教会日記2023.3.23(カトリック成城・聖タデオ教会「四旬節第四木曜日のミサ」木曜日) [教会日記]

今朝は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会での早朝7時からの「四旬節第四木曜日のミサ」に与りました。早いもので、3月も下旬となりました。4月から新年の令和5年度が始まります。職場では、令和元年からこの4年間、財務部長と経理課長を兼務してきましたが、4月から経理課長補佐が経理課長に昇格しますので、やっと財務部長だけとなります。定年退職まであと1年、最後のご奉公です。頑張ります!

ミサでは、まず主を讃える祈りです。
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と祈り、
そして、主に感謝です。
「今日も清々しい朝を迎えさせていただき、
主の慈しみとご聖体を拝領させていただいたことに感謝申し上げます。」

次に、主により頼む祈りです。
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
と祈り、

そして、主に派遣の祈りです。
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」
と祈り、

終わりに、『大天使聖ミカエルへの祈り』です。
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
と祈りました。
nice!(0)  コメント(0) 

『カトリック教会のカテキズム』のお話し [キリスト教関係事項・用語等]

今日ご紹介する『カトリック教会のカテキズム』は、ヨハネ・パウロ2世教皇によって公布された、ローマ・カトリック教会とローマに連なる21の東方典礼カトリック教会の教理(教え)の、公式な説明書です。1992年にフランス語版が発行され、英語を含む他の多くの言語に訳されています。最初のフランス語版が幾つかの点で修正されて、1997年にラテン語規範版が発行され、これが日本語に翻訳されて2002年7月4日にカトリック中央協議会から出版されました。その後、2005年には、『カトリック教会のカテキズム』の「忠実かつ確実な要約」として『カトリック教会のカテキズム 要約(コンペンディウム)』が、ベネディクト16世教皇によって公布され、日本語版も2010年に出版されています。要理教育書は、他にもカトリック中央協議会から『カトリック教会の教え』があります。こちらは、カトリック教会の洗礼をうけている成人信徒を主たる対象として編纂されています。
◯『カトリック教会のカテキズム』です。デカい!重い!の二重奏です( ̄▽ ̄;) 持ち運びに苦労します!
0FE3B00D-852B-45F7-9AB1-C7E3B5484B2E.jpeg
DE13BE6B-BA98-448C-A11B-5BDB7F73C81F.jpeg
訳者:日本カトリック司教協議会教理委員会
出版:カトリック中央協議会
発行:2002年7月4日
容量‏:872ページ
価格:3,960円(税込)

◯『カトリック教会のカテキズム 要約(コンペンディウム)』です。原タイトルは、「CATECHISMO DELLA CHIESA CATTOLICA Compendio」です。こちらは、持ち運びに便利ですね。
E38F7F8F-212A-4253-A775-C79011292617.jpeg
カテキズムは、次の写真のページのとおり、昔から問答形式になっているのが特徴です。
9C0F7ADB-E145-4BE8-B3E3-93CA4D321629.jpeg
編者:日本カトリック司教協議会常任司教委員会
出版:カトリック中央協議会
発行:2010年1月22日
容量:350ページ(B6判)
価格:1,320円(税込)

◯『カトリック教会の教え』です。こちらは、日本カトリック司教団公認の新要理書で、カトリック教会の洗礼を受けている成人信徒を主たる対象として編纂されています。
3A22E0F3-3EA9-4501-943A-FB120CD4F36C.jpeg
編者:カトリック中央協議会
出版:カトリック中央協議会
発行:2003年4月1日
容量:354ページ(A5判)
価格:2,750円(税込)

「カテキズム(要理教育)」は、古代キリスト教の教父(きょうふ)たちの時代から書かれてきた「問答形式で示される教義の要約」と定義されてきたという経緯があり、初めは口伝だったものが、後に書物(要理書)として書かれるようになり、16世紀の宗教改革以降に全世界のカトリック教会に広まりました。第2バチカン公会議以前まで日本のカトリック教会で使われていた『公教要理』も、これらの教理問答書を基にしたものでした。

その後、第2バチカン公会議で要理教育についての考え方が新たになり、それまで子供と洗礼志願者だけを対象としていたものが、大人の信者も要理の勉強をしなければならないと考えられるようになりました。ヨハネ・パウロ2世教皇は、1986年に教皇庁教理省長官で神学者でもあるヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿(後のベネディクト16世教皇)を責任者とする12名の枢機卿と司教を任命して、カテキズムの草案作成を委託したのでした。

こうして作られた草案は、全世界の司教協議会などから意見を求めて修正が加えられ、7年後の1992年にフランス語版の『カトリック教会のカテキズム』が発行されました。教皇は、これを「信仰の生きた源泉によって要理教育(カテキズム)を刷新するための参考書」と呼んだそうです。その後、修正され1997年にラテン語規範版が発行され、これが日本語に翻訳されて2002年7月4日にカトリック中央協議会から出版されたのでした。

それにしても、現代版のカテキズムが整理され、世界に普及したのはそれほど昔のことではありません。洗礼を受ける前の入門講座を受講している時に『カトリック教会のカテキズム 要約(コンペンディウム)』を何回か読み、その後は、『カトリック教会のカテキズム』を教理に関係するところを調べるために、必要な項目についてところどころ読んできただけです。しかし、最初から最後までは正直なところ読んでいません( ̄▽ ̄;)

これではダメですね!教理を勉強し直しです。これからは毎日「カテキズム5項目」を読むことを習慣づけることにしました。すでに聖書は「毎日1章」を読むことを習慣づけていますから、これからはカテキズムも毎日就寝前に本気を出して読み、休日は集中して読みます。誰も言ってくれませんから自分で言いますが、これでも敬虔なクリスチャンなのです(⌒-⌒; ) まずは、洗礼を受けたころの初心に帰り、祈りと善き行いに励みます!
nice!(0)  コメント(0) 

今日の日記2023.3.22(桜華満開!) [日記]

私が勤務する国士舘大学世田谷キャンパスの中庭にある桜が満開です!
写真左側にある銅像は、国士舘創立者である正四位・勲二等瑞宝章・経済学博士の柴田徳次郎先生です。その後にある銅板屋根の木造建築は、大正8年に建てられた国(文化庁)の登録有形文化財に指定されている「大講堂」です。戦災にも遭わず、創立当時の唯一残っている建物です。
IMG_4797 (1).jpg
nice!(0)  コメント(0) 

教会日記2023.3.22(カトリック成城・聖タデオ教会「四旬節第四水曜日のミサ」水曜日) [教会日記]

今朝は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会での早朝7時からの「四旬節第四水曜日のミサ」に与りました。今朝は少し暖かく感じます。今週は寒暖の差が大きいとの予報でした。体調管理に注意ですね。今日も清々しい朝を迎えています。
◯早朝6時40分の成城教会です。桜が満開となりました。
8A44CFCA-5409-488B-9A29-515501F095D7.jpeg
ミサでは、まず主を讃える祈りです。
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と祈り、
そして、主に感謝です。
「今日も清々しい朝を迎えさせていただき、
主の慈しみとご聖体を拝領させていただいたことに感謝申し上げます。」

次に、主により頼む祈りです。
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
と祈り、

そして、主に派遣の祈りです。
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」
と祈り、

終わりに、『大天使聖ミカエルへの祈り』です。
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
と祈りました。
nice!(0)  コメント(0) 

聖書(旧約聖書・新約聖書)における「平和」の記載聖句一覧 [聖書]

聖書に記載されている聖句(せいく:イエス・キリストの言葉)や使徒(しと:イエス・キリストの弟子)たちの言葉は、私たちキリスト者(クリスチャン)にとってすべて大切な言葉ですが、その中でも特にイエス・キリストが説いておられるのは、まず第一に「隣人への愛」と同時に「人への赦し」、次に「平和の実現」の三つです。
その一つである「平和の実現」ですが、ミサの中にも出てきますね。司祭(神父様)がミサの中で、「主の平和がいつも皆さんと共に。」とおっしゃると、信徒が「またあなたと共に。」と言って、続いて司祭の「お互いに平和の挨拶をしましょう。」という言葉で、信徒は「主の平和」と言いながらまわりの信徒に挨拶をします。ミサに「主の平和」とあるのは、いかに平和が大切であるかということですね。今日は、ウクライナの平和を願って平和の聖句を掲載いたします。聖書に掲載されている「平和」という単語が出てくるのは、だいたい次のとおりです。

◯旧約聖書:『聖書協会共同訳聖書』から
詩編:第34編・第15節
「悪から離れ、善を行え。平和を求め、これを追え。」

詩編:第37編・第11節
「苦しむ人が地を受け継ぐ。彼らは豊かな平和を楽しむ。」

詩編:第37編・第37節
「全き人を守り、まっすぐな人を見よ。後の繁栄は平和の人にある。」

箴言:第3章・第2節
「わが子よ、わたしの教えを忘れるな。わたしの戒めを心に納めよ。そうすれば、命の年月、生涯の日々は増し、平和が与えられるであろう。」

箴言:第12章・第20節
「悪を耕す者の心には欺きがある。平和のための助言には喜びがある。」

◯新約聖書:『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から
マタイによる福音書:第5章・第9節
「平和をもたらす人は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」

マタイによる福音書:第10章・第12~第13節
「家に入ったら、平和を祈りなさい。もしその家がふさわしければ、あなた方が祈る平和はその家に留まり、ふさわしくなければ、平和はあなたがたに戻ってくる。」

マルコによる福音書:第9章・第50節
「塩は善いものである。しかし、もし塩がその塩味を失ったら、何をもって塩気を取り戻せようか。あなた方自身のうちに塩を持ち、互いに平和を保ちなさい。」

ルカによる福音書:第2章・第14節
「いと高き天には、神に栄光、地には、み心にかなう人々に平和。」

ヨハネによる福音書:第14章・第27節
「わたしはあなた方に平和を残す。わたしの平和をあなた方に与える。わたしは世が与えるように、これを与えるのではない。」

ヨハネによる福音書:第16章・第33節
「これらのことを話したのは、わたしによってあなた方が平和を得るためである。あなた方は世にあって苦しむ。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に打ち勝ったのである。」

ローマの人々への手紙:第2章・第10節
「すべて善を行う者には、ユダヤ人をはじめとして、ギリシア人にも栄光と誉れと平和があります。」 神は人を分け隔てなさいません。」

ローマの人々への手紙:第8章・第6節
「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和です。」

ローマの人々への手紙:第12章・第18節
「できることなら、あなたがたの力の及ぶかぎり、すべての人と平和に暮らしなさい。」

ローマの人々への手紙:第14章・第17節
「神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」

ローマの人々への手紙:第14章・第19節
「それで、平和に役立つことを、追い求めましょう。食べ物のことで神の業を破壊してはなりません。」

コリントの人々への第二の手紙:第13章・第11節
「最後に、兄弟たち、それではお元気で。不完全な所を改めなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。仲よく暮らしなさい。そうすれば、愛と平和の源である神が、あなた方とともにいてくださいます。」

ガラテヤの人々への手紙:第5章・第22~第23節
「しかし、霊の結ぶ実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」

エフェソの人々への手紙:第2章・第14~第16節
「実に、キリストご自身こそ、わたしたちの平和であり、互いに離れていた二つのものを一つにし、ご自分の肉において、人を隔てていた壁、すなわち、敵意を取り除き、数々の規定を伴う掟から成る律法を無効にし、二つのものをご自分に結びつけることによって、一人の新しい人に造りあげ、平和を実現されました。」

エフェソの人々への手紙:第4章・第3節
「平和という絆で結ばれて、霊のもたらす一致を大切に保つよう熱心に努めてください。」

コロサイの人々への手紙:第1章・第20節
「その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子へと、すべてのものを和解させること、すなわち、御子を通して、地にあるものも天にあるものも、和解させることを善しとされたからである。」

コロサイの人々への手紙:第3章・第15節
「そして、キリストの平和にあなた方の心を支配させなさい。あなた方が一つの体に結ばれる者として招かれたのも、この平和のためなのです。そうして、感謝の人となりなさい。」

テモテへの第二の手紙:第2章・第22節
「あなたは、若い時の情欲を避け、清い心をもって主を呼び求める人々とともに、正義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。」

ヘブライ人への手紙:第12章・第11節
「どんな訓練でも、その時は、楽しいものではなく、むしろ苦しいものに思われます。後になると、この訓練は、それによって鍛えられた人々に、義という平和の実をもたらします。」

ヘブライ人への手紙:第12章・第14節
「すべての人々との平和を追い求め、また、聖なるものとされることを追い求めなさい。」

ヤコブの手紙:第3章・第18節
「義の実を結ぶ種は、平和をもたらす人によって、平和のうちに蒔かれます。」

ペトロの手紙第一:第3章・第11節
「悪を避けて善を行い、平和を求めて、これを追え。」

ヨハネの手紙第二:第3節
「父である神と御子イエス・キリストからの恵みと憐れみと平和が、真理と愛のうちに、わたしたちとともにありますように。」
以上です。
nice!(0)  コメント(0) 

「スータン」のお話し [キリスト教関係事項・用語等]

写真は、カトリック教会の司祭(神父)が着ているスータンです。
スータン(フランス語)とは、カトリック教会の司祭(神父)が平常着る足下くらいまである長い服(平服)のことです。英語ではキャソックといいます。カトリック教会では、司祭(一般的に私達が呼称としている神父様のこと)は黒、司教は赤紫、枢機卿は赤、教皇は白色のスータンを着ることになっているそうです。ミサでは、アルバ、ストラやカズラといった別の祭服を着ることになります。
スータン.jpg
どこの教会の神父様も毎日は着ていらっしゃらないのですが、ある神父様のお話しですと、ほとんどの神父様が必ず共通して着る時はお葬式の時だそうです。なぜか?特に火葬場ではいくつかのお葬式とご一緒しますから、一番多い仏教のお坊さんに対向?して着るそうです………本音は?「スータンを着ていないと、司式しているのがキリスト教の司祭(神父)だということが、一般の方には分からないから」とお話しされていました( ̄◇ ̄;) ボタンは全部で33個もあるのですが、これはイエス様が地上で過ごした33年間を表しているといわれているそうです。ボタンをかけるときには、一つひとつお祈りしながらかけるとのことです。これは大変ですね〜!(⌒-⌒; )
nice!(0)  コメント(0) 

教会日記2023.3.21(カトリック相模原教会「四旬節第四火曜日のミサ」火曜日) [教会日記]

今日は、カトリック相模原教会で9時からの「四旬節第四火曜日のミサ」に与らせていただきました。相模原教会は、私が当時所属していたカトリック町田教会の運営委員会議長(委員長)を務めていた年の2017年3月26日(日)に初めて訪れ、9時30分からの主日のミサ与ったことを今も覚えています。あれから6年が経ちました。この6年間、機会があるごとに訪れてはミサに与らせていただき、朗読奉仕も何回もさせていただきました。今ではとても愛着のある教会となっています。
◯相模原教会の聖堂入口外にあるサインボードです。磨かれた木の板が渋いです!わかりやすくていいですね。
A17FCFB3-F857-4BDD-92CD-5E9FEAADC4BA.jpeg
聖母マリア様のご像です。花が植えてあってキレイですね。
69F8B9C2-2BE7-4E0E-A46B-36179C0E0F95.jpeg
愛着のわけは、①聖堂などの建物や信徒数が、他の教会と比べて小規模であること。②住宅街の中にあって交通量の多い道路に隣接しておらず、静かにお祈りできる環境があること。③私が所属する成城教会と同じく信徒の皆さんが暖かく接してくださること。④自宅から電車を利用してdoor-to-doorで約30分と近いこと。また自転車でも通えることなどかな!?以上ですね(^◇^)

今は職場が世田谷区世田谷で、小田急線で通勤途中に途中下車し、早朝7時からの平日のミサに与ることができるカトリック成城教会に所属していますが、定年退職後は世田谷方面に向かうことがなくなりますので、自宅がある町田市相原町・JR横浜線相原駅から、時間的に近く交通費などの経費的に負担にならない相模原教会に転入したいですね。相模原教会は、成城教会や自宅から比較的近いカトリック八王子教会のように、①聖堂は伝統的な教会建築でなく、②パイプオルガンはなく、③聖堂の信徒席は折りたたみ椅子ですが、まったく気にならないというか、小さい静かな教会というところがいいですね。やはり定年退職後の来年の4月からは相模原教会お世話になりたいです!(*^▽^*) ただし、神父様の転入のお許しと信徒の皆さんが歓迎してくれるのか?の判断になりますが( ̄▽ ̄;)

ミサでは、朗読奉仕を担当しました。
そして、まず、主を讃える祈りです。
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と祈り、
そして、主に感謝です。
「今日も清々しい一日迎えさせていただき、
主の慈しみとご聖体を拝領させていただいたことに感謝申し上げます。」

次に、主により頼む祈りです。
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
と祈り、

そして、主に派遣の祈りです。
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」
と祈り、

終わりに、『大天使聖ミカエルへの祈り』です。
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
と祈りました。

【愛着(あいちゃく)】
慣れ親しんだものに深く心が引かれること。仏教用語ですが、心理学用語でもあります。
nice!(0)  コメント(0) 

「信賞必罰(しんしょうひつばつ)」のお話し [今日の言葉(ことわざ)]

信賞必罰とは、「賞罰を厳格に行うこと。賞すべき功績のある者には必ず賞を与え、罪を犯し、罰すべき者は必ず罰する。」という意味の言葉です。中国の戦国時代の法家であった韓非(かんぴ)の著書に『韓非子(かんぴし)』がありますが、これに「信賞必罰(しんしょうひつばつ)」の語源となった内容が書かれています。『韓非子』は、春秋戦国時代の思想・社会の集大成と言えるもので、戦国時代の君子(指導者)が実践すべき七つの行動原理(七術)の二つとして、「信賞」と「必罰」を挙げています。

それでは、『韓非子』の一節を見てみましょう。
公曰く、「戦わざるを得る無きを奈何する」
狐子、対えて曰く「信賞必罰、其れ以て戦するに足りん」
公曰く「刑罰の極みは安くにか至る」
対えて曰く「親貴を辟らず、法を愛する所に行え」
文公曰く「善し」

これを現代文に訳すと、
文公は「どうやって戦わざるを得ないようにさせるのか?」と聞くと、
狐子は「信賞必罰によって戦わせることができます」と答え、
文公は「刑罰の限度はどこまでだろうか?」と聞くと、
狐子は「ご主君に親しい者、身分の高い者でも避けず、寵愛する者にも刑罰を行います」と答えてました。
文公は「わかった」と言いました。
となります。

韓非はあえて強調していのは「必罰」です。
<法を犯した者は必ず罰して威光を示すこと>
「愛情が多すぎると、法は成り立たず、威光を働かせないと、下の者が上の者を侵す。刑罰を厳しくしなければ、禁令は行きわたらない。」として、わかりやすい例を挙げて解説しています。「麗水という川には砂金が出ます。私的な採金は法で禁じられ、捕まれば磔(はりつけ)にされますが、金を採る者はあとを絶たず、処刑された死体で川がせき止められるほどになりました。これはうまくすれば捕まらず、一攫千金も夢ではないからです。例えば、「お前に天下をやるから、そのかわり命はもらう。」と言われたとします。必ず殺されるとわかっていれば、天下をもらおうと名乗り出るものはいないのです。」必罰の威光が行き届いているかどうかが大事であって、見逃しの例外などの抜け道をつくってはならないと戒めています。

次に「信賞」です。
<功労者には必ず賞をあたえ、全能力を発揮させること>
「賞が薄く、かつあてにならないならば、臣下は働こうとしない、賞が厚く、かつ確実に行われるならば、臣下は死をもいとわない。」として、わかりやすい例を挙げて解説しています。
「魏の武候の武将に、孫子と並び称される兵法家の呉起(ごき)がいました。呉起は、西河地方の守りを任されて、国境近くにある敵の砦を取り除こうと考えました。地元の農民を動員するために、北門の外に一本のかじ棒を置いて、こんな布告を出しました。「この棒を南門まで運んだ者には、上等の土地と屋敷をとらせる」。布告を信じかねて誰も動きません。しかし、やっと運ぶものが現れたので、約束通りの土地と屋敷を与えました。
呉起は続いて、東門の外に赤豆一石を置いてまた布告を出しました。「豆を西門まで運んだ者には、前回と同じほうびをとらせる」。すると農民たちは先を争って運びました。そこでいよいよ肝心の布告を出しました。「明日、砦を攻めるが、一番乗りしたものには、上等の土地・屋敷のほかに大夫の地位をあたえよう」。臆病な農民たちも、先を争って砦に殺到し、たちまちこれを占領しました。労が必ず報いられると信じられれば、動かぬ者などいないのです。」ということです。

私は、社会人もそうですが、学校教育や子育て(しつけ)は、この信賞必罰が大切になると思います。社会における行動規範や人間の理性がまだ育っていない子どもには、やはり「善い行い(=功績)をすれば「必ずほめる(=賞を与える)」こと、悪い行い(罪を犯すこと)をすればが「必ずしかる(=罰を与える)」ことです。善悪、良し悪しの判断を理解させるためにメリハリをつけることが大切ですね。ただし、どちらも愛情を持ってということが重要です。特に愛情のない叱り方をしてはいけません。それは、なぜ悪いのかを理解できないからです。理解できない叱り方では意味をなしませんね。

ただ、私たちキリスト者(クリスチャン)は、イエス・キリストの教えである「赦し」があります。次は、このブログの2月28日(火)の記事に掲載した聖句です。
◯新約聖書:マタイによる福音書・第18章・第21~第35節
「その時、ペトロが近寄ってきて、イエスに尋ねた。「主よ、わたしの兄弟が私に罪を犯した場合、何度、赦さなければなりませんか。七回までですか」。イエスはお答えになった、「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までである。それ故、天の国は次のように喩えられる。
「一人の王が僕たちと貸借の決済をしようとした。決済が始まると、一万タラントンの負債のある者が王の前に連れ出された。しかし、返済することができなかったので、主人はその人自身と、その妻や子もたち、および所有物すべて売って、返済するように命じた。この僕はひれ伏し、『もうしばらくお待ちください。きっと全部お返ししますから』と哀願した。そこで、その僕の主人は憐れに思って、彼を赦し、借金を免じてやった。
ところが、この僕は外に出ると、自分に百デナリオンの負債のある同僚に出会った。彼はその同僚の喉元を絞めつけ、『借金を返せ』と言った。この同僚はひれ伏して、『もうしばらく待ってくれ、返すから』としきりに願った。しかし、彼は承知せず、その同僚を引き立てていき、負債を返すまでといって牢獄に入れた。この一部始終を見てい同僚らは大いに心を痛め、主君の前に出て、事の次第を告げた。
そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『不届きな僕だ。お前が嘆願したから、わたしは負債をいっさい免じてやった。わたしがお前を憐れんだように、お前もあの仲間を憐れむべきではなかったか。』主人は怒って、負債を全部返すまでといって、彼を拷問係りに引き渡した。もしあなた方の一人ひとりが、自分の兄弟を心から赦さないなら、天におられるわたしの父も、あなた方に対して同じようになさるであろう。」
『原文校訂口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

これは聖句(イエス・キリストの言葉)です。イエス・キリストは、使徒(弟子)のペトロの質問に対して「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」と説いておられます。7回✕70倍=490回は喩え(たとえ)ですね。とにかく、徹底して赦しなさいと説いているのです。そこには赦す条件など微塵もないのです。この喩え話しですが、「王」とあるのは神様のことで、「僕」とは私たちのこと(罪人のこと)、「負債」とは罪のことです。「負債を帳消しにする」とは、すべての罪を赦すという解釈となります。ここでいう「兄弟」とは、隣人を含めて自分に関係する人などのことです。「天の父」とは、イエス・キリストの父なる神様のことです。

私たちが克服すべき人生における課題の一つに「人を赦すこと。」があります。このブログのタイトルに「愛と赦し」とあるのは、「隣人への愛」と「人への赦し」がイエス・キリストの教えであるからです。人を赦すことがどれほど難しいか、簡単にできるなら何も人生における課題にはなりません。人を赦すことが誰もが経験されていることだと思います。今まで生きてきて、どれだけの人を赦してこなかったか。肉親であるはずの家族でさえ、たまに”赦せない部分”を見つけてしまうことがあります。家族でさえ赦せないのなら、他人であればなおさらのことですよね。それでも、イエス・キリストは「とことん赦しなさい。」と説いておられます。

ここで、私たちキリスト者(クリスチャン)が悩むというか判断が難しくなるのは、人が罪を犯したとき、罰を与えてよいのか?という疑問です。結論は「よい」ということになります。現在の人間社会は、法律が整備されて「法による秩序」が守られています。そのおかげで平和な社会が実現されているわけです。(まぁ、ロシアのウクライナ侵攻のような、国際法を踏みにじっていることもありますが。)ということは、罰は肯定せざるを得ないということです。しかし、その人への罰は肯定しても、その人が心の底から悔い改めているのなら、とにかく赦すべきなのです。「罪を憎んで人を憎まず。」ですね。私たちは、いつか赦してもらいたいと願う時が必ず来ます。それは必ず来るのです。その時に赦してもらいたいなら、普段から人を赦すべきなのです。憎しみや恨みをもって毎日生活をしていても良いことは何もないですね。赦しましょう。とにかく赦すことです。人を赦さないのなら、自分も赦されないのです。

ところで、「罪を憎んで人を憎まず」は、犯した罪は悪いから罰するべきだが、罪を犯すには事情もあったのだろうから、その人まで憎むのはよくないという意味です。『孔叢子』刑論にある孔子の言葉「古之聴訟者、悪其意、不悪其人(昔の裁判所では訴訟を取り裁くとき、罪人の心情は憎んだが人そのものは憎まなかった)」から。「憎む」は「悪む」とも書きます。
『ヨハネによる福音書』の第8章にも「罪を憎んでも人を憎まず」という物語があり、孔子の「罪を憎んで人を憎まず」と同じ意味と解釈されています。
◯新約聖書:ヨハネによる福音書・第8章・第3~第11節
「律法学者とファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った、「先生、この女は姦通をしている時に捕まったのです。モーセは律法の中で、このような女は石で投げつけて殺すようにと、わたしたちに命じています。ところで、あなたはどうお考えますか。」こう言ったのは、イエスを試みて、訴え出る口実を得るためであった。イエスは身をかがめて、地面に指で何かを書き始められた。しかし、彼らが執拗に問い続けるので、イエスは身を起こして仰せになった。「あなた方のうち中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げなさい。」そして、再び身をかがめて、地面に何か書いておられた。これを聞くと、人々は年長者から始まって、一人、また一人と去っていった。イエス一人が、真ん中にいた女とともに残られ。イエスは身を起こして仰せになった。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」彼女は、「主よ、誰も」と答えた。イエスは仰せになった、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。そしてこれからは、もう罪を犯してはならない。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

【罪を憎んで人を憎まず】
「犯した罪は悪いから罰するべきであるが、罪を犯すには事情などがあったのだろうから、その人まで憎むのはよくない。」ということです。『孔叢子(くそうし・こうそうし)』刑論にある孔子の言葉「古之聴訟者、悪其意、不悪其人(昔の裁判所では訴訟を取り裁くとき、罪人の心情は憎んだが人そのものは憎まなかった)」からの言葉です。「憎む」は「悪む」とも書きます。『孔叢子(くそうし・こうそうし)』は、古代中国の儒家の書物で、秦・漢時代から魏晋の間頃に成立した全23篇の書物です。
nice!(0)  コメント(0) 

教会日記2023.3.20(カトリック成城・聖タデオ教会「聖ヨセフの祭日のミサ・四旬節第四月曜日のミサ」月曜日) [教会日記]

今朝は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会での早朝7時からの「聖ヨセフの祭日のミサ・四旬節第四月曜日のミサ」に与りました。早朝は少し寒く感じます。今聖堂はまだ暖房が必要ですね。引き続き体調管理に注意です。今日も清々しい朝を迎えています。

ミサでは、聖ヨセフの祭日で、第一・第二朗読の朗読奉仕を担当しました。
聖ヨセフの祭日を祝いお祈りを献げました。
そして、まず主を讃える祈りです。
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と祈り、
そして、主に感謝です。
「今日も清々しい朝を迎えさせていただき、
主の慈しみとご聖体を拝領させていただいたことに感謝申し上げます。」

次に、主により頼む祈りです。
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
と祈り、

そして、主に派遣の祈りです。
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」
と祈り、

終わりに、『大天使聖ミカエルへの祈り』です。
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
と祈りました。
nice!(0)  コメント(0) 

「聖ヨセフ」のお話し [キリスト教関係事項・用語等]

今日3月20日は、「聖ヨセフ」の祭日です。
この日が日曜日や、聖週間にあたる場合は、移動されます。聖ヨセフの祭日が教会暦で祝われるようになったのは、10世紀の西方教会においてのようです。聖母マリア様の夫で、イエス・キリストの養父であるヨセフは、ユダヤの王ダビデの子孫でした。聖ヨセフは、新約聖書に記されているように「正しい人」であり、結婚する前にマリアが身ごもっていることを知ると、それを表ざたにすることなく、縁を切ろうとしました。しかし、夢に現われた天使が、マリアを妻として迎え入れ、マリアの産む子をイエスと名付けるようにとヨセフに告げたので、イエス・キリストの養父としての使命を担いました。
◯新約聖書:マタイによる福音書・第1章・第18~第25節
〈イエス・キリストの誕生〉
「イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが分かった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表沙汰にするのを望まず、ひそかに離縁しょうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れずマリアを妻に迎えなさい。マリアに宿った子は聖霊の働きによるのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われたことが実現するためであった。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。」
これは、「神が私たちと共におられる」という意味である。ヨセフは目覚めて起きると、主の天使が命じたとおり、マリアを妻に迎えた。しかし、男の子が産まれるまで彼女を知ることはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。」
『聖書協会共同訳聖書』から

また、ヘロデ王が幼な子イエスを殺そうとしている計画を夢で知らされると、マリアとイエスを連れてエジプトに避難しました。
◯新約聖書:マタイによる福音書・第2章・第13~第15節
〈エジプトに避難する〉
「博士たちが帰っていくと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、幼子とその母を連れて、エジプトに逃げ、私が告げるまで、そこにいなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ退き、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「私は、エジプトから私の子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われたことが実現するためであった。」
『聖書協会共同訳聖書』から

また、イエスを神殿に奉献するためにエルサレムに行き(ルカ2.22~38)、イエスが12歳の時に、エルサレムからの帰路でイエスを見失ったときは、マリアとともに心配しました。彼はガリラヤのナザレで、大工生活を営みながらイエスに労働の大切さを教えました。聖ヨセフは、イエスが30歳になる前に亡くなったといわれている。養父としてのヨセフは、中世の教会に大きな影響を与え、多くの聖人たちの生き方に示唆を与えました。彼は、キリストとマリアを守ったことからも、教会の特別な保護者とされています。
◯新約聖書:ルカによる福音書・第2章・第22~第38節
〈神殿で献げられる〉
「さて、モーセの律法に定められた清めの期間が満ちると、両親はその子を主に献げるため、エルサレムへ連れて行った。それは主の律法に、「母の胎を開く初子の男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか若い家鳩二羽を、いけにえとして献げるためであった。
その時、エルサレムにシメオンと言う人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。また、主が使わすメシアを見るまでは死ねことはない、とのお告げを聖霊から受けていた。この人が霊に導かれて神殿の境内に入った。そして、両親が幼子イエスを連れて来て、その子のために律法の定めに従っていけにえを献げようとしたとき、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
「主よ、今こそあなたはお言葉どおり
この僕を安らかに去らせてくださいます。
私はこの目であなたの救いを見たからです。
これは万民の前に備えられた救いで
異邦人を照らす啓示の光
あなたの民イスラエルの栄光です。」
父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いた。シメオンは彼らを祝福し、母マリアに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。剣があなたの魂さえも刺し貫くでしょう。多くの人の心が現れるためです。」
また、アシュル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年を取っていて、おとめの時に嫁いでから七年間、夫と共に暮らしたが、その後やもめになり、八十四歳になっていた。そして神殿を離れず、夜も昼も断食と祈りをもって神に仕えていた。ちょうどその時、彼女も近づいて来て神に感謝を献げ、エルサレムの贖いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことをかたった。」
『聖書協会共同訳聖書』から

◯新約聖書:ルカによる福音書・第2章・第41〜第52節
〈神殿での少年イエス〉
「さて、両親は毎年、過越祭にはエルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になった時も、両親は祭りの慣習に従って都に上った。祭りの期間が終わって帰路に着いたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気付かなかった。道連れの中にいるものと思い込んで、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類な知人の中を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムへ引き返した。三日後にようやく、イエスが神殿の境内で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの賢さとその受け答えに驚愕していた。両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜ、こんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんも私も心配して捜していたのです。」すると、イエスは言われた。「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるはずだということを、知らなかったのですか。」しかし、両親には、イエスの言葉の意味が分からなかった。それから、一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親にお仕えになった。母はこれらのことをみな心に留めていた。イエスは神と人から恵みを受けて、知恵が増し、背丈も伸びていった。」
『聖書協会共同訳聖書』から
nice!(0)  コメント(0)