「新型コロナウイルス感染症に苦しむ世界のための祈り」 [祈り]

「新型コロナウイルス感染症に苦しむ世界のための祈り」

〈カトリック東京大司教区ホームページから〉
日本カトリック司教協議会より、「新型コロナウイルス感染症に苦しむ世界のための祈り」が、4月3日(金)に発表されました。日々の祈りの中で唱えていただければと思います。

「いつくしみ深い神よ、
新型コロナウイルスの感染拡大によって、
今、大きな困難の中にある世界を顧みてください。
病に苦しむ人に必要な医療が施され、
感染の終息に向けて取り組むすべての人、
医療従事者、病者に寄り添う人の健康が守られますように。
亡くなった人が永遠のみ国に迎え入れられ、
尽きることのない安らぎに満たされますように。
不安と混乱に直面しているすべての人に、
支援の手が差し伸べられますように。
希望の源である神よ、
わたしたちが感染拡大を防ぐための犠牲を惜しまず、
世界のすべての人と助け合って、
この危機を乗り越えることができるようお導きください。
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。
希望と慰めのよりどころである聖マリア、
苦難のうちにあるわたしたちのためにお祈りください。」
(2020年4月3日 日本カトリック司教協議会認可)
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「聖週間」のお話し [キリスト教関係事項・用語等]

今日(昨夜)から、キリスト教会において最も大切な「聖週間」が始まりました。4月12日(日)の「復活の主日(復活祭)」の前日までの一週間を「聖週間(せいしゅうかん)」といいます。また「受難週(じゅなんしゅう)」ともいいますが、この受難とは、イエス・キリストが十字架で磔刑(たっけい:十字架のはりつけの刑)されたことをいいます。
昨夜から今日の4月5日(日)は「受難の主日=枝の主日(えだのしゅじつ)」、9日(木)は「聖木曜日(主の晩餐)」、10日(金)は「聖金曜日(主の受難)」、11日(土)は「聖土曜日(夜から「復活徹夜祭」:ふっかつてつやさい)」です。通常はこの復活徹祭で「洗礼式」が行われます。9日(木)からは最も大切な「聖なる三日間」といいます。

●「受難の主日=枝の主日(えだのしゅじつ:「棕梠(シュロ)の主日」ともいいます)
聖週間の初日となる「受難の主日=枝の主日(えだのしゅじつ:(「棕梠(シュロ)の主日」ともいいます。)」は、キリスト教カトリック教会では祝日で、復活祭の一週間前の日曜日に当たります。この祝日は、イエス・キリストがロバに乗り、エルサレムに入城した時を記念するものです。新約聖書の「ヨハネによる福音書」では、エルサレムに来たイエス・キリストを、イエス・キリストの通る道で棕梠(シュロ)の木の枝を振ったり道に敷きつめたりして、「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」と叫び喜び迎えました。
このイエス・キリストがエルサレムに入城した時の、その群衆の様子をミサの中で思い起こすため、皆さんは聖歌を歌いながら、棕梠(シュロ)の枝(写真)をもって神父様から祝別(祝福)して(聖水をかけて)もらうのです。その日が今日でした。祝福(祝福)を受けた枝はもらって帰り、来年の「灰の水曜日」まで家の中に飾っておきます。
また、この日の典礼の最大の特徴は、司祭(神父様)と複数の朗読者、さらには会衆全員の参加による「イエスの受難の朗読」が行われることです。朗読は今年は典礼の聖書朗読配分がA年ですので、『マタイによる福音書:第27章・第11〜第54節』からとられています。通常はイエス・キリスト役は司祭(神父様)、ローマ帝国のシリア州総督であったポンティオ・ピラト役は信徒から1人、群集役は信徒全員、語り手は信徒から1人です。悲しくも感激のある朗読となります。

◯新約聖書:マタイによる福音書・第21章・第1~第11節
「一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山に面したベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、私のところに引いて来なさい。もし、誰かが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」それは、預言者を通して言われたことが実現するためであった。
「シオンの娘に告げよ。
『見よ、あなたの王があなたのところに来る。
へりくだって、ろばに乗り、
荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」
弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に上着を掛けると、イエスはそれにお乗りになった。大勢の群衆が自分の上着を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。群衆は、前を行く者も後に従う者も叫んだ。
「ダビデの子にホサナ。
主の名によって来られる方に
祝福があるように
いと高きところにホサナ。」
イエスがエルサレムに入られると、都中の人が、「一体、これはどういう人だ」と言って騒いだ。群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。」
『聖書協会共同訳聖書』から

●聖木曜日「主の晩餐」(この日のミサは「主の晩餐の夕のミサ」と言います。)
聖木曜日(せいもくようび)は、復活祭前の週の木曜日のこと。「洗足木曜日(せんぞくもくようび)」とも呼ばれます。聖木曜日からの三日間は特に尊重され、「聖なる三日間」と呼びます。イエス・キリストと使徒たちの「最後の晩餐(さいごのばんさん)」を記念する日であり、その席でイエスが(へりくだりの行いとして)弟子たちの足を洗ったという記述が福音書に見られるため、「洗足木曜日」という呼称が生まれました。また、カトリック教会ではこの日を「司祭職の制定の日」としており、司教が司祭たちに聖香油を渡す慣習があります。

◯新約聖書:コリントの信徒への手紙一・第11章・第23?第26節
「私があなたがたに伝えたことは、私自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りを献げてそれを裂き、言われました。『これは、あなたがたのための私の体である。私の記念としてこのように行いなさい。』
食事の後、杯も同じようにして言われました。『この杯は、私の血による新しい契約である。飲む度に、私の記念としてこれを行いなさい。』だから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲む度に、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」
『聖書協会共同訳聖書』から

◯新約聖書:ヨハネによる福音書・第13章・第1〜第15節 ※「洗足」
「過越祭の前に、イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛し抜かれた。夕食のときであった。すでに悪魔は、シモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていた。イエスは、父がすべてをご自分の手に委ねられたこと、また、ご自分が神のもとに帰ろうとしていることを悟り、夕食の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手拭いを取って腰に巻かれた。それから、たらいに水を汲んで弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手拭いで拭き始められた。(中略)こうしてイエスは弟子たちの足を洗うと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「私があなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、私を『先生』とか『主』とか呼ぶ。そう言うのは正しい。私はそうである。それで、主であり、師である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合うべきである。私があなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのだ。」
『聖書協会共同訳聖書』から

●「聖金曜日「主の受難」
聖金曜日(せいきんようび)は、復活祭前の週の金曜日のこと。「主の受難日」とも呼ばれます。『ヨハネによる福音書:第18章・第1〜第19節・42節』にあるの記述をもとにイエスの受難を思い起こす特別な典礼や祈りが行われます。カトリック教会では聖金曜日には断食を行う習慣があます。断食といっても完全な絶食ではありませんが、「大斎(たいさい)」と「小斎(しょうさい)」を行います。
※「大斎・小斎」の意味は、このブログの「灰の水曜日のお話し2020.2.26」https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2020-02-26-1をお読みください。 
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今日の日記2020.4.5(愛用の鉄道時計) [日記]

愛用の腕時計(GS)をオーバーホールに出しているため、一時期(約13年間)使用していた鉄道時計(懐中時計)を再び使用しています。SEIKO社製です。文字盤が少し焼けて味が出てきました。ベルトに付けてズボンのポケットに入れています。
なぜこの懐中時計を鉄道時計というのか?ですが、これは、旧国鉄時代から使われている時計で、運転士が正確に駅に発着するため、この時計を運転操作する運転台に置いて時刻を確認する時計ですので鉄道時計というのですね。
愛用の鉄道時計です。税込み30,800円です。赤い紐(ひも)は、別に購入した正絹根付け紐です。
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電車の運転席です。写真中央にある鉄道時計置きに置いています。運転士は鉄道時計を電車の乗り降りの際に持ち運びして管理しています。
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SEIKO(セイコーウオッチ株式会社)のホームページから
「1929年、当時の江木鉄道大臣より精工舎製19型手巻き式懐中時計が国産初の鉄道時計に指定され、セイコーの鉄道時計の歴史がはじまりました。以来、鉄道事業の心臓ともいえる時刻管理のため、精度はもちろん、徹底した視認性の追求と、過酷な使用環境に対応できるスペックの実現など、時計メーカーとしてのさまざまな配慮を込め、商品づくりを行ってきました。 80年以上前に確立した提げ時計の携帯スタイルと極めてシンプルなデザインはそのままに、それぞれの時代で開発された新しい技術を取り込みモデルチェンジを続けながらも、世界一正確といわれる日本の鉄道を支える必需品として、プロフェッショナルからも一般のお客さまからも時を超えて支持され続けています。
現在の鉄道時計は10年の電池寿命と、太く重量のある長い針を回すパワーを持つクオーツムーブメントを搭載したモデルです。時刻の読み易さを追求したアラビア数字の書体や、光をほとんど反射しないダイヤル色など、究極の視認性がそのままデザインコンセプトとなっています。さらに、リニアモーターカーの床に落としても耐えられる高い耐磁性能の実現など、現代ならではの使用環境を想定した先進技術によるスペックを備えています。」
ちなみに、公益財団法人日本デザイン振興会より、鉄道時計に対して「2013年度グッドデザイン・ロングライフデザイン賞」が贈られています。
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リジューの聖テレーズのことば(第1日目) [聖人・福者・尊者]

「親切をしても、
少しも感謝を表してもらえないときに起こる、
時として抑えることのできない不愉快な感情に、
わたしは決して、とらわれません。
この世では何の報酬も期待していませんから。
わたしはどんなことも、神さまのためにします。
そうすると、失うものは何もありません。
隣人に仕えるためにした苦労について、
わたしはいつでも、とてもよく報われています。」

リジューの聖テレーズ(フランス: 1873年~1897年)は、キリスト教カトリックのカルメル会(フランス)の修道女で、本名はマリー・フランソワーズ・テレーズ・マルタンといいます。修道名は「幼きイエスのテレーズ」という名です。カトリック教会の「聖人」に列せられ、カトリック教会に列せられた33人の「教会博士」の一人でもあります。
テレーズの晩年は肺結核が悪化し、1897年9月30日に 24歳で亡くなりました。テレーズは亡くなる際、「もう苦しむことができなくなりました。苦しみはすべて、私にとって甘美なのですから。」と語ったと伝えられます。
24歳で他界した後、自伝『ある魂の物語』が出版され、テレーズの遺志は世の人々に知られることになりました。若くして世を去りましたが、その著作は今日でも世界中で広く読まれ、日本でも人気のある聖人の一人になっています。記念日は10月1日で、「リジューのテレジア」、「幼きイエスのテレーズ(テレジア)」、「小さき花のテレジア」などとも呼ばれています。テレーズに関する書籍は、東京女子跣足カルメル会訳で『幼いイエスの聖テレーズ自叙伝 その三つの原稿』(ドン・ボスコ社、1996年)など、他にも多数あります。

人に親切にする、人を助ける、人に力を貸すなどの行為を行う。すると、私達人間は、褒めてもらう、感謝してもらう、喜んでもらうなど、このようなことを心の奥底で期待してしまうのです。そして相手が期待どおり表明してくれないと不満に思ったり、不愉快になったり、不機嫌になってしまいます。善い行いをしたことに“見返り”のようなことを期待しては、本当の“隣人愛”にはなりません。神様に報われていると思えば、何事も心に葛藤することはないのですね。すべては神様がご存じなのですから。
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