ラグビー・ワールドカップ:日本代表チームのユニホームの話題! [日記]

昨夜はウエイトトレーニング日で、基本的に一日おきですから今夜はウォーキング日なのですが、連日のトレーニングで疲労していることもあり、ウォーキングは休みにして久しぶりにテレビでニュース番組を見ました。そうしたらラグビー・ワールドカップ・フランス大会に出場している日本代表のユニホームが、現地で大きな注目を集めているという話題がありました。
ワールドカップ・フランス大会公式「X」(旧ツイッター)は、日本の代表選手がユニホームを着用している画像とともに、「日本からの素晴らしい敬意の表れ」と題して投稿しています。その内容は、「日本は、大会開催国であるフランスへの敬意の表れとして、ラグビー・ワールドカップのプレージャージの前面に、フランスのシンボルである<フルール・ド・リス(百合の紋章)>を加えた」というコメントになっています。しかし、細かなところまでよく見てますね(*^▽^*)

◯ラグビー日本代表の象徴である桜の花のエンブレムとラグビー・ワールドカップ・フランス大会のエンブレムの間のど真ん中に、見にくいですが白いフルール・ド・リス(百合の紋章)があります。携帯の方は写真をタップして大きくし、さらに指2本で伸ばしてよく見てください!
rugby-20230623-008.jpg
今大会の日本代表のユニホームは、これまでのデザインから赤と白のストライプと白地の部分に和柄の「吉祥文」を継承し、胸元部分にフランスの国花である百合の紋章を配して開催地に敬意を示しています。そんな細かな心遣いにフランスの大会組織委員会が感動し、公式アカウントで異例の投稿しました。投稿には百合の紋章の部分がアップで写し出された画像も併せて掲載されています。

◯「フルール・ド・リス(仏: fleur-de-lis もしくは fleur-de-lys)」は、アヤメ(アイリス)の花を様式化した意匠を指します。特に紋章の場合は政治的、王権的、芸術的、表象的、象徴的な意味をも持ますが、現代においても、フランスに関わる政治的・表象的・象徴的意味合いが強いようです。
fleur-de-lis の直訳は「ユリの花」ですが、ここに言う「ユリ」は一般的な「ユリ」(ユリ科ユリ属)ではなく、ユリ目に属するとされたアヤメ科アヤメ属のキショウブ(Iris pseudacorus)やニオイイリス(Iris florentina)といった花を指すとされています。カトリック教会では、ユリの花が聖母マリア様のアトリビュートになっていますので、この形を見ればユリの花と認識します。
E38395E383A9E38380E383AA.jpg
ヨーロッパの国や貴族の紋章や旗に、何世紀にもわたり数多く見られますが、歴史的には特にフランス王家と関係が深く、またブルボン家の一員であるスペイン王家やルクセンブルク大公家も現在でも紋章に使用し続けています。フルール・ド・リスはフランスの切手などにも使用される継続的なフランスの象徴ですが、共和国としてのフランスはフルール・ド・リスを公式には採用していません。
中世、ユリの図像とフルール・ド・リスは、宗教芸術の分野では重なる部分が多いようです。歴史家のミシェル・パストローによれば、1300年頃までユリはイエス・キリストを象徴していましたが、次第に聖母マリアのシンボルへと変化して、聖母マリアに言及したソロモンの雅歌「lilium inter spinas」(いばらのユリ)と関連付けられるようになったそうです。 他の聖書中の聖句や宗教文学の中で、ユリが純潔と貞節を象徴するとされたことも、この花が図像学上、聖母マリアのアトリビュートとして確立されるのを助けたそうです。また、紋章の3枚の花びらの意匠は、「三位一体」反映しているそうです。

◯日本代表のユニフォームには胸に桜のエンブレムが刻みつけられていますが、このエンブレムには「3つの満開の桜」が描かれています。元々の初代エンブレムは「つぼみ、半開き、満開」の3種類の桜でした。それは「いつか、ラグビーの母国イングランドと戦えるようになったら、全て満開にしよう」との思いが込められていたとのことです。それが1952年に英オックスフォード大とのテストマッチ(国際試合)が行われた時に、「3つの満開の桜」になったということです。歴史と伝統の意味があるのですね。ちなみに、この写真を見ていただくとわかりますが、白地の部分に吉祥文様を見ることができます。
mankai.jpg

「聖母マリアに言及したソロモンの雅歌「lilium inter spinas」(いばらのユリ)」と関連づけられたとされる聖書の箇所
◯旧約聖書:雅歌・第2章・第1~第7節
「わたしはシャロンのばら、野のゆり。
おとめたちの中にいるわたしの恋人は
茨の中に咲きいでたゆりの花。
若者たちの中にいるわたしの恋しい人は
森の中に立つりんごの木。わたしはその木陰を慕って座り
甘い実を口にふくみました。
その人はわたしを宴の家に伴い
わたしの上に愛の旗を掲げてくれました。
ぶどうのお菓子でわたしを養い
りんごで力づけてください。わたしは恋に病んでいますから。
あの人が左の腕をわたしの頭の下に伸べ
右の腕でわたしを抱いてくださればよいのに。
エルサレムのおとめたちよ
野のかもしか、雌鹿にかけて誓ってください
愛がそれを望むまでは
愛を呼びさまさないと。」
『新共同訳聖書』から

【吉祥文様(きっしょうもんよう)】
繁栄や長寿を表し縁起が良いとされる伝統ある文様(柄)の一つです。日本において吉祥文様は、様々なお祝いの品、日用品、着物や帯、工芸品などにあしらわれてきました。また、お祝いの他にお守りや厄除けの意味もあり、その種類は数十種類にもなります。
30-187-1-1024x683.jpg

【アトリビュート】
西洋絵画、特に宗教画(キリスト教絵画)には、「アトリビュート(=持物:じぶつ)」というものがあります。これは、絵を描く時の“約束事”として、特定の人物(聖人など)に密接に結びつけられたもの、例えば花、動物、小物、道具や背景などが画かれるのです。
例えば、聖母マリア様ですと、必ず画かれているのが純潔の象徴である「百合の花」ですね。「受胎告知」の絵で、大天使ガブリエルが百合の花を持っています。そして、天の真実を意味する「青色(濃紺色)のマント」です。「祈りの聖母」と「悲しみの聖母」の絵もそうですね。他にも、「12の星の冠」や足の下に「三日月」と「蛇」が画かれています。聖母マリア様の絵を見るときはよく観察しましょうね。
他にも、聖母マリアの夫である聖ヨセフは、大工であったことから大工道具がアトリビュートになっていますし、聖アガタは、乳房を切り取られたことから、乳房がアトリビュートになっています。旧約聖書の「トビト記」に出てくるトビアスを描いた絵は、必ず魚が画かれています。(「トビト記」を読めばわかります。)
nice!(0)  コメント(0) 

教会日記2023.9.27(カトリック成城・聖タデオ教会「聖ビンセンチオ・ア・パウロ司祭の記念日のミサ(年間第25水曜日のミサ)」水曜日) [教会日記]

今朝は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会で7時からの「聖ビンセンチオ・ア・パウロ司祭の記念日のミサ(年間第25水曜日のミサ)」に与りました。昨夜もウォーキングをしました!ここ3日ほどは夜は気温が低く、Tシャツでは寒かったのですが、昨夜は風もなく気温はあまり下がらず、汗でびっしょりになりました。心地よい疲労感でよく寝れました(^◇^)

ミサでは、聖ビンセンチオ・ア・パウロ司祭の記念日を讃えてお祈りしました。
そして、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と、まず主を讃えて祈り、
次に、
「今日も清々しい一日を迎えさせていただき、
主の慈しみとご聖体を拝領させていただいたことに感謝申し上げます。」
と、主に感謝しました。

そして、
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
と、主により頼む祈りを捧げ、

そして、
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」
と、主に私が福音宣教に派遣されることを祈りました。

終わりに、
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
と、『大天使聖ミカエルへの祈り』を祈りました。
今日も清々しい一日を迎えています!
nice!(0)  コメント(0) 

「聖ビンセンチオ・ア・パウロ司祭」のお話し [聖人・福者・尊者]

今日9月27日は、「聖ビンセンチオ・ア・パウロ司祭」の記念日です。
〈次の記事は、「カトリック・サレジオ修道会日本管区」のホームページから引用しています〉
「1581年フランスの西南の小村プーイに生まれた。生家は、子どもの多い貧しい農家であったため、牧童として家事の手伝いをし、少年時代から母親の影響を受けて、貧しい人びとに対して深い同情心を授けられた。父親は学問を授けるてだてを講じた。やがて、才能を見いだされてトゥルーズで学び、1600年司祭に叙階され、引き続いての学究生活によって、神学・その他の学位を得た。のちに、ある婦人からの遺産を受け取るためにマルセイユにおもむき、帰途、トルコの海賊船におそわれ、奴隷としてテュニスでトルコ人に売られたが、その主人を回心させた。
 その後釈放され、再び、神学研究に励み、このころ、聖フランシスコ・サレジオと知り合いになり、信心深い敬虔な雰囲気、魂から発する光線のような純粋さ、謙虚な態度に大きな影響を受け、彼の死後、聖母訪問会の指導を委ねられることになる。
 主任司祭、船役囚人付司祭、説教師として、人びとの不幸を慰め、励まし、助けた。彼は、地方の農夫たちに教えをのべると同時に、またフランス王にも教えと進言とを怠らなかった。その生涯を通じ、多くの慈善事業を行い、一方、信徒黙想会の指導、聖職者の養成を目的とする「宣教会」(本部建物の名称にちなんでラザリスト会ともいうが、最近ではビンセンチオ会の名称も使われている)を1625年創立し、この会を通じてフランスの主任司祭の刷新に寄与した。さらに聖女ルイズ・ド・マリヤックの協力のもとに、1633年、救貧事業と司牧の補助手段として「愛徳姉妹会」を創立した。パリで1660年に帰天。1737年列聖。教皇レオ13世は、1885年に彼をあらゆる慈善団体と病院の守護聖人と宣言した。」
nice!(0)  コメント(0)