教会日記2021.2.19(カトリック成城・聖テデオ教会「平日のミサ」金曜日) [教会日記]

今日は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会の7時からの平日のミサに与りました。少し暖かくなってきたかなと思っていたら、一昨日からまた寒さが厳しくなりました。コロナもインフルエンザも気をつけてないといけませんね。さて、「灰の水曜日」を迎えて「四旬節」が始まりました。いつもに増して祈りに専心し、積極的に愛徳の業を行い、毎日の生活で節制するようにしなければなりません。4月4日の「復活祭」に向けて信仰生活を充実したものにしましょう。

ミサでは、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
と気持ちを込めてお祈りしてきました。
また、行方不明となっている小学2年生の小倉美咲ちゃんが、元気な姿で両親の元に帰れるようにお祈りし、同僚の病と同じ病の私が親しくしているご婦人の二人が癒されるようお祈りしました。
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新約聖書:ルカによる福音書・第14章・第7〜第11節 [聖書]

今日の言葉は、ルカによる福音書の第14章の第7節から第11節のところに、「客と招待する者への教訓」という副題がついている箇所の聖句(聖書の言葉)です。
「イエスは、招待を受けた客が上席を選んでいるのを御覧になって、彼らにたとえを話された。「婚礼の祝宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたより名誉ある人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うだろう。その時、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『友よ、もっと上席にお進みください』と言うだろ。その時、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。誰でも、高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
「聖書協会共同訳 聖書」から

この聖句は、イエス・キリストが生きていた時代のユダヤ社会における身近な出来事をたとえ話しにして語られていますが、イエス・キリストが私たちに教えようとされるのは、単に社会常識、礼儀作法や公衆道徳などを教えているわけではありませんね。イエス・キリストは、「神の国に招かれる人の根本的態度(救われる人)」について私たちに教えているのです。

イエスがたとえ話しで語られる「上席を選んでいる客(人)」とは、自分はすでに神様から認められている、あるいは認められる資格があると、自分勝手に思い込んでいる人のことです。「末席に行って座る人」とは、自分は罪びとであり、神様の憐れみがなければ救われないと正直に自覚している謙遜な人のことです。どちらが神の国に入れるか歴然としています。

神様のみ前においては、謙遜な者こそが、神様の恵み、憐れみや慈しみを受けて神の国に入ることができるのです。同福音書:第18章・第14節にも「誰でも、高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」と再び同じ言葉があります。日ごろの生活態度はもちろんのことですが、私たち信徒にとっては、信仰生活の態度が問われているのではないでしょうか。
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支援活動日記2021.2.18(山谷夜回りの会活動) [支援活動日記]

今夜は、ホームレス支援活動グループ「山谷夜回りの会」の活動に参加してきました。東京都の感染者数は、ここのところ500人以下になっており、緊急事態宣言は3月7日を待たずに解除されるのではないかと思います。一時期の感染者1,000人超えから随分と抑えられてはきましたが、まだまだ警戒しなければなりません。引き続き不要不急の行動さは自粛しなければなりませんが、この山谷夜回りの会活動のホームレス支援は《必要至急》の行動であることを再確認しておきます!

今夜は寒かったです!一昨日は暖かかったのですが、昨夜から一気に寒くなりました。まだ夜明けごろの気温は0度程度という厳しい寒もあります、以前、このブログに書きましたが、私の「路上生活体験会」の参加経験からいっても、明け方の寒さは身体にこたえます………というか、寒くて寒くて寝れません( ̄◇ ̄;) 新型コロナウイルスだけでなく、インフルエンザにも注意が必要です。
「山谷夜回りの会」は、東京の寄せ場地域(日雇い労働者の町)である山谷地区で暮らす野宿者(ホームレス)の皆さんに、おにぎりやパンの食べ物、生活に必要な物資を夜回りしてお届けしている団体です。第一・第三木曜日の19時30分にJR南千住駅改札前に集合し、おにぎり、パンや日用品などをホームレスの皆さんにお配りしています。誰でも参加できます!
「山谷夜回りの会」の詳細は、ホームページをご覧ください。
https://yomawari.yomibitoshirazu.com/

今日も東京スカイツリーが透きとおって見えるほどキレイでした!
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毎回毎回このブログに書いていることですが、私は一人の人間として、また、キリスト者(クリスチャン)としても、人道のための支援活動を行うことが本望であり、若い時からの念願でした。学生時代から大学卒業後しばらくは友人とやっていましたが、この30年ほどはお休みしていました、8年前に再開し、またお休みして一昨年の10月から再開しました。

働けなくて経済的に困窮し、路上生活を余儀なくされている人、家族に見放され精神時に不調をきたし、路上生活を余儀なくされている人、ホームレスになった人にはいろいろな理由があるのです。行政には限界があり、国や地方自治体ができないところを私たちが支援しなければなりません。イエス・キリストは、「隣人をあなた自身のように愛しなさい(新約聖書:マタイによる福音書・第22章・第39節)」と福音で説いておられます。大切なことは「隣人への愛」とそのための「善き行い」です。昨日から「四旬節」を迎えています。特に愛徳の業に力を入れましょう!

今夜も台東区端の泪橋交差点から少し歩いた所にある、《いろは商店街(以前は200mほどのアーケード商店街でした)》に、ビニールシートのテントで寝ている方を含めて50人ほどのホームレスの皆さんが私達を待っていました。集まった13人でホームレスの皆さんに、手作りおにぎり、マスク、タオル、軍手、石鹸、歯ブラシ、髭剃り、靴下、上下の下着類、ズボン、毛布、ホッカイロ、寝袋などをお配りしました。集まった皆さんは、私のような仕事帰りの社会人は少数派ですが、中心になるのは大学生や若い20歳代~30歳代の社会人で、若い人たちが使命感を持って支援活動に取り組んでいます。

だんだん気温が上がって零下になることはなくなると思いますが、例年ですと3月に雪が降る日もあり、風邪をひかないように気を付けてもらいたいものです。ホームレスの皆さんは路上で寝る方も多く、底冷えする極めて悪い環境にありますから、体調には十分に気を付けていただきたいですね。活動が終了して反省会を行って21時過ぎに解散し、今は既に帰りの電車の中です 。
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旧約聖書:イザヤ書・第6章・第1〜第8節 [聖書]

「ウジヤ王が死んだ年に、わたしは高く上げられた玉座に座しておられる主を見た。
その衣の裾は、神殿いっぱいに広がっていた。
そばにはセラフィムが使えていた。
各々が六つの翼を持ち、二つは顔を覆うため、二つは足を覆うため、二つは飛ぶためのものであった。
互いに呼びかわし、言った。
『聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。』
その呼ぶ声によって、神殿の敷居の軸は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。わたしは言った、
『災いだ、わたしは破滅だ。
わたしは汚れた唇の者、
汚れた唇の民の中に住んでいるのに、
わたしの目は、王である万軍の主を
見てしまったのだから。』
すると、わたしの所にセラフィムのひとりが飛んできた。
その手には祭壇から火ばさみで取った、赤く焼けた炭をもっていた。
セラフィムはそれをわたしの口に触れさせて言った。
『見よ、これがお前の唇に触れたので、
お前の悪は取り去られ、
お前の罪は贖われた。』
その時、わたしは主の声を聞いた。
『わたしは誰を遣わそうか。誰がわれわれのために行くだろうか。』
わたしは言った。
『ここに、わたしがおります。
このわたしを遣わしてください。』」
「原文校訂による口語訳 フランシスコ会聖書研究所訳注 聖書」から

この聖句(聖書の言葉)は、イザヤ書の第6章・第1~8節です。この部分は、イザヤが預言者として神様から召命されるところを描いています。イザヤの召命が、やっと6章に出てくるのですね。この最後のところにある「ここに、わたしがおります。このわたしを遣わしてください。」が、今日の重要な言葉となります。
この世の創り主である神様が、人々の嘆き苦しむ声を聞き、人々を救うために「誰か代わりに行ってくれないか。」と人間達に呼びかけます。するとその呼びかける神様の声を聞いたイザヤが「わたしがここにおります。わたしでよろしければお遣わしください」と答えます。この聖句は、そのような状況を描いています。

この旧約聖書時代のイザヤが生きていた時の状況が、現代社会にも当てはまる感じがします。今の世も苦しんで助けを求めている人がたくさんいるのです。コロナの影響で倒産やリストラに遭って仕事を失った大人達、受験や就職などの競争社会で苦しんでいる子ども達、社会から見捨てられた高齢者達、このような幸せから見放された人々の叫び声は、この私たちが生きている現在社会に充満し、その叫び声は神様に届いているのです。

このような世の中にあって、誰かが泣き叫ぶ人たち = 救いを求める人たちに愛の善き行いと善き知らせである福音を伝えなければなりません。その役目を負うのが、キリスト者(クリスチャン)である私たち信徒ではないでしょうか。今まさに神様に呼ばれているのは、他の誰でもない私たち自身なのです。いつでも、どこにいても「ここにわたしがおります。このわたしを遣わしてください。」と神様に積極的に応えたいものですね。

私の<教会用(信仰生活用)>の名刺です。「ここにわたしがおります。このわたしを遣わしてください」と書いてあります!氏名はペンで隠していますが、アウグスティヌスは私の洗礼名です。
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【預言者(よげんしゃ)】
神様から召命され、神様から降る声を聴いて = 預かって、人々に伝えて正しい生き方に導く役目をする人のことです。正しい生き方 をしていない = 悪い生き方をしている人たちに預言を語るわけですから、神様の言葉だからと素直に受け入れる人たちはいいですが、受け入れずに抵抗する人たちはこの預言者を迫害したり殺したりしたのです。ですから、神様から預言者に召命されると、逃げ出す人たちもいました。ちなみに、将来を予知する「予言者」ではありません。

【セラフィム】
熾天使(してんし)といいます。天使の位階の一つで、偽ディオニシウス・アレオパギタが定めた天使の九階級のうち最上位とされています。三対六枚の翼を持ち、2つで頭を、2つで体を隠し、残り2つの翼ではばたく。神への愛と情熱で体が燃えているため、熾(燃える、などの意)天使といわれています。なお、偽ディオニシウス・アレオパギタが定めた天使の九階級は、このブログの「天使のお話し」に書いていますのでご覧下さい。https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2020-11-18-4
ジョット・ディ・ボンドーネ作のフラスコ画『聖痕を受ける聖フランチェスコ』 です。修道士フランシスコ(聖フランシスコ)が、セラフィムから聖痕(せいこん)を受けているところを描いています。
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【聖痕】
聖痕(せいこん)は、イエス・キリストが磔刑となった際についたとされる傷、また何らかの科学的に説明できない力によって信者らの身体に現れるとされる類似の傷のことをいいます。これらはスティグマータ(ラテン語: stigmata)とも呼ばれ、カトリック教会では奇跡の顕現と見なされています。聖痕は、キリストの受難において釘を打たれた①左手、②右手、③右足、④左足、「ロンギヌスの槍」によって刺された⑤脇腹の5箇所に現れるとするのが一般的ですが、キリストがかぶせられた荊冠(けいかん:いばらで編んだ冠のこと)に由来するとされる額の傷や、十字架を背負った際についたとされる背中の傷、血を含んだ涙や汗なども含まれます。
聖痕を得る際は、イエス・キリスト、聖母マリア様や天使の姿を幻視したり、その声を聞いたりするとされます。傷には出血や激しい痛みを伴い、傷口から芳香を発することがあるそうです。アッシジのフランチェスコをはじめ、ドミニコ会のシエナのカタリナなど、聖人に列せられた修道士や修道女たちにこのような聖痕が現れたと伝えられています。2002年に列聖されたカプチン会のピオ神父も聖痕があったことで知られています。

◯「ロンギヌスの槍」のことは、このブログの2019年9月4日に掲載した記事をご覧ください。
https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2019-09-04
◯「聖フランチェスコ(聖フランシスコ)」のことは、このブログの2020年10月4日に掲載した記事をご覧ください。
https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2020-10-04
◯「シエナのカタリナ(シエナの聖カタリナおとめ教会博士)」のことは、このブログの2020年4月29日に掲載した記事をご覧ください。
https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2020-04-29
◯「ピオ神父(聖ピオ司祭)」のことは、このブログの2020年9月23日に掲載した記事をご覧ください。
https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2020-09-23
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教会日記その二2021.2.17(カトリック成城・聖タデオ教会「灰の水曜日」水曜日) [教会日記]

今朝のブログに書きましたが、今日は「四旬節」の初日「灰の水曜日」です。私が所属するカトリック成城教会では、午前10から「灰の水曜日のミサ」があったのですが、仕事で与ることができないものですから、出勤前に朝7時からの「灰の式(ミサではなくご聖体拝領はない)」に与りました。その時にお願いしたお祈りがかなえられましたので、仕事帰りに感謝のお祈りに来ました。丁度時間的に午後7時からの「灰の式」に間に合いましたから再び与りました。四旬節は、お祈りに専心する期間でもありますから、お祈りに力を入れていきたいと思います。なお、灰の水曜日のことは、このブログの「灰の水曜日のお話し」に詳しく書きましたのでお読みください。https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2021-02-17-1
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「灰の水曜日」のお話し(教会日記2021.2.17(カトリック成城・聖タデオ教会「灰の水曜日」水曜日) [キリスト教関係事項・用語等]

今日は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会の7時からの「灰の式」に与ってきました。今日2月17日(水)は、「灰の水曜日(はいのすいようび)」です。カトリック成城教会では、10時から「灰の水曜日のミサ」があり、朝の7時と夜の19時に簡単な「灰の式(ミサ、聖体拝領なし)」を行うことになっていましたので、私は今朝7時の「灰の式」い与ったしだいです………ということで、今年もこのブログに「灰の水曜日のお話し」を掲載いたします。

キリスト教カトリック教会では、今日から「四旬節(しじゅんせつ)」が始まりました。イエス・キリストの復活をお祝いする「復活祭(復活の主日:今年は4月4日)」の46日前の今日が初日で、復活祭の1週間前の「聖週間」までの準備期間を四旬節といいます。この四旬節の期間は非常に大切で、カトリック教会では次の3つの行いを信仰規範として大切にしています。
①愛徳の善き行いをすること。
②祈りに専心すること。
③断食をすること。
【復活祭】
イエス・キリストが磔刑(たっけい)されてお亡くなり、3日後に復活されたことを記念するものです。これを「復活祭 = イースター」といいます。
【磔刑】
公開処刑の死刑で、十字架に磔(はりつけ)になって処刑される刑罰。

四旬節の初日である今日は、「灰の水曜日(はいのすいようび)」と言います。これは、神父様がミサのなかで、灰(シュロの枝を燃やし灰にして聖水で溶いたもの)を信徒の額に十字の印をつける(又は灰を頭に振りかける)儀式です(写真)。この意味は、次の3つに集約されます。
①「灰は、最終的に塵と終わる人間の儚さを思い起こさせるため。」という意味があること。
②灰は、古くから石鹸の代用として洗浄に使われてきたことから、「人の罪が贖われ、新たな力がもたらされる。」という意味があること。
③イエス・キリストが、エルサレム入城に際して、人々が歓喜してシュロの枝を通り道に敷いてお迎えした(新約聖書:マタイによる福音書・第21章・第8~9節)という、その歓喜のシュロの枝を燃やすことで、歓喜は消えてしまいますが、しかし、シュロの枝の灰によって死が再生につながり、復活(復活祭)の意味を先取りするという意味があること。
以上です。

灰に聖水をかけて(灰と溶かして)祝福する用具と灰です。
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灰を頭にふりかけたり、写真のように親指に灰をつけて信徒の額に十字を画いたりします。この二通りがありますが、今年は新型コロナウイルス感染症のことがありますので、頭にふりかける方法となりました。いずれにしても、司祭は「回心して、福音を信じなさい。」と言いながら灰をつけたり、ふりかけたりします。
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そして、断食(だんじき)が始まります!
断食とは、宗教上の目的で、祈願、抗議、修業、苦行として、一定の期間、一定の飲食をしないことです。どの宗教にも見られる行為で、ユダヤ教では、施し、祈り、断食は3つの大きな宗教行為でした。キリスト教カトリック教会では、これを「大斎(だいさい)」・「小斎(しょうさい)」と言います。現代の断食は、まったく食べないということはありません。
ちなみに、今日の私の朝食はバナナ、ミカン、野菜ジュースでした………いつものことですが、このまま続ければダイエットになるのですが………これが続かないんですよ~(⌒-⌒; )
【大斎】
食事の量を節制すること、つまり、1日の食事中、1食だけ充分に食事をすることができます。朝食はごく少量、他の1食は普通の半分にします。満60歳に達するまでのすべての成人が対象となります。ただし、病人や妊娠中の人は、もちろん免除されていますのでご安心ください。
【小斎】
鳥獣の肉を食べないことです。大斎は食物の量を節制するのに対し、小斎は、食物の質や美食に対する節制なのです。焼肉、シャブシャブ、ステーキ、すき焼きなど論外ですぞ!(⌒-⌒; )

イエス・キリストは、断食をするにあたり、内的な行為を大切にするようにと教えておられます。
◯新約聖書:マタイによる福音書・第6章・第16~第18節
「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」 ※「父」とは、イエス・キリストの父である神様のことです。

教会の長い歴史の中で、断食はイエス・キリストの受難にあずかる行為として大切にされていましたが、同時に行為だけが優先し、断食することが目的化してしまった時代もありました。現在、教会はイエス・キリストの精神に戻り、祈りと愛の業との関連で断食を意義づけています。具体的には、カトリック教会では、「大斎」と「小斎」を定め、償いと克己(こっき:自分の感情・欲望・邪念などにうちかつこと。)を行わせ、イエス・キリストの受難に倣うようにしています。

大斎も小斎も各自の判断にまかされています。とくに愛徳のわざ、信心業、節制のわざを実行することをもって替えることができ、14歳以上の人が守ります。大斎の日は灰の水曜日と聖金曜日。小斎の日は毎金曜日ですが、その日が祭日に当たるときには小斎とはなりません。この期間に、好きなタバコやお酒を断つなどをしている人は多いですね………そのまま禁煙に結びついた人もいますが、禁酒した人は聞いたことがありませんね( ̄▽ ̄;)

ちなみに、「灰の水曜日」の前、つまり四旬節の始まる直前に、世界各地で「謝肉祭(カーニバル)」というお祭りが行われていますが、古代・中世のキリスト教者(クリスチャン)達は、四旬節に肉食を断っていたので、その前に肉のごちそうを食べて大いに騒いでいたそうです。その習慣が今も続いているのですが、現在では宗教的な意味合いは薄れ、日本のクリスマスのように商業的になっていますね。キリスト教会とは直接関係ありません。
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「聖母マリアのしもべ会・七賢人(創立者)」のお話し [聖人・福者・尊者]

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今日2月17日は、「聖母マリアのしもべ会・七聖人(創立者)」の任意の記念日です。
七聖人は、いずれも北イタリアなるフロレンス市の元豪商で、①ボンフィリオ・デ・モナルデ、②ヨハネ・デ・ボナジュンタ、③ベネディクト・デル・アンテラ、④バルトロメオ・デリ・アミディ、⑤リコヴェロ・デ・ウグチォネ、⑥ゲラルヂノ・デ・ソステニヨ、⑦アレキシオ・ファルコニエリという名前の13世紀半ばの人達でした。
当時のイタリアは、ドイツ皇帝フェデリコ2世の軍勢に侵入され、国民はグエルフ人とギベリン人の二派に分裂し、町と町とが互いに争って不安定な殺伐とした世情でした。そこで、7人は人生の儚さやこの世の無情を感じてこの世を憂い、安寧を願わんがために主(神様)に仕えようと望むようになったのでした。

そのようなところに、1233年8月15日の「聖母マリアの被昇天の祝日」に、聖母マリア様が彼ら個々にご出現になり、修道修行を勧められたので、彼らは決心して“アッシジの聖フランシスコ”のように自分達の財産をことごとく貧しい人々にに施し、司教の許可を得て、9月8日の「聖母マリアのご誕生」の記念日をもって、郊外のカマルチアというところにある小屋で憧れの修道生活を始めたのでした。
ある日、7人が粗末な服を身にまとい町中を歩いていると、小さな子供等がぞろぞろついて来ながら、とっても面白そうに「マリア様のしもべ!マリア様のしもべ!」とはやし立てたのでした。後に彼らの修道会が司教よって「マリアのしもべ会」と命名されたのは、この子ども達の言葉が元となったのでした。しかも、その時その子ども達の中に、幼いフィリッポ・ベニチオという子どももいましたが、この子どもが、後に「マリアのしもべ会」に入り、総長の重任をおびて同会の発展に力を尽くし、死後に聖人に列せられたのでした。

7人の質素で敬虔な生活ぶりは間もなく町中の評判になり、大勢の人々が教えを乞うべく押し掛けて来るようになり、司教の許可を得て、更にそこから36㎞ほど離れたモンテ・セナリオという静寂な場所で祈りと苦行に勤しみました。ある聖金曜日の事でした。彼らがイエス・キリストのご苦難を黙想していると、聖母マリア様が再びご出現になり、「アウグスチノ会の戒律」を用い、黒の会服を着し、また聖子の十字架の下にたたずむ聖母の苦痛を尊敬すべきことをお示しになりました。7人が早速そのみ言葉に従ったことは言うまでもありません。
そして必要にかられて、フロレンス市中にアノンチアート修道院という修道院を設けました。巡回説教をするようになると、司祭でなくては都合の悪いこともあり、彼らの6人は司教の承諾を得て“叙階の秘跡(司祭の任命)”を受けましが、ただ残る一人、アレキシオだけは謙遜の心からどうしても司祭の権力を受けようとはせず。あくまで平修道者として乞食の生活を続け、恵む者の為に主(神様)の祝福を祈って一生を送りました。

7人の中で、最初にこの世を去ったのはヨハネ・ボナジュンタでした。彼は1251年8月13日、ミサを献げた後、自分の死すべき事を兄弟達に告げ、司祭服を着たまま聖書の主イエズス・キリストの御受難の顛末を読んでもらい「父よ我が魂を御手にまかせ奉る!」という所に至って腕を広げ、その言葉の通り自分の霊魂を天主の御手に返したのでした。最も長寿を保ったのはアレキシオで、彼は1310年2月17日、百十歳の高齢でフロレンス市に永眠しました。後に、教皇レオ13世から列聖されています。その創立した修道会は今や全世界に広まり、修道院はおよそ70、修道者は約800人に及んでいます。
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今日の日記2021.2.16(ブログ立ち上げ9周年!) [日記]

今朝気づいたのですが、このブログは、2012年2月12日に立ち上げたのでした。その日のブログ記事は、「今日の日記(ブログ立ち上げ成功)」として「やっとブログを立ち上げました。これから「今日の言葉」を自戒をこめて書きます。」という文章でした。あれから9年が経ちました。本日現在で、掲載記事数は6,108本、総閲覧数(アクセス数)累計2,326,087件、「SSブログ」の日記・雑感分野で422,152ブログ中35位です。

PC用画面(緑色画面)にしていただければわかるのですが、PC画面左側にある「マイカテゴリー」に、各カレゴリー別に( )内に掲載記事件数が表示されています。なお、このカテゴリー名をクリックすれば、そのカテゴリーだけの記事をご覧いただくことができます。
聖書(475)
キリスト者(クリスチャン)(1080)
聖人・福者・尊者(294)
日記(1100)
祈り(156)
キリスト教と音楽(42)
キリスト教と読書(105)
キリスト教と美術(18)
吹奏楽日記(608)
非キリスト者(ノンクリスチャン)(471)
支援活動日記(44)
今日の言葉(巷の言葉)(31)
日記(今日のニュース)(13)
キリスト教関係事項・用語等(279)
教会案内(28)
カフスボタン・コレクション(11)
職場のデスク&カウンター(133)
教会日記(953)
ロザリオ・コレクション(37)
聖品紹介(23)
絶えざる御助けの聖母(16)
マイ・ネクタイ紹介(62)
訪問教会・支援活動記録(42)
ジーニスト日記(12)
豚カツ大好き日記(4)
聖歌・聖歌隊(6)
愛飲ワイン日記(2)
今日の言葉(詩・その他)(1)
今日の言葉(ことわざ)(61)

ブログを書き始めた理由は、当初は「①神父様からお教えいただいたことや聖書を読んで学んだことなどを書き留めておこう」と思ったのが切っ掛けで、ノートがなくても、PCか携帯電話があればいつどこでも見て勉強ができるということ、そして②どうせなら「自戒のために格言・名言・金言を記事として掲載しょう。」いうことで始めました。そこから出発し、私が行っていた社会活動(吹奏楽活動)など、その日の出来事を日記として書くようになりました。そして、3年ほど経ったころに、このブログの運営方針ということを意識し、「キリスト教(カトリック教会)の福音宣教活動の一環」として位置づけるようになり、それまでは漠然としてなにも意識してこなかった読者対象を「①キリスト教にまったく興味のない人、②キリスト教の初心者(入門者)」としました。

しかし、「キリスト教にまったく興味のない人」を対象にしたところで、このブログを読んでいただけるはずはありません。ですから、掲載記事をキリスト教一色にせず、ブログのカテゴリーにあるとおり社会活動でやっていた吹奏楽などの音楽の話し、美味しかった料理やお店のグルメ話し、マイ・ネクタイの話しやジーニスト日記、有名なキリスト教に関係する音楽や美術の話し、キリスト教の初心者でも理解しやすい入門書の紹介なども掲載し、例えば“キリスト教にまったく興味のない人”が、グルメ話しの記事を読みにこのブログにアクセスした機会を好機と捉え、同時に他に掲載されている福音書などのキリスト教関係の記事を読む機会を提供し、少しでも興味を持ってもらえればと思ったからです。

では、なぜそれが「福音宣教活動の一環」になるのか?それは、まずミサの説明から始めなければなりません。「ミサ」という名称は、式の最後のラテン語の言葉「Ite, missa est.」(ite = 行きなさい、missa est = 派遣である)というフレーズの中の語に由来し、missa(ミサ)は、ラテン語で「派遣」を意味する missio(ミッシオ)に由来すると言われています。 これは、ミサをとおしてミサに与る信徒達が聖化され、イエス・キリストの教えを宣教するために世界に派遣されるということです。ミサの最後のところで、司祭(神父様)が信徒たちに「派遣の祝福」をすることでも分かります。

以上のとおり、このミサ自体が福音宣教に派遣するという意味をもっているからですが、この派遣とは、次のとおり聖書に書いてあることが根拠となっています。
◯マタイによる福音書:第28章・第19~第20節
「あなた方は行って、すべての国の人々を弟子にしなさい。父と子と聖霊の名に入れる洗礼を授け、わたしがあなた方に命じたことを、すべて守るように教えなさい。」
◯マルコによる福音書:第16章・第15節
「全世界に行き、造られたすべてのものに福音を宣べ伝えなさい。」
◯ルカによる福音書:第24章・第47節
「罪の赦しへ導く悔い改めが、エルサレムから始まり、すべての民に宣べ伝えられる。あなたがたはこれらのことの証人である。」
◯ヨハネによる福音書:第20章・第21節
「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなた方を遣わす。」
ですから、信徒は、ミサのたびに福音宣教のため世界に派遣されることになるのです。私が「福音宣教活動の一環」としているのは、福音宣教の方法を世界に発信できるインターネットという形態を使い、聖書の聖句や祈りの祈祷文などキリスト教(カトリック教会)関係の記事を掲載し、“ブログというツール”で福音宣教活動をしているのですね。ただし、間違ってはいけないのは、福音の宣教であって信徒の勧誘ではありません。新興宗教団体の勧誘のようではいけないのです。福音は「善き知らせ」という意味です。聖書に書かれたイエス・キリストの教えを知っていただき、善き行いに導くことが福音宣教なのです。

現在のところ毎日更新しております。1日に記事を6本も掲載したこともあり、随分と時間がある(暇である?ことを証明している)ように思われますが、このブログは、記事原稿を保存(下書き)する機能があるため、日祭日の休みの日や通勤の行き帰りの電車の中で、パソコンはもちろん携帯からも<執筆作業>ができるのです。この3年は、過去の記事を一部加筆・修正して再掲載~最高6回も過去の記事を掲載することが多くなり、執筆作業は楽をしていますが、その時折りのトピックスは新たに書いています。これからもこのブログを書き続けてまいります。拙いブログではありますが、これからもご愛読のほどよろしくお願い申し上げます。
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教会日記2021.2.16(カトリック成城・聖タデオ教会「平日のミサ」火曜日) [教会日記]

今日は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会の7時からの平日のミサに与りました。昨日は、久しぶりに雨が降りましたね〜。乾燥していましたから街も野山も潤いましたね。でも、北海道、東北や北陸地方は、猛吹雪となっていますから十分に気をつけてもらいたいと思います。一昨日の地震の影響もあり、土砂崩れなどに要注意ですね。
さて、明日17日(水)は、「灰の水曜日」を迎えて「四旬節」が始まります。4月4日(日)の「復活祭(復活の主日)」に向けての準備がはじまるわけですね。物理的な準備ではなく、信仰を高めるための心的な準備ですね。詳しいことは、このブログの明日17日の記事に書きますね。

ミサでは、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
と気持ちを込めてお祈りしてきました。
また、行方不明となっている小学2年生の小倉美咲ちゃんが、元気な姿で両親の元に帰れるようにお祈りし、同僚の病と同じ病の私が親しくしているご婦人の二人が癒されるよう祈りしました。
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新約聖書:ヨハネの手紙 一・第1章・第9節 [聖書]

「私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。」
「聖書協会共同訳 聖書」から

この聖句(聖書の言葉)は、カトリック教会の「赦しの秘跡(ゆるしのひせき)」のことを言い表しています。「赦しの秘跡」とは、罪を犯した信徒が、聴罪司祭(ちょうざいしさい:神父様)に告解(こっかい)して罪を赦してもらうというものです。もちろん罪を赦すのは、神様であって司祭ではありません。「赦しの秘跡」として、罪の赦しのための行為ができるのは、イエス・キリストの12人の使徒の後継者である司教と、司教の協力者である司祭だけです。司教・司祭(聴罪司祭)は罪の告白を聴き、「父と子と聖霊のみ名によって」罪を赦す権能を行使します。要するに神様に代わって罪を赦す宣言をするということですね。また、聴罪司祭には守秘義務があり、告白によって知り得た罪について、完全な秘密を守るように義務(秘守義務)づけられていて、これに背けば厳罰を科せられることになります。ですから、告解した内容は厳守されます。なお、「赦しの秘跡」を受けることができるのは、洗礼を受けたカトリック教会の信徒だけとなります。

ちなみに、次のような会話をよく耳にします。
A子「今日ね、教会で神父様に罪の告白をしてお赦しをいただいちゃいました!」
B太「そうなんだ~、懺悔(ざんげ)してきたんだ。」
A子「懺悔じゃないから!」
B太「だって罪の告白って懺悔のことじゃん!」
A子「なに言ってんの!?罪の告白は告解(こっかい)って言うんだよ。」
B太「なにそれ~。どう違うの?」(⌒-⌒; )

「赦しの秘跡」での告解を「懺悔(ざんげ)」と間違う人がいますが、懺悔はカトリック教会では使われず、カトリック教会での宗教的意味は全くありません。そして、お祈りの中で罪を認めるときは「罪の告白」といいます。カトリック教会の告解はとても大切な秘跡で、告解 = 懺悔ではないと考えられています。わかりやすく言えば懺悔は「ごめんなさい」と謝ることで、告解は「振り返り、あやまり・罪を認め神様に赦していただくこと。」です。「赦しの秘跡」で告解をし、そして、最後のところで「あなたの罪は赦されました。」と神様に代わって聴罪司祭が宣言します。これは罪が赦されたことを意味しています。

【聴罪司祭(神父)】
「赦しの秘跡」において、信徒の罪の告白を聴き、赦免(赦し)を与える司祭のこと。もちろん、「赦しの秘跡」の指導を受けて秘跡を修得し、聴罪司祭としての訓練をされていますから、信頼して告解できます。(告解とは、聴罪司祭に罪を告白すること。)
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