教会日記2020.2.7(カトリック麹町・聖イグナチオ教会「平日のミサ」金曜日) [教会日記]

今日は、仕事が終わってから膝の痛みを柔らげるために整体院に行く前に四ッ谷まで足をのばし、カトリック麹町・聖イグナチオ教会の18時からの平日のミサに与りました。明日は先日の日曜日に出勤した振替休日でやっとお休みです!

18時のアンジェラスの鐘が響き渡るなか「お告げの祈り」をお祈りし、ミサではご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
と気持ちを込めてお祈りしてきました。
また、行方不明となっている小学一年生の小倉美咲ちゃんが、元気な姿で両親の元に帰れるようにお祈りし、同僚の病が癒されますように、同僚ご本人の大怪我とお嬢さんの病気が完治しますようにと、心を込めてお祈りいたしました。さぁ、整体院に行ってきま~す!
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「日本二十六聖人」のお話し [聖人・福者・尊者]

一昨日(2月5日)、「日本二十六聖人」の祝日でした。言い訳になりますが、微熱続きで体調不良なため掲載するのを忘れていました。痛恨の極みです!………ということで、今年も「日本二十六聖人のお話し」を掲載(昨年と同じ記事を掲載)いたします。「日本二十六聖人」とは、1597年2月5日(慶長元年12月19日)、豊臣秀吉の命令によって長崎の西坂で磔(はりつけ)の刑に処された26人のカトリック信者のことです。日本において、キリスト教の信仰を理由にして時の最高権力者の命令による処刑が行われたのは、これが初めてでした。この出来事を「二十六聖人の殉教」と言います。26人は後にカトリック教会によって聖人の列に加えられたため、「日本二十六聖人」と呼ばれることになりました。殉教した26人のうち、日本人は20人、スペイン人が4人、メキシコ人、ポルトガル人がそれぞれ1人で、すべて男性でした。
26人は、京都、堺、大阪市内を引き回された後、長崎までの道のりを歩かされました。長崎の西坂に26の十字架が立てられ、磔(はりつけ)になった彼らは、最期までともに祈り、聖歌を歌いながら殉教を遂げたそうです。彼らの死は日本の教会の初穂となり、この地はキリシタンの巡礼地となりました。長崎26聖人記念館には遺品の一部が安置されています。
日本二十六聖人3.jpg
カトリック教会においては、当時盛んに殉教者の遺骸や遺物(聖遺物)を尊ぶ習慣があったため、処刑終了後、彼らの遺骸は多くの人々の手で分けられ、日本で最初の殉教者の遺骸として世界各地に送られて崇敬を受けたそうです。「日本二十六聖人」は、近世においては、日本よりもヨーロッパにおいてよく知られていましたが、それはルイス・フロイスなどの宣教師たちの報告書によるところが大きいといえます。1862年6月8日、ローマ教皇ピウス9世によって列聖され、列聖100年を記念して西坂の丘に日本二十六聖人記念館(今井兼次の設計)と彫刻家の舟越保武による記念碑「昇天のいのり」が建てられました。カトリック教会における「日本二十六聖人殉教者」の祝日は2月5日です。
長崎市お西坂公園にある「日本二十六聖人」の記念碑(レリーフ)です。
日本二十六聖人2.jpg
(以下、二十六聖人記念碑の右側から順に列挙)
・フランシスコ吉(きち)
日本人の大工・フランシスコ会士の世話をするため一行に付き添い、道中で捕縛
・コスメ竹屋
日本人、38歳・大坂で捕縛
・ペトロ助四郎(またはペドロ助四郎)
日本人、イエズス会士の世話をするため一行に付き添い、道中で捕縛
・ミカエル小崎(またはミゲル小崎)
日本人、46歳・京都で捕縛・トマス小崎の父親
・ディエゴ喜斎(時に、ヤコボ喜斎、市川喜佐衛門、備前屋喜左衛門とも)
日本人、64歳・大坂で捕縛・行商者として上阪し商家に奉公した後、イエズス会士として祭壇係および門衛(接待係)に就いていました。
・パウロ三木
日本人・33歳・大坂で捕縛・イエズス会士
・パウロ茨木
日本人・54歳・京都で捕縛・レオ烏丸の兄
・五島のヨハネ草庵(又はヨハネ五島)
日本人・19歳・大坂で捕縛・イエズス会士
・ルドビコ茨木
日本人・12歳で最年少。京都で捕縛・パウロ茨木、レオ烏丸の甥
・長崎のアントニオ
日本人・13歳・京都で捕縛・父親は中国人で母親は日本人
・ペトロ・バウチスタ(又はペドロ・バプチスタ)
スペイン人・48歳・京都で捕縛・フランシスコ会司祭
・マルチノ・デ・ラ・アセンシオン
スペイン人・30歳・大坂で捕縛・フランシスコ会司祭
・フェリペ・デ・ヘスス(又はフィリッポ・デ・ヘスス、本名はフェリペ・デ・ラス・カサス)
メキシコ人・24歳・京都で捕縛・フランシスコ会修道士
・ゴンザロ・ガルシア
ポルトガル人・40歳・京都で捕縛・フランシスコ会修道士
・フランシスコ・ブランコ
スペイン人・28歳・京都で捕縛・フランシスコ会司祭
・フランシスコ・デ・サン・ミゲル
スペイン人・53歳・京都で捕縛・フランシスコ会修道士
・マチアス
日本人・京都で捕縛・本来逮捕者のリストになかったが、洗礼名が同じというだけで捕縛
・レオ烏丸
日本人・48歳・京都で捕縛・パウロ茨木弟でルドビコ茨木の叔父
・ボナベントゥラ
日本人・京都で捕縛
・トマス小崎
日本人・14歳・大坂で捕縛・ミカエル小崎の子
・ヨアキム榊原(又はホアキン榊原)
日本人・40歳・大坂で捕縛
・医者のフランシスコ(又はフランシスコ医師)
日本人・46歳・京都で捕縛
・トマス談義者
日本人・36歳・京都で捕縛
・絹屋のヨハネ
日本人・28歳・京都で捕縛
・ガブリエル
日本人・19歳・京都で捕縛
・パウロ鈴木
日本人・49歳・京都で捕縛
以上です。
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「聖アガタおとめ殉教者」のお話し [聖人・福者・尊者]

昨日(2月6日)は、「聖アガタおとめ殉教者」の記念日でした。今年も「聖アガタおとめ殉教者のお話し」として掲載(昨年と同じ記事を掲載)いたします。記念日は正式には2月5日ですが、日本では2月5日は「日本26聖人殉教者」の祝日となっているため、聖アガタの記念日は2月6日となります。
聖アガタ(又は「シチリアのアガタ」)はキリスト教の聖女です。カトリック教会・正教会・非カルケドン派で聖人となっています。イタリアのシチリア島・カターニアの裕福な貴族の家庭に生まれ、250年頃に殉教したとされています。15歳の時にはすでに神に身をささげ、信者として生きる決意を固めてました。正教会では「聖致命女アガフィヤ」です。

そのような美しい娘アガタと彼女の財産に目をつけた当時シチリアでも支配力を持っていたローマ総督は彼女にプロポーズします。しかし、彼女はカトリックの信徒として純潔な身でありたいという意思を貫き、申し出を頑なに拒んだため、総督の権力により迫害を受けることになります。牢屋に入れられ暴力を受け、最後には乳房を切り落とされます。
彼女は、それでも祈り続けることをやめず、奇跡的に乳房は完治します。ところが、更に総督の反感を買った彼女は火あぶりの刑にされることになりました。火あぶりにされた際に彼女を包んでいた赤いヴェールだけは、奇跡的に無傷のまま残っていたそうです。この赤いヴェールは、その後、彼女の聖遺品として現在も大切に保存されているそうです。
「シチリアのアガタ」フランシスコ・エ・スルバラン作
聖アガタ.JPG
現在、カターニアの守護聖人、カトリック教会のミサの中で名前が読み上げられる七人の女性の一人(「聖母マリア」は除く)となっています。また、両方の乳房を切り落とされ、そのために彼女は切り落とされた乳房を皿の上に乗せて持つ姿で描かれることが多いのです。聖アガタの絵はたくさんありますが、胸に布を当て出る血を押さえる絵や自分の乳房をお盆にのせているという、すごく猟奇的な絵になってますね(⌒-⌒;)
彼女が捧げ持つ乳房の形との関連から、聖アガタは鐘職人やパン屋の守護聖人とされているのですが、近代に入ると、乳房と言うことで乳癌患者の守護聖人ともされていますね。また、1551年にオスマン帝国がマルタ島に侵攻したときは、人々はアガタにとりなしを祈りました。結果的にマルタ島は守られたため、彼女はマルタの守護聖人となっています。そして、エトナ火山が爆発したとき、彼女の遺物によって町を救ったと伝えられることから、火災予防の守護聖人とされています。
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新約聖書:マタイによる福音書・第7章・第12節 [聖書]

「何事につけ、人にしてもらいたいと思うことを、人にもしてあげなさい。」

この聖句(イエス・キリストの言葉)は、聖書の中でも“黄金律”と言われるほど重要な聖句です。黄金律(Golden Rule)とは、「宗教、道徳や哲学で見出される「他人にしてもらいたいと思うような行為をせよ」という内容の倫理学的言明」のことです。このブログに5回目の掲載となります。

旧約聖書の「トビト記」の第4章・第15節に、「自分が嫌なことは、ほかのだれにもしてはならない。」とあり、孔子は「論語」の中で、「己の欲せざるところ、他に施すことなかれ。」と説いておられますし、ユダヤ教では「あなたにとって好ましくないことをあなたの隣人に対してするな。」とあり、ヒンドゥー教では「人が他人からしてもらいたくないと思ういかなることも他人にしてはいけない。」とあり、イスラーム(イスラム教)では「自分が人から危害を受けたくなければ、誰にも危害を加えないことである。」と、この聖句とは、すべて逆説的に書かれています。

私達は、よく人にしてもらいたいと思うことはたくさんあるようですが、人にしてあげるとなると、あまり気が付くことも少ないものですね。その人がしてもらいたいことをしてあげれるように、普段から心がけることが大切ですね。また、その逆説的には、「自分が嫌だと思うことは、人にはするな。」となります。私の自戒すべき言葉です。
クリスチャン作家の三浦綾子さんのエッセイ『あさっての風』に、「「理解してほしい、慰めてほしい」という、人から受ける姿勢から、「理解してあげたい、慰めてあげたい」という、与える姿勢に変わる時、悩みのほとんどは解決していることを、わたしはその時から今まで、何十回となく経験させられてきたのである」と書かれています。
三浦さんは、まさに「人にしてもらいたい。」が、「人にしてあげたい。」という“与える姿勢”に変わった時、今まで悩んでいたことが解決されたと、そのことの経験をとおして自覚されたということです。素晴らしいことですね。
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