「聖セシリアおとめ殉教者」のお話し [聖人・福者・尊者]

先日の日曜日11月22日は、聖セシリア(2世紀頃、生没年不詳)の記念日でした。日曜日は、主日であり「王であるキリスト」の祭日でしたから、ころっと忘れていました( ̄▽ ̄;) 聖セシリア様、ごめんなさい!…………ということで、このブログの2019年11月22日に掲載した記事を再掲載いたします。聖セシリアは、キリスト教のカトリック教会、聖公会・正教会の聖人に列せられています。特にカトリック教会では有名な聖人であり、音楽家と盲人の守護聖人となっています。ちなみに、同日で「王であるキリスト」の祭日ですので、ミサではそちらが優先しますから聖セシリアの記念は行われません。ただし、教会の守護聖人が聖セシリアに捧げられているのであれば別ですね。

名前は、英語ではシシーリア、スペイン語ではセシーリア、イタリア語および中世ラテン語ではチェチーリア、ドイツ語ではツェツィーリア、フランス語ではセシルないしはセシール、古典ラテン語ではカエキリアと呼ばれますね。日本のキリスト教では、西方教会では“セシリア”の表記が一般的である他、特にカトリック教会ではラテン語の教会式発音に基づいて“チェチリア”とも呼ばれることもあります。東方教会の教正教会ではキキリヤと呼ばれます。なお、ローマ皇帝ディオクレティアヌスにより、アフリカで刑死した聖セシリア(祝日:2月11日)と別人です。

ローマの裕福な貴族の家に生まれ、父親の意志により、キリスト教の信徒ではない青年バレリアノと結婚しましたが、彼女は、神のために生涯貞潔を守ることを彼に話しました。彼女の熱心な信仰態度に心を打たれたバレリアノは、弟ティブルツィオと共に洗礼を受け、そして、彼らは迫害されて殉教した人びとの遺体を引き取り手厚く葬っていました。これがローマ総督の耳に入り、バレリアノと弟は捕えられ、信仰を捨てるように命じられましたが拒んだため、2人は斬首刑となりました。セシリアは、彼らの遺体を引き取り埋葬しました。その後、自分の家をカタコンブ(地下墓地)にしたり、聖堂(のちに聖セシリア教会と呼ばれる)にしたことが総督に知られ、捕えられて棄教するように強要されました。
彼女がむし風呂の刑にあっても、苦痛もなく、汗ひとつかかなかったので、最後は首を切りつけられて、3日間の苦しみののち殉教したそうです。他に伝説によれば、セシリアは斬首刀の3打を耐え抜いて死刑を中止され、その後3日間生き延びたという話も伝わっています。信者たちはセシリアの遺体をカタコンブに葬りましたが、1599年に墓が開けられた際、聖女の遺体は千数百年を経てなお生々しく保存されていたそうです。

写実的に表現されたマデルノ作の聖セシリアの彫刻(写真)は有名です。聖セシリアは、首を切りつけられ、3日間の苦しみの後に殉教したことから、彫刻にも首に切りつけられた痕があります。
聖セシリア.jpg
聖セシリアは、伝説によると神を賛美するのに楽器を奏でながら歌ったと言い伝えられており、多くの絵画には楽器と一緒に画かれています。この絵は、シモン・ヴーエ作「聖セシリア(1626年)」です。
セシリア2.jpg
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教会日記2020.11.26(カトリック成城・聖タデオ教会「平日のミサ」木曜日) [教会日記]

今日も出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会の7時からの平日のミサに与りました。今日で、6月20日(土)にミサ(条件付き公開ミサ)が再開されてから160日間連続してミサに与ったことになります!平日(7時から)のミサがない土曜日(土曜日は18時から主日のミサ)を除いて毎日4時15分起きです!よく続いているものですね( ̄▽ ̄;) ところで、今朝は寒いですね~( ̄▽ ̄;) コロナも怖いしインフルエンザも怖いし、風邪をひかないようにしなければなりません!今日も爽やかな朝を迎えています!

ミサでは、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
と気持ちを込めてお祈りしてきました。
また、行方不明となっている小学2年生の小倉美咲ちゃんが、元気な姿で両親の元に帰れるようにお祈りし、同僚の病が癒されますように、同僚のお嬢さんが健康な体となって元気に学校に通えるようにとお祈りしました。
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城山三郎のことば(第3日目) [キリスト者(クリスチャン)]

「人生の持ち時間に大差はない。問題はいかにして深く生きるか、である。
深く生きた記憶をどれほど持ったかで、その人の人生は豊かなものにも、貧しいものにもなるし、深く生きるためには、ただ受身なだけではなく、あえて挑むとか、打って出ることも肝要となろう。」

城山三郎のことは、「城山三郎のことば(第1日目)2020.10.16」をご覧ください。
私には、この言葉は至極名言だと思います。ただ毎日を仕事と家庭だけで過ごしている(生きている)だけでは、人間としての“存在意義”がないと思います。せっかくこの世に生を受けたのであれば、“使命をもって積極的に生きる”ということを実践すべきです。これが「深く生きる」ということだと解釈します。

私の場合は、“人の為に為す”という生涯の使命が「深く生きる」ということになりますが、だれでもこの世(社会)に貢献できる何かを持っているのです。ただ、平凡に生活していると(受け身だと)気づかないですね。例えばボランティアで何かのお世話をするとか、趣味を生かして周りの人たちを楽しませるとか、なんでも考えられます。死に臨む時(即死でなければ)、ベッドに横臥して「納得の人生、この世に未練なし。神様の思し召し。」と一言つぶやいてから復活するまでの眠りにつきたいですね。
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