今日の日記2021.2.16(ブログ立ち上げ9周年!) [日記]

今朝気づいたのですが、このブログは、2012年2月12日に立ち上げたのでした。その日のブログ記事は、「今日の日記(ブログ立ち上げ成功)」として「やっとブログを立ち上げました。これから「今日の言葉」を自戒をこめて書きます。」という文章でした。あれから9年が経ちました。本日現在で、掲載記事数は6,108本、総閲覧数(アクセス数)累計2,326,087件、「SSブログ」の日記・雑感分野で422,152ブログ中35位です。

PC用画面(緑色画面)にしていただければわかるのですが、PC画面左側にある「マイカテゴリー」に、各カレゴリー別に( )内に掲載記事件数が表示されています。なお、このカテゴリー名をクリックすれば、そのカテゴリーだけの記事をご覧いただくことができます。
聖書(475)
キリスト者(クリスチャン)(1080)
聖人・福者・尊者(294)
日記(1100)
祈り(156)
キリスト教と音楽(42)
キリスト教と読書(105)
キリスト教と美術(18)
吹奏楽日記(608)
非キリスト者(ノンクリスチャン)(471)
支援活動日記(44)
今日の言葉(巷の言葉)(31)
日記(今日のニュース)(13)
キリスト教関係事項・用語等(279)
教会案内(28)
カフスボタン・コレクション(11)
職場のデスク&カウンター(133)
教会日記(953)
ロザリオ・コレクション(37)
聖品紹介(23)
絶えざる御助けの聖母(16)
マイ・ネクタイ紹介(62)
訪問教会・支援活動記録(42)
ジーニスト日記(12)
豚カツ大好き日記(4)
聖歌・聖歌隊(6)
愛飲ワイン日記(2)
今日の言葉(詩・その他)(1)
今日の言葉(ことわざ)(61)

ブログを書き始めた理由は、当初は「①神父様からお教えいただいたことや聖書を読んで学んだことなどを書き留めておこう」と思ったのが切っ掛けで、ノートがなくても、PCか携帯電話があればいつどこでも見て勉強ができるということ、そして②どうせなら「自戒のために格言・名言・金言を記事として掲載しょう。」いうことで始めました。そこから出発し、私が行っていた社会活動(吹奏楽活動)など、その日の出来事を日記として書くようになりました。そして、3年ほど経ったころに、このブログの運営方針ということを意識し、「キリスト教(カトリック教会)の福音宣教活動の一環」として位置づけるようになり、それまでは漠然としてなにも意識してこなかった読者対象を「①キリスト教にまったく興味のない人、②キリスト教の初心者(入門者)」としました。

しかし、「キリスト教にまったく興味のない人」を対象にしたところで、このブログを読んでいただけるはずはありません。ですから、掲載記事をキリスト教一色にせず、ブログのカテゴリーにあるとおり社会活動でやっていた吹奏楽などの音楽の話し、美味しかった料理やお店のグルメ話し、マイ・ネクタイの話しやジーニスト日記、有名なキリスト教に関係する音楽や美術の話し、キリスト教の初心者でも理解しやすい入門書の紹介なども掲載し、例えば“キリスト教にまったく興味のない人”が、グルメ話しの記事を読みにこのブログにアクセスした機会を好機と捉え、同時に他に掲載されている福音書などのキリスト教関係の記事を読む機会を提供し、少しでも興味を持ってもらえればと思ったからです。

では、なぜそれが「福音宣教活動の一環」になるのか?それは、まずミサの説明から始めなければなりません。「ミサ」という名称は、式の最後のラテン語の言葉「Ite, missa est.」(ite = 行きなさい、missa est = 派遣である)というフレーズの中の語に由来し、missa(ミサ)は、ラテン語で「派遣」を意味する missio(ミッシオ)に由来すると言われています。 これは、ミサをとおしてミサに与る信徒達が聖化され、イエス・キリストの教えを宣教するために世界に派遣されるということです。ミサの最後のところで、司祭(神父様)が信徒たちに「派遣の祝福」をすることでも分かります。

以上のとおり、このミサ自体が福音宣教に派遣するという意味をもっているからですが、この派遣とは、次のとおり聖書に書いてあることが根拠となっています。
◯マタイによる福音書:第28章・第19~第20節
「あなた方は行って、すべての国の人々を弟子にしなさい。父と子と聖霊の名に入れる洗礼を授け、わたしがあなた方に命じたことを、すべて守るように教えなさい。」
◯マルコによる福音書:第16章・第15節
「全世界に行き、造られたすべてのものに福音を宣べ伝えなさい。」
◯ルカによる福音書:第24章・第47節
「罪の赦しへ導く悔い改めが、エルサレムから始まり、すべての民に宣べ伝えられる。あなたがたはこれらのことの証人である。」
◯ヨハネによる福音書:第20章・第21節
「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなた方を遣わす。」
ですから、信徒は、ミサのたびに福音宣教のため世界に派遣されることになるのです。私が「福音宣教活動の一環」としているのは、福音宣教の方法を世界に発信できるインターネットという形態を使い、聖書の聖句や祈りの祈祷文などキリスト教(カトリック教会)関係の記事を掲載し、“ブログというツール”で福音宣教活動をしているのですね。ただし、間違ってはいけないのは、福音の宣教であって信徒の勧誘ではありません。新興宗教団体の勧誘のようではいけないのです。福音は「善き知らせ」という意味です。聖書に書かれたイエス・キリストの教えを知っていただき、善き行いに導くことが福音宣教なのです。

現在のところ毎日更新しております。1日に記事を6本も掲載したこともあり、随分と時間がある(暇である?ことを証明している)ように思われますが、このブログは、記事原稿を保存(下書き)する機能があるため、日祭日の休みの日や通勤の行き帰りの電車の中で、パソコンはもちろん携帯からも<執筆作業>ができるのです。この3年は、過去の記事を一部加筆・修正して再掲載~最高6回も過去の記事を掲載することが多くなり、執筆作業は楽をしていますが、その時折りのトピックスは新たに書いています。これからもこのブログを書き続けてまいります。拙いブログではありますが、これからもご愛読のほどよろしくお願い申し上げます。
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教会日記2021.2.16(カトリック成城・聖タデオ教会「平日のミサ」火曜日) [教会日記]

今日は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会の7時からの平日のミサに与りました。昨日は、久しぶりに雨が降りましたね〜。乾燥していましたから街も野山も潤いましたね。でも、北海道、東北や北陸地方は、猛吹雪となっていますから十分に気をつけてもらいたいと思います。一昨日の地震の影響もあり、土砂崩れなどに要注意ですね。
さて、明日17日(水)は、「灰の水曜日」を迎えて「四旬節」が始まります。4月4日(日)の「復活祭(復活の主日)」に向けての準備がはじまるわけですね。物理的な準備ではなく、信仰を高めるための心的な準備ですね。詳しいことは、このブログの明日17日の記事に書きますね。

ミサでは、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
と気持ちを込めてお祈りしてきました。
また、行方不明となっている小学2年生の小倉美咲ちゃんが、元気な姿で両親の元に帰れるようにお祈りし、同僚の病と同じ病の私が親しくしているご婦人の二人が癒されるよう祈りしました。
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新約聖書:ヨハネの手紙 一・第1章・第9節 [聖書]

「私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。」
「聖書協会共同訳 聖書」から

この聖句(聖書の言葉)は、カトリック教会の「赦しの秘跡(ゆるしのひせき)」のことを言い表しています。「赦しの秘跡」とは、罪を犯した信徒が、聴罪司祭(ちょうざいしさい:神父様)に告解(こっかい)して罪を赦してもらうというものです。もちろん罪を赦すのは、神様であって司祭ではありません。「赦しの秘跡」として、罪の赦しのための行為ができるのは、イエス・キリストの12人の使徒の後継者である司教と、司教の協力者である司祭だけです。司教・司祭(聴罪司祭)は罪の告白を聴き、「父と子と聖霊のみ名によって」罪を赦す権能を行使します。要するに神様に代わって罪を赦す宣言をするということですね。また、聴罪司祭には守秘義務があり、告白によって知り得た罪について、完全な秘密を守るように義務(秘守義務)づけられていて、これに背けば厳罰を科せられることになります。ですから、告解した内容は厳守されます。なお、「赦しの秘跡」を受けることができるのは、洗礼を受けたカトリック教会の信徒だけとなります。

ちなみに、次のような会話をよく耳にします。
A子「今日ね、教会で神父様に罪の告白をしてお赦しをいただいちゃいました!」
B太「そうなんだ~、懺悔(ざんげ)してきたんだ。」
A子「懺悔じゃないから!」
B太「だって罪の告白って懺悔のことじゃん!」
A子「なに言ってんの!?罪の告白は告解(こっかい)って言うんだよ。」
B太「なにそれ~。どう違うの?」(⌒-⌒; )

「赦しの秘跡」での告解を「懺悔(ざんげ)」と間違う人がいますが、懺悔はカトリック教会では使われず、カトリック教会での宗教的意味は全くありません。そして、お祈りの中で罪を認めるときは「罪の告白」といいます。カトリック教会の告解はとても大切な秘跡で、告解 = 懺悔ではないと考えられています。わかりやすく言えば懺悔は「ごめんなさい」と謝ることで、告解は「振り返り、あやまり・罪を認め神様に赦していただくこと。」です。「赦しの秘跡」で告解をし、そして、最後のところで「あなたの罪は赦されました。」と神様に代わって聴罪司祭が宣言します。これは罪が赦されたことを意味しています。

【聴罪司祭(神父)】
「赦しの秘跡」において、信徒の罪の告白を聴き、赦免(赦し)を与える司祭のこと。もちろん、「赦しの秘跡」の指導を受けて秘跡を修得し、聴罪司祭としての訓練をされていますから、信頼して告解できます。(告解とは、聴罪司祭に罪を告白すること。)
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