「聖マリア・ゴレッティ」のお話し [聖人・福者・尊者]

今日7月6日は、「聖マリア・ゴレッティおとめ殉教者(イタリア王国:1890年10月16~902年7月6日)」の任意の祝日です。12歳で殉教した少女です。イタリア王国の旧教皇領であったアンコーナ県コリナルドで、貧しい農夫の両親と7人兄弟の家庭に長女として生まれ、敬虔なカトリック信徒である両親から愛情を受けて信仰深く育ちました。
聖マリア・ゴレッティ.jpg
10歳の時に父を失い、母親のアスンタ・カルリーニは6人の子供を抱え、以前から同じ家(一説には隣家)に住むセレネッリ家を頼るようになります。このころ彼女は待望の初聖体(カトリック教会の習慣)を受け、敬虔な生涯を送る決心をします。ところが、セレネッリ家の息子のアレッサンドロは、彼女にただならぬ思いを寄せ、彼女の母親の留守をねらっては彼女を誘惑しましたが抵抗し続けました。しかし、彼女が12歳の時にアレッサンドロは短剣をもって脅し、彼女は「それは罪です」と言って抵抗したのですが、ついに彼女を刺してしまいました。翌日彼女は、「彼を赦してやってくださいね。いつか、天国でまた会いたいわ。」と言い残して息を引き取ったそうです。

殺人罪で逮捕されたアレッサンドロは、罪状からすれば死刑に相当するところでしたが、未成年(犯行当時19歳)であるという理由で酌量され、30年の懲役を受けました。ある日、彼の夢の中にマリア・ゴレッティが現れ、彼女から百合の花1本を渡されました。アレッサンドロは彼女が自分を許してくれたと確信して改心しました。その後、27年目に出所して彼女の母親に赦しを願いに行きました。母親は、娘の言葉どおり彼を迎え入れえ赦し、共に彼女のために教会でミサを捧げたのでした。カプチン・フランシスコ会の修道院で園丁として働き、1970年に生涯を閉じるまで模範的な人生を全うしたそうです。
マリア・ゴレッティは、教皇庁から正式に殉教者と認められて列聖調査が始まり、1947年にローマ教皇ピウス12世によって列福され、1950年に列聖されました。マリア・ゴレッティは、キリスト教的生活(貞潔)の殉教者として尊ばれています。
nice!(0)  コメント(0) 

教会日記2020.7.6(カトリック成城教会「平日のミサ」月曜日) [教会日記]

今日は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城教会の7時からの平日のミサに与りました。少々厳しい雨が降っています。今日は、62歳の誕生日です!(^∇^)まぁ、歳は毎年、誰でも漏れなくとりますからね(⌒-⌒; ) 今年も「ぼちぼちの精神」でやっていきます!

ミサでは、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
と気持ちを込めてお祈りし、共同祈願では、『新型コロナウイルス感染症に苦しむ世界のための祈り』をお祈りしました。
また、行方不明となっている小学2年生の小倉美咲ちゃんが、元気な姿で両親の元に帰れるようにお祈りし、同僚の病が癒されますように、同僚のお嬢さんの病気が完治しますようにと心を込めてお祈りしました。
nice!(0)  コメント(0) 

「数年前のお説教」のお話し [日記]

今日は、ミサでのお説教のお話しです。
数年前、社会活動で地方に出張した折に、ある教会のミサに与りました。過去の手帳を見ていたら、そにの時のミサ説教のメモがありました。あのころは真面目にお説教の内容をメモしていたのですね( ̄◇ ̄;) うろ覚えですが、確か神父様は「動じない心」か「動揺しない人」かのテーマでお話しされていたと思います。メモの内容を基にして、お説教の概要を再現します。

「意図的であろうと恣意的であろうと、悪口や噂(うわさ)は悪意そのものです。悪口や噂によって自分の人格を傷つけられることは最も苦痛なことです。噂が真実でも、中傷的な内容であっても、いずれにしてもこれらは人を通して広まり、噂されている本人は、それに対して無力であることに気付くのではないでしょうか。
人格を傷つけることは、その人の信用や評判を落とし、名誉を傷つけ、その人が誰かと良い関係を築いていく妨げとなります。また、人からの信頼の機会も奪われてしまうことになります。これらは、他人に悪く話すときに起こります。中傷する人がより多くの支持や賛同を得る一方で、被害者は信用を失ってしまうのです。

旧約聖書・新約聖書の中にも、中傷される人たちが出てきます。「ヨブ記」では、主(神)の御前でヨブはサタンに人格を攻撃され、福音書には、使徒であるパウロが裁判で嫉妬深いユダヤ人に言い掛かりをつけられ、そして、イエス・キリストご自身でさえ、提督ピラトの前でファリサイ派の人たちから悪く言われたのです。
彼らが経験したことは大変なことでした。しかし、後で計り知れない大きな名誉を授かったのです。試練の後、ヨブは彼が失ったものの2倍以上の祝福を贈られ、パウロは何の妨げもなくローマで福音を伝えることができ、イエス・キリストは、私たちの救いのために代価を払われ、その御名はすべてに勝る名となったのですね。

そこで、私たち信徒は、聖書に書いてあるとおり、次のとおり考え行動すべきです。
1.まず、「真実は何かということを自覚する」こと。
誹謗・中傷は、事実を誇張したり歪曲して、ほとんど嘘のことを事実のように作り上げます。そこで、真実を確認しましょう。そして、自分に非がある場合は、主(神)の前でそれを悔い改めることです。真実を知り、その真実の立場に立って何事にも動じないようにしましょう。
〇新約聖書:コリントの信徒への手紙一・第15章・第58節
「私の愛するきょうだいたち、こういわけですから、しっかり立って、動かされることなく、いつも主の業に常に励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っているからです。」

2. 次に、「主(神)に聴いていただき助けを求める」こと。
聖書に書いてあるとおり、主(神)は真摯な方です。いつどこにおいても私たちの切なる願いを必ずお聴きしてくださいます。怒りや復讐心を捨ててそれを信じることです。とにかく主(神)に祈りましょう!
〇新約聖書:ローマの信徒への手紙・第12章・第19節
「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐は私のすること、わたしが報復する』と主は言われる。と書いてあります。」

3. そして、「誹謗・中傷する人を心から祝福する」こと。
最後に一番大切なことは、誹謗・中傷する人に慈しみの心をもって憐れむことです。その最高の方法は、その人を祝福することです。聖書には、「あなたを迫害する人々のために祈り、あなたを傷つける人々を祝福するように」と書いてあります。そうすることによって、誹謗・中傷する人の発言が間違っていることを証明するだけでなく、誹謗・中傷した人=罪を犯した人たちに潔白を示すことができるのです。そして、ミサで全世界に派遣された私たちの使命である「福音を述べ伝える」ことができるのです。
〇新約聖書:ローマの信徒への手紙一・第12章・第14節
「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福するのであって、呪ってはなりません。」
〇新約聖書:ローマの信徒への手紙一・第12章・第20節
「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」
〇旧約聖書:箴言・第25章・第21~第22節
「あなたを憎む者が飢えているならパンを食べさせ、渇いているなら水を飲ませよ。こうしてあなたは彼の頭に炭火を積み、主はあなたに報いてくださる。」
以上、聖書の引用は『聖書教会共同訳聖書』から

以上がお説教の概要です。
この世を生きていくということは、自分一人だけでは生きていけないのです。自分を取り巻くいろんな人と接して生きていくわけです。親子、兄弟・姉妹、家庭、親戚、親友・友人、子弟、上司、部下、同僚、他人、近所付き合いなどなど、すべては「人間関係」なわけです。また、「友人」というカテゴリーであっても、対人関係は個々によって同じではないわけです。微妙に違ってくるわけです。
その対人関係は、ほとんど感情に支配されるわけです。ただでさえ複雑多彩な人間関係に、感情という複雑怪奇で制御不可能なものが入り込んでくるわけですね( ̄◇ ̄;) 日々こういう状況下で、心の平安を確保・獲得するには、まず、自己努力?をする心の拠り所とするものが必要となるのです。それが宗教というものかもしれません。私の場合は、キリスト教カトリック教会の信仰となるわけです。

このブログに何度も書いていますが、どんなに困難なことがあっても、どんなに悲しいことがあっても、どんなに試練が襲ってきても、「いつも主(神)が側にいてくださる。」、「いつも主が見ていてくださる。」と確信することができれば、心の平安を得ることができるのです。
つまり、これが信仰の証であると思うのです。ですから、どんなに誹謗・中傷されても、主が真実を知っておられる、主が守ってくださると思えば動揺することはないのですね。私は、この信仰のおかげで随分と助けられ、心の平安を保つことができています。いつも神に感謝です。

【うろ覚え】
確かでなく、ぼんやりと覚えていること。確かでない記憶のこと。「うる覚え」は間違いです。類語として「そら覚え」があります。
nice!(0)  コメント(0)