教会日記2020.11.9(カトリック成城・聖タデオ教会「平日のミサ」月曜日) [教会日記]

今日は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会の7時からの平日のミサに与りました。新しい一週間が始まり、今朝も爽やかな一日を迎えています!しかし、寒いですね~(≧▽≦) お風邪を召さないように!

ミサでは、今日の「ラテラン教会の献堂」の祝日をお祝いしてお祈りしました。そして、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
と気持ちを込めてお祈りしてきました。
また、行方不明となっている小学2年生の小倉美咲ちゃんが、元気な姿で両親の元に帰れるようにお祈りし、同僚の病が癒されますように、同僚のお嬢さんが健康な体となって元気に学校に通えるようにとお祈りしました。

【ラテラン教会の献堂】
今日11月9日は、「ラテラン教会の献堂」の祝日です。4世紀のはじめ、ローマ皇帝コンスタンティヌスはキリスト教を国教と定め、ラテランに聖堂を建てました。この聖堂が神にささげられたものとして記念されたのがこの日す。ラテラン大聖堂は、ローマ司教である教皇の司教座であり、「全世界のすべての聖堂の母および頭」ということです。最初の名は「救い主大聖堂」と呼ばれいましたが、13世紀に聖ヨハネの名が加えられ、現在は「ヨハネ大聖堂」として通用しています。現在の大聖堂は、14世紀の火災にあって再建されましたが、当時の形もいくらか残っています。教会の献堂式を毎年記念する習慣は、古くからの伝統となっています。そのためカトリックでは、各教区の大聖堂とローマの4つの大聖堂、聖ペトロ大聖堂と聖パウロ大聖堂(11月18日)、聖マリア大聖堂(8月5日)、そしてラテラン大聖堂を祝っています。



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新約聖書:ルカによる福音書・第10章・第25〜第37節 [聖書]

今日は、新約聖書の「ルカによる福音書」から、《善いサマリア人》のたとえ話しを掲載いたします。このブログに何回も掲載してきましたが、イエス・キリストのたとえ話しの中でも、特に有名であり、わかりやすい話しの内容となっています。それでは、聖書の該当する部分を掲載いたします。なお、聖書は「原文校訂による口語訳 フランシスコ会聖書研究所訳注 新約聖書」からです。

「すると、一人の律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして尋ねた、
『先生、どうすれば、永遠の命を得ることができますか。』
そこでイエスが仰せになった。
『律法には何と書いてあるか。あなたはどう読んでいるのか』。
すると、彼は答えた。
『《心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛せよ。また、隣人をあなた自身のように愛せよ》とあります。』
イエスは仰せになった。
『あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、生きるであろう。』
すると、彼は自分を正当化しようとして、
イエスに『わたしの隣人とはだれですか』と言った。
イエスはこれに答えて仰せになった。
『ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、強盗に襲われた。彼らはその人の衣服をはぎ取り、打ちのめし、半殺しにして去っていった。たまたま、一人の祭司がその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。また、同じように、一人のレビ人がそこを通りがかったが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていた、一人のサマリア人がその人のそばに来て、その人を見ると憐れに思い、近寄って、傷口に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をした。それから、自分のろばに乗せて宿に連れていき、介抱した。翌日、サマリア人はデナリオン銀貨二枚を取り出し、宿の主人に渡して言った。《この人を介抱してください。費用がかさんだら、帰ってきた時に払います。》さて、あなたは、この三人のうち、強盗に襲われた人に対して、隣人となったのは、誰だと思うか。』
律法の専門家が、『憐れみを施した人です。』と言うと、
イエスは仰せになった。
『では、行って、あなたも同じようにしなさい。』」

聖書のこの部分は、「善きサマリア人のたとえ」と言われている有名なところです。イエス・キリストが話された喩え話し(たとえばなし)の状況設定(背景)は、エルサレムからエリコに下っていく途中の出来事で、当時のユダヤ人とサマリア人の関係は、ユダヤ人がサマリア人を見下して一切交際せず、とにかく仲が悪い断絶された関係でした。そのサマリア人がユダヤ人を助けるという、異例中の異例ともいえる話しの内容になっており、質問した法律の専門家には、到底考えも及ばない状況設定となっているのです。

また、「律法の専門家」とは、当時の律法学者(ユダヤ人)のことで、律法・教義を厳格に守っている民の指導者と自負してはいますが、実際、その中身は形骸化しており、聖書にある神の教えをないがしろにし、自分たち人間が勝手に作った決まり事を掟にして、貧困者などの弱者を自らは一切救済しようとしない当時の特権階級的な人たちのことです。イエス・キリストは、この人たちのことを見抜いており、たとえ話しをもって、まず「隣人を自分のように愛すること」の一つとして、誰彼なく慈愛をもって困っている人を助けることの大切さを教えています。この行為が愛ですね。この教えが律法学者にはまったくないのです。

そして、イエス・キリストは、問題を提出したことを弁明したり、自分は正しいことをしていると面目を保つための言い訳をする律法学者に対して、その間違った教えや不遜な考えを改めさせ、『行ってあなたも同じようにしなさい。』と諭しています。私たちも、この「善いサマリア人」にならなければなりません。人を助けるのに、国の違いや人種の違いだけでなく、その時の状況・状態にこだわることは何もないですよね。困っている人には愛の手を差し伸べるべきですね。
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