限定して論じてみたいと思います。

まず初めに、この朗読の心得・心構えについてですが、『朗読聖書の緒言(第14項)』によると、(1)聞き取れる声で、(2)はっきりと、(3)味わえるように読むことが大原則ということです。(1)の「聞き取れる声で」は、声の大きさの問題だと思います。ほとんどの教会の聖堂ではマイク設備がありますので、地声はそれほど大きくなくても、マイクを通して聖堂座席の最後列まで聴こえる声の大きさであればいいと思います。ですから、ミサの前にあらかじめ誰かに聴いてもらい、事前確認することが必要だと思います。

(2)の「はっきりと」は、声の大きさも影響すると思いますが、それよりも滑舌(かくぜつ)の問題だと思います。声を出すときの口の開け方ですね。口の中でモグモグ言っているようでは、はっきりと聞こえないですよね。立ち話などで、相手一人に話しているわけではありませんので、ある程度はハキハキと話す必要があると思います。これは、朗読する当日では対処できませんから、普段から「あ、え、い、お、う」という発声練習とまでは言いませんが、朗読する箇所をハキハキと読む練習をする必要がありますね。

(3)の「味わえるように」ですが、これは、まず技術的には①話す速度と②話す抑揚(よくよう)の問題だと思います。①の「朗読の(読む)速度」は、“早からず遅過ぎず”ですね。どちらかというと早くならないことです。早く朗読すると、聞いている会衆(信徒)が朗読している聖句を心に感じることなく、朗読後、なにも心に残らないということになります。つまり、もったいないことに聖句が素通りするだけになるのです。ですから、早くならないように朗読の出だし(読み始め)が大切になります。最初が早いと後々早くなってしまいます。最初を落ち着いて読み始めることです。

②の「朗読の(読む)抑揚」は、とにかく最低限“棒読み”しないことです。句読点があれば、朗読を寸時切ることです。朗読聖句中のポイントとなる重要だと思われる箇所は、少し語気(声)を強めて読むことなどの工夫をすることですね。ただ、抑揚は、やり過ぎる演劇みたいになって、かえって不自然になりがちですから注意が必要です。まぁ、自分で試行錯誤するしかないですね。手っ取り早い一番の方法は、朗読を録音して自分で聴いてみることです。スマホでも録音できますから、是非やってみてください。この「味わえるように」は、私の経験上一番難しい大原則だと思います。

以上です。技術的なことばかり、生意気なことを書いてしまいました。 本当は、もっと心的なことを書きたかったのです………が、なかなか難しいですね。それは、実は私自身が一番できていないからなのです! ( ̄◇ ̄;) まだまだ修行中なのであります!(⌒-⌒; ) ということで、上手く朗読する秘訣があるとすれば、それは”一に練習、二に練習”しかないと思います。とにかく①実際に声に出して練習すことです。そして、私も恥ずかしいと思いますが、②誰かに聞いてもらうことです。聴いてもらってアドバイスを得ることですね。これが上手くなる近道ですし、正攻法だと思います。

私は、以前所属していたカトリック町田教会の土曜日の夜の主日のミサに毎週与ていたのですが、必ずと言っていいほど毎週第二朗読を担当していました。ですから、自分のことを「第二朗読専門の◯◯です」と名乗るほど朗読に自信がありました。しかし、ある日のこと、親しい信徒の方から「◯◯さんの朗読は、声は大きくハッキリしていて聴こえやすくていいんだけど、読むのがものすごく早いよね。あれじゃ、お年寄りは何を朗読しているのか分からないんじゃない?」と指摘され、我に返ったことがあります。それまで人から指摘されたことがなかったものですから、ある意味ショックでしたが、自惚れた自信ほど厄介なものはありません( ̄▽ ̄;)

そこで、反省して練習に練習を重ね、恥ずかしかったですが指摘していただいた方に聴いてもらい、「この朗読なら最高だよ!」とお褒めいただきました。大いに勉強となり良い経験ができました。このことを先日思い出し、また朗読のスピードが早くなっているな~と、元に戻っていると感じるようになりました。またまた反省です( ̄▽ ̄;) ところで、私が所属するカトリック成城・聖テデオ教会に、ミサで惚れ惚れするような声の質、声の大きさ、話す間の取り方などなど、素晴らしい話し方をする男性信徒がいます。まだご挨拶程度の会話しかしたことがないのですが、一度、私の朗読を聴いてもらいアドバイスをいただこうと思っています。

「いかに朗読するのか」を述べてきましたが、最後に、このブログに先日8月20日に掲載した「『典礼奉仕への招き』のご紹介」の記事で、ご紹介した本に書かれている朗読に際して肝に銘じようと思った一節(P107の「2 朗読の際の心得)をご紹介いたします。
「聖書朗読はただ「読むこと」というだけではありません。読みながら、やはり神のことばに耳を傾ける行為です。集会を代表して、自分の肉声をもって、神のことばを受けとめる役目なのです。それを心をこめて行えば、おのずと集まっている人々の、神のことばを聴く心も育っていくことでしょう。そのような朗読と拝聴の実践をとおして、「教会は神のことばによってたてられ、成長していくのです。(『朗読聖書の緒言(第7項)』)」
この本は、私がミサの奉仕活動の教科書として愛読しているものです。次のアドレスをクリックしてお読みください。https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2022-08-20-1

《おまけ》
現在はコロナ渦にありますので、マスクはつけたままミサに与ることになりますが、これがなかなか話す時の障害になりがちです。ハッキリと喋れなかったり、聴き取れなかったりします。そこで、便利なものがありますのでご紹介いたします。皆さんすでにご存知のものだと思いますが、写真手前のマスクに入っているのは、私がミサの聖歌奉仕で使っているマスクの内側に入れて使う「マスク・インナーフレーム」というものです(名称はいろいろあるようです)。
聖歌を歌う時は、いわゆる合唱専用のマスクを使うのですが、普段用のマスクと持ち替えるのが面倒ですから、今年からは普段用のマスクにインナーフレームを入れて歌っています。これを付けないと、歌う時の呼吸と発声がうまくできず、声がこもりがちになるものですから聖歌奉仕時の必需品となっています………ということで、これをミサの朗読奉仕と先唱奉仕にも使っています。やはり呼吸がしやすく声の通りがいいですよ!写真上側のように、いろいろな形のものがあります。
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教会日記2022.8.22(カトリック成城・聖タデオ教会「平日のミサ」月曜日) [教会日記]

今日は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会での7時からの「平日のミサ」に与りました。天気予報では、一日中曇り空のようで、気温も30度はいかないようです。久しぶりに涼しく感じます。私は今日も清々しい朝を迎えています。

ミサでは、「天の元后聖マリア」様の記念日をお祝いしてお祈りしました。また、第一朗読を担当して朗読しました。
そして、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と主を讃えて、
続いて
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
とお祈りしました。
続いて、
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」と祈り、
そして、同僚の病と同じ病の私が親しくしているご婦人のお二人が癒されるようお祈りしました。
終わりに、『大天使聖ミカエルへの祈り』をお祈りしました。
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
とお祈りしました。

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「天の元后聖マリア」のお話し [キリスト教関係事項・用語等]

今日8月22日は、天の元后聖マリアの記念日です。
この記念日は、1954年に教皇ピオ12世が発表した回勅“Ad Caeli eginam”(アド・チェリ・レジナム)によって定められました。この回勅のなかで、教皇は「マリアは神の母であり、新しいエバとしてイエスのあがないの業に参与した。また、卓越した完徳と、力強い取り次ぎによって、天の元后と呼ばれるにふさわしい方である」と述べています。以前は5月31日でしたが、典礼暦の改訂後、聖母被昇天の8日目にあたる8月22日に祝われるようになりました。
スペインの画家ディエゴ・ベラスケスの「聖母戴冠(1641~1644年)」です。スペイン・マドリッドにあるプラド美術館に収蔵されています。
聖母戴冠.jpg
聖書の中には、イエス様が王として描かれている箇所がいくつかあります(マタイ27.11、黙示録19.16など)が、聖母マリア様は、神から遣わされた大天使ガブリエルから、生まれてくる子が「いと高き方の子」であり、ダビデの王座が与えられることを告げられていました。その時から、聖母マリア様はイエス・キリストの母となり、生涯にわたって特別にイエス様の救いの業に協力しました。4世紀の教父、聖エフレム(306年ごろ-373年)は多くの賛歌を残し、マリアを「元后、女王」と呼んで讃えています。その後、この称号は教父や教会博士たちによって好んで用いられ、人々に親しまれるようになりました。

カトリック教会の公会議である第2バチカン公会議で発表された会議文書の「教会憲章」は、「原罪のいかなる汚れにも染まらずに守られていた汚れないおとめは、地上生活の道程を終えて、肉体と霊魂ともども天の栄光に引き上げられ、そして主からすべてのものの女王として高められた。それは、主たる者の主であり(黙示録19.16)、罪と死の征服者である自分の子に、マリアがよく似たものとなるためであった」と述べています。天に上げられた聖母マリア様は、王であるイエス様の栄光にあずかり、女王として讃えられ、すべての人のために恵みを取り次いてくださっています。

聖母マリア様を讃えて祈る祈祷文はたくさんありますが、次に掲載する聖母マリア様へのお祈りは、伝統的なお祈りの祈祷文です。短い祈祷文ですので、見ながらではなく覚えてお祈りしたいものですね。
◯救い主を育てた母(アルマ・レデンプトリス・マーテル)
「救い主を育てた母、あなたは開かれた天の門
光り輝く海の星
倒れる者に走り寄り、力づけてくださる方。
すべてのものがたたえる中で、造り主を生んだ方。
ガブリエルから言葉を受けた永遠(とわ)の乙女よ、
罪深いわれらのために祈り給え。」

◯天の元后 天の女王(アヴェ・レジナ・チュロルム)
「天の元后 天の女王、
世に光を生み出した、いのちの泉、天の門
よろこべ、輝く乙女、すべてにまさる尊い乙女
われらのためにキリストに祈り給え。」

◯元后あわれみの母(サルヴェ・レジナ)
「元后、あわれみの母、われらのいのち、喜び、希望。
旅路からあなたに叫ぶエバの子、なげきながら、
泣きながらも、涙の谷にあなたを慕う。
われらのためにとりなすかた、憐れみの目をわれらに注ぎ、
とうといあなたの子イエスを、旅路の果てに示してください。
おお、慈しみ、恵みあふれる、喜びのおとめマリア。」

◯天の元后 よろこび給え アレルヤ(レジナ・チェリ)
「天の元后、よろこび給え アレルヤ
あなたに宿られた方は アレルヤ
仰せのように復活された アレルヤ
われらのために祈り給え アレルヤ」

◯神の御母(みはは)よ(スブ・トゥウム・プレシディウム)
「神の御母よ、わたしたちはご保護を仰ぎます。
いつ、どこでもわたしたちの祈りを聴き入れ、
御助け(おんたすけ)をもってすべての危険から守ってください。」
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教会日記2202.7.17「聖歌練習(聖歌隊全体練習) [聖歌日記]

今日は、朝は自宅でゆっくりし、カトリック成城・聖タデオ教会の主日のミサが終わってから、11時から12時30分まで、聖歌隊の全体練習だけに参加しました。今日の「年間第21主日のミサ」は、昨夕の成城教会で与っています。現在の聖歌奉仕は、まだコロナ渦にあることから、日曜日10時からの主日のミサを5人一組で活動しています。ミサに与っている早く会衆(信徒)全員で歌えるようにお祈りいたします。
ところで、先々週から聖歌隊員募集のポスターを聖堂入口と信徒館入口に掲示していますが、なんと!本日の全体練習にお二人が見学に来ました!ポスター効果がありました!
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河野進のことば(詩)(第4日目) [キリスト者(クリスチャン)]

『口ぐせ』
「きみ
天国を知ってるかね
知りません
人をほめるところだ
地獄を知ってるかね
知りません
人の悪口をいうところだ
賀川豊彦のくちぐせであった」

河野進のことは、「河野進のことば(詩)(第1日目)2022.8.7」をご覧下さい。賀川豊彦の詳細は、「今日の言葉(クリスチャン)2012.7.24」
https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2012-07-24 に掲載していますのでご覧下さい。私は、交際範囲が広いため、他人の悪口を聞く機会に恵まれ過ぎています(⌒-⌒; )………ですから悪口を言う機会も多くなるとは言いたくありませんが、ついつい他人の悪口に乗ってしまいます(; ̄O ̄)………20代の若い頃は、呑み会となると上司の悪口で大いに盛り上がりましすた!………反省です。この歳になると、さすがに他人の悪口をいう気力?がなくなっていますが、悪口は“悪意”の一つですから絶対に言ってはいけないのです。クリスチャンともあろう者が、他人の悪口を言うなど地獄行きです!………とまではいかないものの、「告解(こっかい)」はしなければなりませんね。聴罪司祭に悪口を言った罪の告白をして『赦しの秘蹟(ゆるしのひせき)』を授けてもらうことです。今日も私の最も自戒とす
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