教会日記2020.2.9(カトリック麹町・聖イグナチオ教会「主日のミサ」日曜日) [教会日記]

今日は、娘の彼(婚約者)の実家である福島県郡山市にご挨拶に行き、東京に帰ってきて時間が間に合ったものですから、JR四ツ谷駅で途中下車してカトリック麹町・聖イグナチオ教会の18時からの主日のミサに与りました。日曜日の夜の主日のミサは久しぶりでした。

18時のアンジェラスの鐘が響き渡るなか「お告げの祈り」をお祈りし、ミサではご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
と気持ちを込めてお祈りしてきました。
また、行方不明となっている小学一年生の小倉美咲ちゃんが、元気な姿で両親の元に帰れるようにお祈りし、同僚の病が癒されますように、同僚ご本人の大怪我とお嬢さんの病気が完治しますようにと、心を込めてお祈りいたしました。
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今日の日記2020.2.9(ご挨拶!) [日記]

今日は、娘の結婚相手(婚約者)である彼の実家のご両親にご挨拶するため、私達夫婦と東京で働いている娘と彼と4人で福島県郡山市に行ってきました。彼は3人兄弟の末っ子で、ご両親は私達夫婦よりも歳上です。お父様は内科の開業医で、まだまだ現役バリバリの医師です。ちなみに、彼のお姉さんは歯科医です。お母様は茶道のお師匠様でとてもお優しい方です。きちんとした立派なご家庭ですから娘を安心して嫁にやれます。

今月の22日に入籍して結婚式は後日になります。二人とも転職したばかりですから、子ども(孫)はまだまだ先の話しですね。なかなかお爺ちゃん・お婆ちゃんにしてもらえないようです。職場の同僚から「寂しくなるね。」とよく言われますが、二人とも東京暮らしですから寂しさは感じないのですが、それよりも、娘の〈永久就職〉が決まって安堵感でいっぱいです(⌒-⌒; )
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新約聖書:マタイによる福音書・第6章・第14〜第15節 [聖書]

「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださる。しかし、あなた方が人を赦さないなら、あなた方の父も、あなた方の過ちを赦してくださらない。」

この聖書の聖句は、過去4回掲載しましたが再度掲載いたします。
ここでいうところの「父」とは、イエス・キリストの父なる神様のことです………というと、神様はイエス様を含めて2神なんだ!と言いたくなりますが、そうではなく、キリスト教の神様は、「三位一体(さんみいったい)」の神様です………ということです???ですね。これはキリスト教の根本をなすことであり、キリスト教の最高最大の教義となる唯一の神のことです。

三位一体の神とは、「父なる神」、「子なる神」と「父と子から出る聖霊」による三つの位格(ペルソナ)が一体となった“一つの神”ということです。ここでいう子なる神がイエス・キリストのことです。このブログでは、よく「主(神)」と書きますが、主は父なる神のことであり、子なる神であるイエス・キリストのことも指します。ですから、聖書の中に「父」とでてくるのは、イエス・キリストの父なる神のことです………という表現をすると、神様は聖霊を合わせて3神じゃないか!って思うかもしれませんが、神様は聖霊を含めて1神というか1つなのです。

この三位一体の神様は、もちろん、カトリック教会、プロテスタント教会諸派、正教会、聖公会に共通していることです。「三位一体」を教義としていない(拒否して・否定して)、キリスト教を名乗って一般市民を勧誘する宗教団体がありますが、それはキリスト教ではありません。現在、そのような宗教団体に対して、カトリック教会、プロテスタン教会の教派、日本正教会(ギリシャ正教会やロシア正教会等の東方正教会の教派)及び日本聖公会(イングランド国教会とうの教派)は、これらの宗教団体を「正統なキリスト教団体とは認めない」旨を公表しています。

では、分かりやすく説明いたしましょう。
この「三位一体の神」は、初めてキリスト教を学ぶ方にとっては、理解するのに大変難しいと感じるところですね。これを理解するのに最適な本があります。それは、カトリック浅草教会の主任司祭である晴佐久昌英(はれさくまさひで)神父様が書いた『幸いの書』という本です。この中に三位一体の優しい表現が例え話しとして記載されていますのでご紹介します。少し長くなりますが引用しますね。

「小さな子供が道で転んで泣き出しました。どうやら、足をすりむいてしまったようだ。かわいいひざ小僧に、血がにじんでいる。
すぐにお母さんが駆け寄り、わが子を抱き起こして、優しい声で語りかける。
『おお、よし、よし、あらあら痛かったねえ。ほらほら、もうだいじょうぶよ。痛いの、痛いの、飛んでけー』
お母さんの腕に抱き上げられて、すぐに子供は泣き止む。お母さんが耳元で何かささやくと、途端に笑顔になった。子供はいつだって、親心に包まれている。
この幸いな子供を私たちとするならば、お母さんは天の父、お母さんの手と声がイエス・キリスト、お母さんからあふれ出て子供を包む親心が聖霊である。
この三つ、すなわちお母さん自身と、お母さんが伸ばした手と声、そしてその親心は、一つであって分けることができない。
そこにあるのは、ただ子供を助けたいという純粋な思いだけである。天の父とイエス・キリストと聖霊は、純粋な一つの愛として存在する。……」
ご理解いただけましたでしょうか?

そこで今日の聖句ですが、これはイエス・キリストの聖句です。聖書に何度も出てくる主(神)の「赦し」の教えですね。イエス様は、いかに人の過ちを赦すことが大切なのかを何度も何度も繰り返して説いています。人間は「赦せない」、「赦さない」となると、それだけで憎しみや怒りが増して心が平和でいられなくなり、やがて相手を罵り、争い、最後には戦争(殺人)の世の中になっていくのです。現在、世界で行われている戦争・紛争が物語っていますね。ですからイエス・キリストは何度も「赦し」を説くのです。これこそ我々全人類が自戒すべき大切な言葉だと思います。
ちなみに、イエス・キリストは、復活して天の昇る直前、使徒(弟子)たちを福音宣教に派遣する場面で、使徒たちに次のとおりお話しされました。
「誰の罪であれ、あなた方が赦せば、その罪は赦される。あなた方が赦さないなら、赦されないまま残る。」(新約聖書:ヨハネによる福音書・第20章・第23節)
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