「信賞必罰(しんしょうひつばつ)」のお話し [今日の言葉(ことわざ)]

信賞必罰とは、「賞罰を厳格に行うこと。賞すべき功績のある者には必ず賞を与え、罪を犯し、罰すべき者は必ず罰する。」という意味の言葉です。中国の戦国時代の法家であった韓非(かんぴ)の著書に『韓非子(かんぴし)』がありますが、これに「信賞必罰(しんしょうひつばつ)」の語源となった内容が書かれています。『韓非子』は、春秋戦国時代の思想・社会の集大成と言えるもので、戦国時代の君子(指導者)が実践すべき七つの行動原理(七術)の二つとして、「信賞」と「必罰」を挙げています。

それでは、『韓非子』の一節を見てみましょう。
公曰く、「戦わざるを得る無きを奈何する」
狐子、対えて曰く「信賞必罰、其れ以て戦するに足りん」
公曰く「刑罰の極みは安くにか至る」
対えて曰く「親貴を辟らず、法を愛する所に行え」
文公曰く「善し」

これを現代文に訳すと、
文公は「どうやって戦わざるを得ないようにさせるのか?」と聞くと、
狐子は「信賞必罰によって戦わせることができます」と答え、
文公は「刑罰の限度はどこまでだろうか?」と聞くと、
狐子は「ご主君に親しい者、身分の高い者でも避けず、寵愛する者にも刑罰を行います」と答えてました。
文公は「わかった」と言いました。
となります。

韓非はあえて強調していのは「必罰」です。
<法を犯した者は必ず罰して威光を示すこと>
「愛情が多すぎると、法は成り立たず、威光を働かせないと、下の者が上の者を侵す。刑罰を厳しくしなければ、禁令は行きわたらない。」として、わかりやすい例を挙げて解説しています。「麗水という川には砂金が出ます。私的な採金は法で禁じられ、捕まれば磔(はりつけ)にされますが、金を採る者はあとを絶たず、処刑された死体で川がせき止められるほどになりました。これはうまくすれば捕まらず、一攫千金も夢ではないからです。例えば、「お前に天下をやるから、そのかわり命はもらう。」と言われたとします。必ず殺されるとわかっていれば、天下をもらおうと名乗り出るものはいないのです。」必罰の威光が行き届いているかどうかが大事であって、見逃しの例外などの抜け道をつくってはならないと戒めています。

次に「信賞」です。
<功労者には必ず賞をあたえ、全能力を発揮させること>
「賞が薄く、かつあてにならないならば、臣下は働こうとしない、賞が厚く、かつ確実に行われるならば、臣下は死をもいとわない。」として、わかりやすい例を挙げて解説しています。
「魏の武候の武将に、孫子と並び称される兵法家の呉起(ごき)がいました。呉起は、西河地方の守りを任されて、国境近くにある敵の砦を取り除こうと考えました。地元の農民を動員するために、北門の外に一本のかじ棒を置いて、こんな布告を出しました。「この棒を南門まで運んだ者には、上等の土地と屋敷をとらせる」。布告を信じかねて誰も動きません。しかし、やっと運ぶものが現れたので、約束通りの土地と屋敷を与えました。
呉起は続いて、東門の外に赤豆一石を置いてまた布告を出しました。「豆を西門まで運んだ者には、前回と同じほうびをとらせる」。すると農民たちは先を争って運びました。そこでいよいよ肝心の布告を出しました。「明日、砦を攻めるが、一番乗りしたものには、上等の土地・屋敷のほかに大夫の地位をあたえよう」。臆病な農民たちも、先を争って砦に殺到し、たちまちこれを占領しました。労が必ず報いられると信じられれば、動かぬ者などいないのです。」ということです。

私は、社会人もそうですが、学校教育や子育て(しつけ)は、この信賞必罰が大切になると思います。社会における行動規範や人間の理性がまだ育っていない子どもには、やはり「善い行い(=功績)をすれば「必ずほめる(=賞を与える)」こと、悪い行い(罪を犯すこと)をすればが「必ずしかる(=罰を与える)」ことです。善悪、良し悪しの判断を理解させるためにメリハリをつけることが大切ですね。ただし、どちらも愛情を持ってということが重要です。特に愛情のない叱り方をしてはいけません。それは、なぜ悪いのかを理解できないからです。理解できない叱り方では意味をなしませんね。

ただ、私たちキリスト者(クリスチャン)は、イエス・キリストの教えである「赦し」があります。次は、このブログの2月28日(火)の記事に掲載した聖句です。
◯新約聖書:マタイによる福音書・第18章・第21~第35節
「その時、ペトロが近寄ってきて、イエスに尋ねた。「主よ、わたしの兄弟が私に罪を犯した場合、何度、赦さなければなりませんか。七回までですか」。イエスはお答えになった、「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までである。それ故、天の国は次のように喩えられる。
「一人の王が僕たちと貸借の決済をしようとした。決済が始まると、一万タラントンの負債のある者が王の前に連れ出された。しかし、返済することができなかったので、主人はその人自身と、その妻や子もたち、および所有物すべて売って、返済するように命じた。この僕はひれ伏し、『もうしばらくお待ちください。きっと全部お返ししますから』と哀願した。そこで、その僕の主人は憐れに思って、彼を赦し、借金を免じてやった。
ところが、この僕は外に出ると、自分に百デナリオンの負債のある同僚に出会った。彼はその同僚の喉元を絞めつけ、『借金を返せ』と言った。この同僚はひれ伏して、『もうしばらく待ってくれ、返すから』としきりに願った。しかし、彼は承知せず、その同僚を引き立てていき、負債を返すまでといって牢獄に入れた。この一部始終を見てい同僚らは大いに心を痛め、主君の前に出て、事の次第を告げた。
そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『不届きな僕だ。お前が嘆願したから、わたしは負債をいっさい免じてやった。わたしがお前を憐れんだように、お前もあの仲間を憐れむべきではなかったか。』主人は怒って、負債を全部返すまでといって、彼を拷問係りに引き渡した。もしあなた方の一人ひとりが、自分の兄弟を心から赦さないなら、天におられるわたしの父も、あなた方に対して同じようになさるであろう。」
『原文校訂口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

これは聖句(イエス・キリストの言葉)です。イエス・キリストは、使徒(弟子)のペトロの質問に対して「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」と説いておられます。7回✕70倍=490回は喩え(たとえ)ですね。とにかく、徹底して赦しなさいと説いているのです。そこには赦す条件など微塵もないのです。この喩え話しですが、「王」とあるのは神様のことで、「僕」とは私たちのこと(罪人のこと)、「負債」とは罪のことです。「負債を帳消しにする」とは、すべての罪を赦すという解釈となります。ここでいう「兄弟」とは、隣人を含めて自分に関係する人などのことです。「天の父」とは、イエス・キリストの父なる神様のことです。

私たちが克服すべき人生における課題の一つに「人を赦すこと。」があります。このブログのタイトルに「愛と赦し」とあるのは、「隣人への愛」と「人への赦し」がイエス・キリストの教えであるからです。人を赦すことがどれほど難しいか、簡単にできるなら何も人生における課題にはなりません。人を赦すことが誰もが経験されていることだと思います。今まで生きてきて、どれだけの人を赦してこなかったか。肉親であるはずの家族でさえ、たまに”赦せない部分”を見つけてしまうことがあります。家族でさえ赦せないのなら、他人であればなおさらのことですよね。それでも、イエス・キリストは「とことん赦しなさい。」と説いておられます。

ここで、私たちキリスト者(クリスチャン)が悩むというか判断が難しくなるのは、人が罪を犯したとき、罰を与えてよいのか?という疑問です。結論は「よい」ということになります。現在の人間社会は、法律が整備されて「法による秩序」が守られています。そのおかげで平和な社会が実現されているわけです。(まぁ、ロシアのウクライナ侵攻のような、国際法を踏みにじっていることもありますが。)ということは、罰は肯定せざるを得ないということです。しかし、その人への罰は肯定しても、その人が心の底から悔い改めているのなら、とにかく赦すべきなのです。「罪を憎んで人を憎まず。」ですね。私たちは、いつか赦してもらいたいと願う時が必ず来ます。それは必ず来るのです。その時に赦してもらいたいなら、普段から人を赦すべきなのです。憎しみや恨みをもって毎日生活をしていても良いことは何もないですね。赦しましょう。とにかく赦すことです。人を赦さないのなら、自分も赦されないのです。

ところで、「罪を憎んで人を憎まず」は、犯した罪は悪いから罰するべきだが、罪を犯すには事情もあったのだろうから、その人まで憎むのはよくないという意味です。『孔叢子』刑論にある孔子の言葉「古之聴訟者、悪其意、不悪其人(昔の裁判所では訴訟を取り裁くとき、罪人の心情は憎んだが人そのものは憎まなかった)」から。「憎む」は「悪む」とも書きます。
『ヨハネによる福音書』の第8章にも「罪を憎んでも人を憎まず」という物語があり、孔子の「罪を憎んで人を憎まず」と同じ意味と解釈されています。
◯新約聖書:ヨハネによる福音書・第8章・第3~第11節
「律法学者とファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った、「先生、この女は姦通をしている時に捕まったのです。モーセは律法の中で、このような女は石で投げつけて殺すようにと、わたしたちに命じています。ところで、あなたはどうお考えますか。」こう言ったのは、イエスを試みて、訴え出る口実を得るためであった。イエスは身をかがめて、地面に指で何かを書き始められた。しかし、彼らが執拗に問い続けるので、イエスは身を起こして仰せになった。「あなた方のうち中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げなさい。」そして、再び身をかがめて、地面に何か書いておられた。これを聞くと、人々は年長者から始まって、一人、また一人と去っていった。イエス一人が、真ん中にいた女とともに残られ。イエスは身を起こして仰せになった。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」彼女は、「主よ、誰も」と答えた。イエスは仰せになった、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。そしてこれからは、もう罪を犯してはならない。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

【罪を憎んで人を憎まず】
「犯した罪は悪いから罰するべきであるが、罪を犯すには事情などがあったのだろうから、その人まで憎むのはよくない。」ということです。『孔叢子(くそうし・こうそうし)』刑論にある孔子の言葉「古之聴訟者、悪其意、不悪其人(昔の裁判所では訴訟を取り裁くとき、罪人の心情は憎んだが人そのものは憎まなかった)」からの言葉です。「憎む」は「悪む」とも書きます。『孔叢子(くそうし・こうそうし)』は、古代中国の儒家の書物で、秦・漢時代から魏晋の間頃に成立した全23篇の書物です。
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