『聖アウグスティヌスの祈り』 [祈り]

このブログに2019年1月31日以来5回目の掲載となります。この祈りは、聖アウグスティヌス司教教父教会博士の信仰告白であり、私たち信徒からすれば信仰心を強める願いの祈りでもあります。不謹慎ではありますが、何度も過ちを繰り返し、今一つ学習能力に欠けることを認めざるを得ない、罪びとの私にはピッタリのお祈りであります!( ̄▽ ̄;) とにかく身に浸みる納得の祈祷文です(⌒-⌒; )

ただ、信徒ではない方がこの祈祷文を読むと、「なんと自分に都合のよい身勝手なお祈りなんだ!」ということになるでしょうね( ̄◇ ̄;)しかし、神様は、罪を認めて謙虚になって救いを求める者には、必ずや赦しを与えてくださいます。回心する罪びとこそ赦してくださるのです。
聖アウグスティヌスの詳細は、このブログの「聖アウグスティヌス司教教父教会博士のお話し2020.8.28」をご覧ください。アドレスは次のとおりです。
https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2020-08-28

◯『聖アウグスティヌスの祈り』
「主よ、み前にあやまちを告白します。
そのために受けた傷をも。
おかした罪の重さをはかれば、
その受けるべきものは大きいものを
そのために受ける苦しみは小さい。
おかしたことは大きいのに
そのために耐えるものは軽い。

罪の痛みをおぼえながらも
罪をおかすかたくなさは変わりません。
あなたのムチに打ちひしがれても
心のゆがみは変わりません。
にがい思いに苦しみながらも
かたい心のうなじは柔らかになりません。
悲しみに息も絶えだえになりながらも
行ないにおいて自分を改めもしません。

あなたが時を許せば、いつまでもなおらず、
あなたがきびしく当たれば、それに耐えられません。
こらしめの時、直そうと悔やんでも
喉もとを過ぎれば熱さを忘れます。
あなたが手を出されると、
すぐにします、と約束するのに、
その刀をひかれると
その約束を果たしません。

あなたが打てば、
許してくださいと叫ぶのに
許されれば、また打たれるようなことをしてしまいます。
主よ、罰に値する自分の罪を悟らせてください。
もし赦されなければ、滅びてしまうことを知っています。
全能の父なる神よ、
無から造られて、あなたに願う
わたしたちの願いを聴き入れてください。」
(カトリック祈祷書『祈りの友』から)
nice!(0)  コメント(0) 

新約聖書:マタイによる福音書・第18章・第21〜第35節 [聖書]

私の人生における克服すべき課題の一つに「人を赦すこと。」があります。このブログのタイトルに「愛と赦し」とあるのは、「隣人への愛」と「人への赦し」がイエス・キリストの教えであるからです。そして、この2つが私の人生における課題であり、信仰生活における糧だからです。2012年に洗礼を受けてから随分と人を赦せるようになりましたが、それでもまだ赦すことに躊躇する時があります。やはり、人生における永遠の課題なのでしょうか。これは、人を赦すことがいかに難しいかということですね。人を赦すことが簡単にできるなら、何も人生における課題にはなりません。
人を赦すことがどれほど難しいか、誰もが経験されていることだと思います。今まで生きてきて、どれだけの人を赦してこなかったか。肉親であるはずの家族でさえ、たまに”赦せない部分”を見つけてしまうことがあります。家族でさえ赦せないのなら、他人であればなおさらのことですよね。それでも、イエス・キリストは次のとおり「とことん赦しなさい。」と説いておられます。

◯新約聖書:マタイによる福音書・第18章・第21~第35節
「その時、ペトロが近寄ってきて、イエスに尋ねた。「主よ、わたしの兄弟が私に罪を犯した場合、何度、赦さなければなりませんか。七回までですか」。イエスはお答えになった、「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までである。それ故、天の国は次のように喩えられる。
「一人の王が僕たちと貸借の決済をしようとした。決済が始まると、一万タラントンの負債のある者が王の前に連れ出された。しかし、返済することができなかったので、主人はその人自身と、その妻や子もたち、および所有物すべて売って、返済するように命じた。この僕はひれ伏し、『もうしばらくお待ちください。きっと全部お返ししますから』と哀願した。そこで、その僕の主人は憐れに思って、彼を赦し、借金を免じてやった。
ところが、この僕は外に出ると、自分に百デナリオンの負債のある同僚に出会った。彼はその同僚の喉元を絞めつけ、『借金を返せ』と言った。この同僚はひれ伏して、『もうしばらく待ってくれ、返すから』としきりに願った。しかし、彼は承知せず、その同僚を引き立てていき、負債を返すまでといって牢獄に入れた。この一部始終を見てい同僚らは大いに心を痛め、主君の前に出て、事の次第を告げた。
そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『不届きな僕だ。お前が嘆願したから、わたしは負債をいっさい免じてやった。わたしがお前を憐れんだように、お前もあの仲間を憐れむべきではなかったか。』主人は怒って、負債を全部返すまでといって、彼を拷問係りに引き渡した。もしあなた方の一人ひとり人が、自分の兄弟を心から赦さないなら、天におられるわたしの父も、あなた方に対して同じようになさるであろう。」
『原文校訂口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注 聖書』から

これは聖句(イエス・キリストの言葉・聖書の言葉)です。イエス・キリストは、使徒(弟子)のペトロの質問に対して「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」と説いておられます。7回✕70倍=490回は喩え(たとえ)ですね。とにかく、徹底して赦しなさいと説いているのです。そこには赦す条件など微塵もないのです。この喩え話しですが、「王」とあるのは神様のことで、「僕」とは私たちのこと(罪人のこと)、「負債」とは罪のことです。「負債を帳消しにする」とは、すべての罪を赦すという解釈となります。ここでいう「兄弟」とは、隣人を含めて自分に関係する人などのことです。「天の父」とは、イエス・キリストの父なる神様のことです。

ちなみに、「一万タラントン借金している」とありますが、約2000年前のことですが具体的にどのくらいの程度の金額になるのか計算してみましょう。
<10,000タラントンとはどのくらいの金額なのか?>
2,000年前当時の価値観や物価が違いすぎますから比較にはなりませんが( ̄▽ ̄;)、無謀であることは承知の上で、無理やりこれを現代の金額に換算してみます。
日本のサラリーマンの平均年収が4,673,000円(令和元年度)です。これを1年365日毎日働いたとすると、4,673,000円/365日で、1日分の賃金が12,803円となります。1タラントンは6,000デナリオンで、当時1デナリオンは1日分の賃金ですから、12,803円×6,000デナリオン=1タラントン・76,818,000円となります。そうるすと、1タラントン・76,818,000×10,000タラントン=768,180,000,000円となります。7,681億8千万円です。この計算方式が間違っていなければ考えられない金額となりますΣ( ̄ロ ̄lll)

王は、「こんな莫大な借金を帳消しにしてやったのに、たかが100デナリオン=100日分の賃金くらいの借金を赦さないとは何事か!」ということですね。これは喩え話しですが、これを聖書本文の解釈(神様の言葉)にすると、「このような大きな罪を犯したのを赦してやったのに、隣人の極めて小さな罪を赦さないとは何事か!」ということになります。
私達は、いつか赦してもらいたいと願う時が必ず来ます。それは必ず来るのです。その時に赦してもらいたいなら、普段から人を赦すべきなのです。憎しみや恨みをもって毎日生活をしていても良いことは何もないですね。赦しましょう。とにかく赦すことです。人を赦さないのなら、自分も赦されないのです。

◯ジャン・ガロ著、大滝玲子訳『愛のいのり』から
出版:女子パウロ会・1981年・182ページ・税込み756円
“人を赦すことを教えてください!”
「主が、私たちを赦してくださるように、
私たちにも、人を赦すことを教えてください。
ほんのわずかな間でも、
恨みを心に留めることなく、
すぐに赦すことを教えてください。

口先だけでなく、心の底から、
すっかり赦すことを教えてください。
条件をつけたり限定したりせずに、
完全に赦すことを教えてください。
いったん赦したら、
決して過去のことを持ち出したりせず、
すべてを水に流して、
赦すことを教えてください。

真心から赦すことを教えてください。
無礼や侮辱など、
全く受けなかったかのように、
その人に接することができる力を与えてください。
私自身も、多くのことで
人に赦してもらわなければならないのです。

どうか、謙虚な心で赦すことを教えてください。
私に害を加えた人を、まえ以上に大切にし、
その人のために祈りながら、
寛容に赦すことを教えてください。
何度でも、際限なく赦す、
忍耐深さを与えてください。
主よ、人を赦すことを教えてください。
主が赦してくださるように、
広い心で赦すことを教えてください。」
nice!(0)  コメント(0) 

『友のための祈り』 [祈り]

今日は、友情のお祈り『友のための祈り』をご紹介たいします。

「神よ、私は心から友のために祈ります。
私が友と語りあい、
好意をもって助けあい、
お互いに尊敬しあうことができるよに導いてください。
キリストよ、私の友の上に慈しみの目を注いでください。
あなたをとおして、
私達が真の友情を持ち続けることができますように支えてください。」
nice!(0)  コメント(0) 

「聖ペトロ使徒座」のお話し [キリスト教関係事項・用語等]

今日2月22日は、「聖ペトロの使徒座」の記念日です。12使徒の1人で、使徒の頭であった聖ペトロは、キリストから「あなたはペトロ。わたしはこの岩(ペトロ)の上にわたしの教会を建てる」(新約聖書:マタイによる福音書・第16章の第18節)と言われ、教会の礎としての使命をゆだねられました。ペトロは、教会の最初の司教としてアンチオキアに使徒座を置き、その後ローマへ宣教に行きバチカンの丘に使徒座の基礎を築きました。

古代ローマでは、2月22日に亡くなった家族を記念する習慣があり、初代教会もその慣習を取り入れて教会の礎である聖ペトロを記念していました。4世紀に聖アンブロジオは、「ペトロがいるところに教会がある。教会があるところにキリストがいる。」として、この日の意味を明確にし、最高牧者としてのペトロの使命を浮き彫りにしました。聖ペトロの使命は、今日まで代々の教皇(現在266代教皇フランシスコ)に受け継がれています。
nice!(0)  コメント(0) 

『マフィア国家――メキシコ麻薬戦争を生き抜く人々―』のご紹介 [日記]

緊急事態宣言が3月7日まで延長され、引き続き「不要不急の外出は避けること」に象徴されるように、人がいるところはなるべく避け、私のコロナ標語である「コロナに感染しない。感染させない。」を肝に銘じ、仕事で大学、ミサで教会へ行く以外は自宅で過ごすようにしています。そこで、積読してあった『エクソダス―アメリカ国境の狂気と祈り―』を読んだところ、その中に「マラス」というメキシコ、エルサルバドル、ホンジュラス及びグアテマラで広がっている若者ギャング団のことが書いてあり、興味があって『マラス―暴力に支配される少年たち―』を読みました。続いて、根本的にメキシコ麻薬戦争の全体像を把握・理解しようと『メキシコ麻薬戦争―アメリカ大陸を引き裂く「犯罪者」たちの叛乱―』を読み、そして、本書を読み終わったところです。
D063F87B-BF59-4834-AB0A-105684A07270.jpeg
この本の内容は、岩波書店のホームページに書かれている本書の案内文を引用させていただくと、「格差の増大と政府の失策により,麻薬カルテルに侵食されるメキシコ社会.この10年間に15万人以上の犠牲者と3万人を超える行方不明者が生み出された.国際社会をも震撼させる麻薬戦争の震源地で何が起きているのか,そして人々は暴力にどのように抗しているのか.その最前線の町に入った本格ルポルタージュ」ということです。ジャーナリストである工藤律子氏の著書は2冊目となりました。

皆さんご存じのとおり、中近東のシリア(シリア・アラブ共和国)は、現在でも内戦が続いています。シリア政府軍とシリアの反体制派及びそれらの同盟組織などによる国内戦争のことですね。ところで、2016年の世界における殺人事件の件数ですが、シリアの内戦による件数は約90,000件で第1位です。第2位はメキシコの麻薬戦争がらみで数約23、000件です。国家間の戦争や内戦でもないのに、1年でこれだけの殺人事件=死者数(実際にはもっと多い)があるのは異常としかいいようがありません。

それに、過去10年間で誘拐などでの行方不明者が約30,000人もおり、その誘拐事件の65%は麻薬犯罪組織の犯行ですが、残りは政府軍や地方警察、連邦警察によるものだそうです。毎日殺人事件があり、殺人は日常の出来事となっています。麻薬カルテルは、政党、中央政府、州政府、自治体、連邦警察、地方警察や軍隊の中にも入りこんでおり、行政や警察と癒着しています。被害者が声を上げても誘拐犯を探そうともしないのです。警察がなかなか捜査や調査に乗り出そうとしない実態があるのです。

このように国家としての体をなしていない状況にありますが、メキシコは親日国であるとのことです。日本の対メキシコへの経済協力では、2017年度までの累計供与額は、有償資金協力2,295.68億円、無償資金協力62.68億円、技術協力765.52億円となっており、日本からの巨額のお金が、国家の体をなしていないメキシコに援助されているのです。日本国民としてガッカリしますね。しかし、援助することで貧困者への雇用の促進を図ることができると思うと、日本のお金が役に立っているわけです。
本書の最後の方に出てくる13歳の少年の将来の夢は、「パパのような殺し屋になる」ことだそうです。虚しさというか、やるせなさを感じます。

書名:『マフィア国家――メキシコ麻薬戦争を生き抜く人々―』
著者:工藤 律子(くどう りつこ)
1963年大阪生まれ。ジャーナリスト。東京外国語大学大学院地域研究研究科修士課程在籍中より、メキシコの貧困層の生活改善運動を研究し、フリーのジャーナリストとして取材活動を始める。主なフィールドはスペイン語圏、フィリピン。NGO「ストリートチルドレンを考える会」共同代表。著書に『仲間と誇りと夢と』(JULA出版局)、『ストリートチルドレン』(岩波ジュニア新書)、『ルポ 雇用なしで生きる』(岩波書店)などがある。『マラス―暴力に支配される少年たち』(集英社)で第14回開高健ノンフィクション賞受賞.NGO「ストリートチルドレンを考える会」共同代表.
出版:岩波書店
発行:2017年7月27日
定価:1,900円(税別)

◯目次
まえがき
プロローグ
1.麻薬戦争の町シウダー・フアレスに生きる
 カルテルと軍と警察の町/子どもたちは遊び場を失った/溢れる犯罪、見えない希望/一〇年、二〇年後への不安
2.子どもたちを飲み込む暴力
 殺し屋になった少年/非暴力を説く元ギャング・リーダー/ギャングを生んだもの、変えたもの/モンテレイへ/役人の意識を変える/ロス・セタスの影/「戦争避難民」を支える/カルテルから逃げる少年/日本人も危機管理/二人の勇敢な女性たち/カウセ・シウダダーノの挑戦/非暴力ワークショップ/刑務所で得た悟り/高校生と対話する
3.立ち上がる人々
 疑惑の大統領と市民運動/最初に立ち上がった者たち/増える失踪者/詩人の決意/PRIと米国の功罪/アヨツィナパ・ケース/失踪者の家族たち/家族を探す
4.マフィア国家の罠
 シウダー・フアレス、再び/暴力のなかで育った子どもたち/ジャーナリストの闘い/地方政治を変える/首都に迫りくる恐怖/ギャングの変貌/分断される被害者家族/それでも兄を探す
5.国家の再建
 マフィア的平和/対話するメキシコ/メキシコの再生
エピローグ
あとがき
nice!(0)  コメント(0) 

新約聖書:ヤコブの手紙・第1章・第14〜第15節「誘惑」のお話し [聖書]

今日の聖書のお話しは、「誘惑」についてです。
新約聖書にある「ヤコブの手紙」は、誘惑について次のとおり書いてあります。
「人はそれぞれ、自分の欲に引かれ、
そそのかされて誘惑に陥るのです。
そして、欲は身籠って罪を生み、
罪は熟して死を生み出します。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注 聖書』から

邪悪な欲のあるところに誘惑があり、その誘惑に負ける(陥る)と罪が待っています。罪は、死と直結するのですね。私達が気をつけなければならないことは、まず悪い誘惑に絶対にのらないことです。これに負けてしまっては罪を犯すことになります………反省です(⌒-⌒;)この世の中の悪いことの始まりはすべて誘惑です。良い・善いことで誘惑するとは言わないですから。すべて悪いことに使われる言葉です。私達クリスチャンで、一番重要なお祈りである「主の祈り」の最後の言葉は「誘惑におちいらせず、悪からお守りください。」です。この一番重要なお祈りに誘惑という言葉が出てくることからも理解できますね。私達の最も自戒とする言葉です。

そこで、「自分の欲に引かれ、そそのかされて誘惑に陥る」の解釈です。
先ほどの記事にも書いてあるとおり、キリスト教で一番大切なお祈りとして「主の祈り」という祈祷文があります。その最後のところに「………私たちを誘惑におちいらせず、悪からお救い下さい。」とあります。また、私が毎日お祈りする「聖母の御助け(おんたすけ)を求める祈り」の祈祷文にも、「………私たちをお助けくださいますよう、心から祈り求めます。特に、困難に出会時、病気の時、誘惑を受けた時、罪を犯した時………」とあります。それほど、昔からこの「誘惑」が人間の最大で永遠の課題なのです。それは食欲、金欲、物欲、性欲、名誉欲などなど、誘惑は欲から発生するのです。

最初に、結論として述べますが、私の解釈では「そそのかされて誘惑に陥る」のではなく、「自ら進んで自発的に行った」ということになります。う~ん、少々分かりにくいですかね~(⌒-⌒;)誘惑の意味は、辞書には「人を迷わせて、悪い道にさそいこむこと。」とありますから、「自分の外から(相手から)きた誘惑を自分が受けて(陥って)悪い道に誘い込まれた・悪いことを行った」という解釈になりがちですが、私はそうのうな解釈はしません。「自分の意思で行ったもの」ということです。つまり、自分の“欲”が行わせているのですね。ですから、「自分がそそのかされた」ではなく、「自らが進んで行った」と解釈します。誘惑した相手が悪いのではなく、自分が悪いのですね。逆に相手を誘惑したということにもなりますから、相手にも悪いことをしてしまうことになるのです。欲を制御できない者は、この誘惑の呪縛から逃れることはできません。すべては自分の意思しだい、自分の善悪の判断しだいです。

…………ということで、聖書における誘惑のリアルな掲載箇所をご紹介いたします!
◯旧約聖書:箴言・第7章・第6~第27節
「わたしが家の窓から格子を通して外を眺めていると浅はかな者らが見えたが、中に一人意志の弱そうな若者がいるのに気づいた。 通りを過ぎ、女の家の角に来るとそちらに向かって歩いて行った。 日暮れ時の薄闇の中を、夜半の闇に向かって。 見よ、女が彼を迎える。遊女になりきった、本心を見せない女。 騒々しく、わがままで自分の家に足の落ち着くことがない。 街に出たり、広場に行ったりあちこちの角で待ち構えている。

彼女は若者をつかまえると接吻し厚かましくも、こう言った。 『和解の献げ物をする義務があったのですが今日は満願の供え物も済ませました。 それで、お迎えに出たのです。あなたのお顔を捜し求めて、やっと会えました。 寝床には敷物を敷きましたエジプトの色糸で織った布を。 床にはミルラの香りをまきましたアロエやシナモンも。 さあ、愛し合って楽しみ朝まで愛を交わして満ち足りましょう。 夫は家にいないのです、遠くへ旅立ちました。 手に銀貨の袋を持って行きましたから満月になるまでは帰らないでしょう。』

彼女に説き伏せられ、滑らかな唇に惑わされて、たちまち、彼は女に従った。まるで、屠り場に行く雄牛だ。足に輪をつけられ、無知な者への教訓となって。 やがて、矢が肝臓を貫くであろう。彼は罠にかかる鳥よりもたやすく自分の欲望の罠にかかったことを知らない。 それゆえ、子らよ、わたしに聞き従いわたしの口の言葉に耳を傾けよ。 あなたの心を彼女への道に通わすな。彼女の道に迷い込むな。 彼女は数多くの男を傷つけ、倒し殺された男の数はおびただしい。 彼女の家は陰府への道、死の部屋へ下る。」
『新共同訳聖書』から

このようなお話しが聖書にあるとは正直ビックリです!Σ( ̄ロ ̄lll) しかし、なかなかリアルに表現していますね~。これはいけませんよね~でも、私も一度でいいのでお誘いを受けてみたいのですが。いやいやいけませんね!( ̄▽ ̄;) 既婚者のすることではないです。 “陰府”とは、死後に生前の罪業によって刑苦を受ける世界のことで、いわゆる“地獄”のことです。誘惑に負けるとこのようになるのです。身に覚えのある経験者は、さっそく悔い改めましょうね!
nice!(0)  コメント(0) 

教会日記2021.2.20(カトリック成城・聖タデオ教会「主日のミサ」土曜日) [教会日記]

今日は、カトリック成城・聖タデオ教会の16時からの「主日のミサ」に与りました。先週から「主日のミサ」は毎週土曜日に与ることにしました。緊急事態宣言が出ているため、ミサ中に聖歌は歌わないことになり、日曜日の「主日のミサ」での聖歌隊の奉仕活動がないため、土曜日の「主日のミサ」に与ることにしました。

ミサは、いつものように3蜜を避けるため、ソーシャルディスタンスで入堂制限があります。普段は200人以上入れる聖堂ですが、今は47人しか入れません。ですから、聖堂に入れない人のために、信徒館でスクリーンで映してオンラインミサに与る(42人)対策をしています。 また、マスクの着用はもちろんのこと、聖堂(信徒館)入口の受付でカードに氏名と電話番号の記入と手の消毒があります。
そして、緊急事態宣言の再発出を受けて、東京大司教様から「各教会での感染対策を見直し、徹底するように」と求められ、1月16日(土)から3月28日(日)まで、主日のミサは、土曜日16時・日曜日9時30分・日曜日14時となり、平日のミサは、火曜日と金曜日の7時からになりました。なお、ご高齢の皆様のために、毎週金曜日10時に行なってきた「言葉の祭儀と聖体拝領」は引き続き行われています。

ミサでは、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
とお祈りしました。
また、行方不明となっている小学2年生の小倉美咲ちゃんが、元気な姿で両親の元に帰れるようにお祈りし、仕事の同僚と同じ病の私の親しいご婦人の二人の病気が癒されますようにお祈りしました。
nice!(0)  コメント(0) 

今日の日記2021.2.20(お昼のお弁当!) [日記]

今日は、早朝から出勤して懸案となっていた仕事を仕上げ、他に担当業務を行ってお昼のお弁当にありつきました!いつものことながら美味しかったですね~!タケノコとフキの煮物が最高でした!
お弁当.jpg
nice!(0)  コメント(0) 

『使徒信条』について [祈り]

日本語の『使徒信条(しとしんじょう)』は、ラテン語では原文の冒頭の語をとって「クレド(Credo)」 という名称です。ミサで唱えられる私達信徒の代表的で基本的な“信仰告白”です。使徒信経(しとしんきょう)という人もいます。ローマ教会の古来の洗礼式の信条である「ローマ信条(2世紀後半ごろ)」に基づいて作られたもので、早くから公同の信条として用いられてきました。使徒信条という名称は、この信条が使徒たちの忠実な信仰のまとめとみなされていることによるということです。全部を12節に分け、十二使徒がそれぞれの節を書いたという伝説があるそうです。キリスト教の全教派に共通の日本語訳は存在しません。教派ごとに、また時代によってもいくつかの訳が存在します。カトリック教会は次のとおりです。

◯信徒信条(現代語訳)
「天地の創造主、全能の父である神を信じます。
父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。
主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、
ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、
十字架につけられて死に、葬られ、陰府(よみ)に下り、
三日目に死者のうちから復活し、
天に昇って、全能の父である神の右の座に着き、
生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます。
聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、
永遠のいのちを信じます。
アーメン。」
(2004年2月18日:日本カトリック司教協議会認可)

◯使徒信経(文語訳)
「われは、天地の創造主、全能の父なる天主を信じ、
またその御独り子(おんひとりご)、われらの主イエズス・キリスト、
すなわち聖霊によりて宿り、童貞マリアより生まれ、
ポンシオ・ピラトの管下にて苦しみを受け、
十字架に付けられ、死して葬られ、
古聖所(こせいしょ)に降りて(くだりて)三日目に死者のうちよりよみがえり、
天に昇りて全能の父なる天主の右に坐し、
かしこより生ける人と死せる人とを裁かんために来り給う(きたりたもう)主を信じ奉る。
われは聖霊、 聖なる公教会、諸聖人の通功、罪の赦し、肉身のよみがえり、終りなき命を信じ奉る。
アーメン。」

◯使徒信条(ラテン語)
「Credo in Deum, Patrem omnipotentem, Creatorem caeli et terrae,
et in Iesum Christum, Filium Eius unicum, Dominum nostrum, qui conceptus est de Spiritu Sancto, natus ex Maria Virgine, passus sub Pontio Pilato, crucifixus, mortuus, et sepultus, descendit ad inferos, tertia die resurrexit a mortuis, ascendit ad caelos, sedet ad dexteram Patris omnipotentis, inde venturus est iudicare vivos et mortuos.
Credo in Spiritum Sanctum, sanctam Ecclesiam catholicam, sanctorum communionem, remissionem peccatorum, carnis resurrectionem, vitam aeternam.
Amen.」

他に、「ニケア・コンスタンチノープル信条」があります。キリスト教の司祭の総会議である第1回コンスタンチノーブル公会議(381年)後に作られました。ミサで、使徒信条を唱えるときは、この「ニケア・コンスタンチノープル信条」を唱えている教会もあります。私が所属するカトリック成城教会も、この「ニケア・コンスタンチノープル信条」を唱える時もあります。見てのとおり少々長いですね(⌒-⌒; )

◯ニケア・コンスタンチノープル信条(現代語訳)
「わたしは信じます。
唯一の神、全能の父、天と地、見えるもの、見えないもの、
すべてのものの造り主を。
わたしは信じます。
唯一の主イエス・キリストを。
主は神のひとり子、
すべてに先立って父より生まれ、
神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、
造られることなく生まれ、父と一体。
すべては主によって造られました。
主は、わたしたち人類のため、
わたしたちの救いのために天からくだり、
聖霊によって、おとめマリアよりからだを受け、
人となられました。
ポンティオ・ピラトのもとで、
わたしたちのために十字架につけられ、
苦しみを受け、葬られ、
聖書にあるとおり三日目に復活し、
天に昇り、父の右の座に着いておられます。
主は、生者(せいしゃ)と死者を裁くために
栄光のうちに再び来られます。
その国は終わることがありません。
わたしは信じます。主であり、いのちの与え主である聖霊を。
聖霊は、父と子から出て、
父と子とともに礼拝され、栄光を受け、
また預言者をとおして語られました。
わたしは、聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会を信じます。
罪のゆるしをもたらす唯一の洗礼を認め、
死者の復活と
来世のいのちを待ち望みます。アーメン。」
(2004年2月18日 日本カトリック司教協議会認可)

●参考図書
『信条 クレド ―教皇講話集―(ペテロ文庫)』
発行:カトリック中央協議会
著者:ベネディクト教皇・フランシスコ教皇
定価:900円+税
nice!(0)  コメント(0) 

今日の日記2021.2.19(行方不明!) [日記]

小倉美咲(当時7歳)ちゃんが 2019年9月21日に、山梨県道志村のキャンプ場で行方不明になってから1年半近くになります。行方不明(と思われる)になっている小倉美咲ちゃんが、元気な姿で両親のところに帰れるように毎日お祈りしていますが、とにかく早く見つかってほしいものです。
川に流された可能性は否定できませんが、いろいろな情報によると可能性は低いと思います。私は、通りすがりの誘拐ではないかと思います。根拠はないですが、それ以外には考えられないのです。ですから、どこかにいることは間違いないわけです。そのどこか?が…………見つかるようにお祈りしましょう!

ちなみに、警察の捜査関係者の話しでは、「第三者が連れ出さなければ、山梨県から当時7歳の女の子が遠くに行くことはできません。誰かが美咲ちゃんを匿っている可能性が高いと考えた時、犯人が普通の生活をしているとは思えない。例えば一人暮らしなのに、子供用の商品をネットショップで頻繁に買っているなどが考えられます。不審な人物が周囲にいないか、気にしてみてください。些細な情報提供が突破口になるということを、私自身が何度も体験しています。」とにかく、ちょっとしたことでも不審に思ったら即時警察に通報しましょう!
nice!(0)  コメント(0)