教会日記2020.7.14(カトリック成城教会「平日のミサ」火曜日) [教会日記]

今日も出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城教会の7時からの平日のミサに与りました。今朝は、いつものように梅雨の雨空です。豪雨により甚大な災害を被った九州はもとより、全国的に災害に見舞われています。亡くなられた方々の永遠の安息と、被災された皆さんが早く平常の生活に戻れるようお祈りいたします。

ミサでは、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
と気持ちを込めてお祈りし、共同祈願では、『新型コロナウイルス感染症に苦しむ世界のための祈り』をお祈りしました。
また、行方不明となっている小学2年生の小倉美咲ちゃんが、元気な姿で両親の元に帰れるようにお祈りし、同僚の病が癒されますように、同僚のお嬢さんの病気が完治しますようにと心を込めてお祈りしました。
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新約聖書:マタイによる福音書・第10章・第34〜第39節 [聖書]

「わたしが地上に平和をもたらすために来たと思ってはならない。わたしが来たのは、平和ではなく剣を投ずるためである。わたしが来たのは、人とその父と、娘をその母と、嫁をその姑と対立させるためである。自分の家族の者が敵となる。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしの後に従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者はそれを失い、わたしのために命を失う者は、それを得る。」
『原文校訂による口語訳 フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

このブログに4回目の掲載となります。
この聖句(イエス・キリストの言葉)は、新約聖書におけるイエス・キリストの全聖句の中でも、最も意味を読み取るのが難しいところの一つです。読めば分かることですが、言葉自体の意味は単純明快で、使われている単語が難しいとか、文章が複雑すぎて理解しにくいということではありません。しかし、“愛と赦しの平和の神”であるはずイエス・キリストが、聖書全体で述べている今までの言動や行動からすると、到底素直には受け止められない驚くべき内容なっているため、この言葉の意味(=真意)を理解するのが難しいということなのですね。

「平和ではなく剣をもたらすためにやってきた」とは、まったく穏やかではありません。イエス・キリストご自身は、“山上の説教”の中で「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」と説いておられます。しかし、そうおっしゃるイエス・キリストの口から「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」というわけです。これは明らかに矛盾しています。
確かに、この言葉だけを前後の文脈から切り離して聞くと、とても恐ろしい言葉のように思えてきますが、ここでイエス・キリストが用いている「剣」という言葉は、文字通りの意味の「剣」ではなく、家族の中に起る敵対関係をもたらすもの(こと)を「剣」と呼んでいるのですね。家族団欒の場が、たちまち敵対し合う場と変わってしまうということなのです。

実は、ここでイエス・キリストが説いている言葉は、旧約聖書にある「ミカ書(預言書)」第7章に書かれていることを元にお話しになった言葉だといわれています。そこに記されているのは腐敗しきった当時(紀元前)のイスラエルに対する審判の言葉です。役人も裁判官も報酬を目当てに語り不正を行い、名士も私欲のために働き、最善のものでさえ茨にも劣る腐敗した社会だったのです。そのような社会に対する審判として「息子は父を侮り、娘は母に、嫁はしゅうとめに立ち向かう。人の敵はその家の者だ」(「ミカ書」第7章・第7節)という事態が起るのです。つまり、罪と腐敗の結果として、このような事態が起ると預言者ミカは神の審判の日を預言しているのです。そういう意味では、この家族の中で起こる敵対関係は、決して積極的にもたらそうと意図したものではありません。人間の罪の結果としてもたらされるものなのです。

ここでは、その言葉を受けて、その預言者ミカの言葉を背景としてイエス・キリストはお話しになっているのです。キリストは正に審判をもたらす者として立っておられます。しかし、もたらす審判はあくまでも人間の罪の結果なのです。そういう意味で、家族の中で起る敵対関係の責任を神(イエス・キリスト)に押し付けることはできません。救い主であるイエス・キリストは、“愛と赦しの平和の神”なのです。イエス・キリストが説く平和とは、罪にまみれた仲間同士が見て見ぬふりをしているような腐りきった嘘の平和ではなく、罪に終止符が打たれ、神との間でまことに成立する平和なのです。
これこそがイエス・キリストが実現させる平和なのです。そこで、罪と腐敗がもたらす家族の混乱の中で、イエス・キリストに従う信仰の決断が促されています。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。」このイエス・キリストの言葉も、これだけを切り離して考えるべきではないですね。

父と母を敬うことはモーセの『十戒』に教えられていることです。イエス・キリストはその戒めをどうでもよいと無視しているわけではありません。神を愛し、隣人を愛することは、イエス・キリストがもっとも大切にしたことです。ここで問題となっているのは優先順位の問題なのです。罪ある人間の世界では、父や母を大切にし、隣人を愛しているといいながら、神への畏れを欠いているために、結局は自分自身が最優先されてしまっているのです。「自分の十字架を担ってキリストに従う者」、つまり、神への愛を最優先するものが、神をも人をも愛する生き方を実現することができるとイエス・キリストは説いているのです。イエス・キリストは、そのような世界を実現するために弟子たちを派遣して人々を招いているのですね。

聖書、特に新約聖書に記載されているイエス・キリストの教えは、たとえ話が多く、今日の聖句のように、解釈しないと理解できないところが多いですね。そのためにもいろいろな「聖書注解書」などが出版されているのですが、カトリック教会で聖書講座や入門講座を受講するか、ミサで司祭(神父様)の”説教”を聴くのが、正確な聖書理解の早道です。とにかく聖書については、神父様に教えてもらうのが最善の方法ですね。
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