賀川豊彦のことば [キリスト者(クリスチャン)]

「子供は食う権利がある。
子供は遊ぶ権利がある。
子供は寝る権利がある。
子供は叱られる権利がある。
ところが本当に子供を叱る人が少なくて、
怒る人が多いのである。」

賀川豊彦(かがわ とよひこ:1888年~1960年)は、キリスト教プロテスタントの牧師です。
大正・昭和初期のキリスト教社会運動家で、戦前日本の労働運動、農民運動、無産政党運動、生活協同組合運動において、重要な役割を担った人物です。
日本農民組合を創設し、イエス団を創始するなどキリスト教における博愛の精神を実践した「貧民街の聖者」として世界的に有名なのですが、悲しいかな日本国内では知らない方が多いのです。
長くなりますがご紹介します。(以下「ウィキペディア」から引用、全体的に削除、加筆修正しています。)

神戸市で回漕業者の子どもとして生まれ、幼少期に相次いで父母と死別しています。
旧制徳島中学校に通っていた1904年(明治37年)、日本基督教会徳島教会において受洗。
この時期にキリスト教社会主義に傾倒し、伝道者を志して1905年(明治38年)に明治学院高等部神学予科に入学、卒業後の1907年(明治40年)に新設の神戸神学校に入学しています。
結核に苦しみ、また信仰への懐疑に煩悶しながら、やがて「貧民問題を通じて、イエスの精神を発揮してみたい」と一念発起し、1909年(明治42年)に神戸市新川のスラムに住み込み、路傍伝道を開始、1911年(明治44年)に神戸神学校を卒業、1912年(大正元年)には一膳飯屋「天国屋」を開業しています。

女工のハルと貧民窟で出会い、1913年(大正2年)に神戸の教会で簡素な結婚式を挙げました。ハルは15歳で下女となるために上京した女性でした。賀川は貧民窟で下層の貧民らを招き、豪華な披露宴を行って下層民たちにご馳走をふるまい、妻ハルを紹介しながら「私はみなさんの女中をお嫁にもらいました。あなた方の家がお産や病気で手が足らなくて困った時には、いつでも頼みに来てください。喜んで参ります。」と話しています。
1914年(大正3年)に渡米し、プリンストン大学・プリンストン神学校に学び、1917年(大正6年)に帰国し、神戸のスラムに戻り無料巡回診療を始めました。

また、米国留学中の体験から貧困問題を解決する手段として労働組合運動を重要視した賀川は、1919年(大正8年)に友愛会関西労働同盟会を結成、理事長に就任。
同年日本基督教会で牧師の資格を得、1920年(大正9年)に自伝的小説『死線を越えて』を出版、一大ベストセラーとなり、賀川の名を世間に広めました。印税はほとんど関与した社会運動のために投じたそうです。
また同年、労働者の生活安定を目的として神戸購買組合(灘神戸生協を経て現・コープこうべ=日本最大の生協)を設立、生活協同組合運動にも取り組み、また、武藤富男らと共にキリスト教系業界紙「キリスト新聞」を立ち上げました。

1921年(大正10年)、神戸の三菱造船所、川崎造船所における大争議を指導するも、会社側の強硬な対応により敗北を喫し、これを契機に、周りから暴力を否定して、時には無抵抗主義を唱える賀川の人格主義的な主張は、次第に敬して遠ざけられるようになり、やがて農民運動に活躍の場を移すことになりました。
1922年(大正11年)、日本農民組合を設立し、本格的に農民運動に取り組み、組合は急速に発展し、3年後の1925年(大正14年)末には組合員数は7万人を超えました。
この間、1923年(大正12年)に関東大震災罹災者救済活動を行い、また、無産政党運動にも積極的に関与して1926年(大正15年)の労働農民党結成に当たっては執行委員に就任するが、同年末の左右分裂に際して党を脱退しています。

1920年代後半以降は、社会運動から宗教活動へと比重を移し、1929年(昭和4年)、日本基督教連盟の特別協議会は賀川の主導により「神の国運動」を議決、賀川は「百万人の救霊」を目標として、1932年(昭和7年)まで全国を伝道のため巡回しました。
また米国・中国・欧州等世界各国で講演活動を行い、1941年(昭和16年)4月、リバーサイド日米キリスト者会議に参加、 第二次世界大戦に関しては国際戦争反対者同盟に属したが、1943年(昭和18年)11月の憲兵隊による取調べを境に同同盟を脱退、国際友和会日本支部を自ら解散しています。
太平洋戦争後期において(一説には太平洋戦争当初から)、多くの宗教家と同じく戦争に協力的な姿勢であったそうです。

戦後は東久邇宮内閣参与や勅選貴族院議員を務め、日本社会党の結成にも参画、民間人として初めてマッカーサーに会った人物であるとされています。
終戦直後の目立った活動としては「一億総懺悔運動」への協力が挙げられます。
東久邇宮稔彦王の後任首相として有力であったらしいのですが、戦時中の翼賛的な活動が原因で実現しなかったとのことです。
幣原内閣解散後の吉田内閣組閣の難航に伴い、総理大臣候補として名が挙がったこともあるそうです。
晩年は世界連邦運動に取り組み、1947年(昭和22年)と翌1948年(昭和23年)には、なんとノーベル文学賞の候補となり(1947年は候補48人中、1948年は候補45人中)、 1954年(昭和29年)から1956年(同31年)の3年連続でノーベル平和賞候補者として推薦されています。これは本当にすごいことですね。
労働運動・社会運動の指導者的立場ながら、昭和天皇・皇室の熱烈な支持者でもあり、社会における天皇制の存在意義を積極的に認めていたとそうです。

ちなみに、アメリカ・ワシントンにあるキリスト教聖公会の「ワシントン大聖堂」には、日本人としてただ一人、賀川豊彦の彫像があります。
身を粉にしてボロ雑巾のようにして市民のために働き、生涯をキリストの教えにしたがい、その一身を捧げた崇高な日本人です。
長くなりましたが以上です。

今日の言葉ですが、第二次世界大戦前後の貧しい時代が背景にあると思います。
言葉の最後のところにある「叱る人が少なくて、怒る人が多いのである。」ですが、怒るということは、相手(子ども)に対して「愛情」が無いという証拠ですね。愛情があれば怒ることはありません。
この場合は「叱る」ということになるのでしょうね。難しいですが「諭す」で済めば幸いです。
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