「いちじく」のお話し [聖書]

今年もいちじくを食べました。昨年もこのブログに掲載しましたが、今年も「いちじくのお話し」を掲載いたします。いちじくは漢字で「無花果」と書きますが、花がないわけではなく、実の中に小さな花をつけるため、外からは確認できないのです。果実を半分に切ると赤いつぶつぶがたくさんつまっていますが、それが花なのですね。分類はクワ科イチジク属で、原産地はアラビア半島南部、地中海沿岸地方です。日本では、5月ごろから11月くらいまでがシーズンです。ちなみに、いちじくという名前の由来は、毎日1つずつ熟すことから「一熟」→「いちじく」になったという説や、ひと月で実が熟すため「一熟」→「いちじるく」という説もあります。また呼び名としては南蛮柿(なんばんがき)、唐柿(とうがき)と呼ばれることもあります。
昨年は愛知県産(生産量全国1位)のいちじくでしたが、今年は新潟県産(生産量全国7位)のいちじくです。美味しい!甘かったー!です!
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いちじくは、古代エジプトの壁画にもブドウと共に描かれており、さらには、聖書にも数多く登場する歴史ある果物なのです。あの旧約聖書の創世記に登場するアダムとイブが、裸を隠すのに使ったのもいちじくの葉でした!ご存知でしたか?(⌒-⌒; ) 新約聖書には「実のならないいちじくの木のたとえ」として、いちじくが登場しますね。はるか昔にアラビア半島で誕生したいちじくは、少なくとも6000年前には栽培が始まっていたといわれています。その後ヨーロッパからペルシャ、中国へと伝わり、日本へは江戸時代に中国から長崎に運ばれました。当初は薬用として栽培されていましたが、生産量が増えるにつれ食用として親しまれるようになったそうです。美味しい!\(^◇^)/

ところで、このいちじくが、次のとおり新約聖書に「実のならないいちじくの木のたとえ」として登場します。では、ご紹介しましょう!
◯新約聖書:ルカによる福音書・第13章・第6〜第9節
「そして、イエスは次の喩えを語られた、「ある人が、自分のぶどう園にいちじくの木を植えておいた。ある日、その実を探しにいったが、一つも見つからなかった。そこで、ぶどう園の番人に言った。『三年このかた、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、一つも見つけたことがない。切り倒しなさい。なぜ、土地を無駄に使っているのか』。すると、番人は答えた、『ご主人さま、今年もう一年、このままにしておいてください。木の周りを掘って、肥料をやってみます。そうすれば、来年は実を結ぶでしょう。もしそれでもだめなら、切り倒してください』」

ぶどう園の持ち主が、ぶどう園にいちじくの木を植えていました。ぶどう園の持主(農夫)にとっては、普通の行為であって珍しいことではありません。いちじくの木は根を広く張りますので、実がならなければ、その木が占めている土地は無駄になってしまうのです。そのため、切り倒して他の実のなる木を植えることは理にかなったことです。この喩え話しは「実のならないこのいちじくの木を切り倒すことをもう少し待ってほしいという番人の願い」が聖句のポイントとなっています。喩え話しに出てくるほど、いちじくは当時から一般的だったのですね。この喩え話しの教えは次のとおりです。

イエス・キリストは、悔い改めない当時のユダヤ人への非難として、この喩え話しを語っておられます。「実のならないいちじく」とは、神様の教えを守らずに背信し続けたイスラエルの民、つまり当時のユダヤ人を表しており、「実り」とは、悔い改め、隣人への愛、赦しのある行為のことを指しています。そして、「番人の願い」とは、忍耐と愛を持って実りを切望する神様の願いを表しています。また、ぶどう園の持ち主が父である神様だとすれば、ぶどう園は神様が造った世界を表しており、「番人」とはイエス・キリスト自身を表していますね。喩え話しに登場する人や物には意味があるのです。

実を実らせないという、神の教えを守らず背信しているイスラエルの民(当時のユダヤ人)を救うために、父である神様によって地上に降誕されたイエス・キリストは、逆に救おうとしたイスラエルの民(当時のユダヤ人)によって十字架に付けられて殺されてしまうのです。それは、すべての人々の罪を背負われてお亡くなりになったイエス・キリストの贖罪が、悔い改めた新しい民となり、いちじくの木に豊かな実がつく=悔い改め、隣人への愛、赦しのある行為を神様は忍耐を持って切望しているのですね。この喩え話しは、そのような神様の恵みと裁きの両方の意味をもって私たちに教えているのです。

この喩え話しによる教えは、昔のイスラエルの民(当時のユダヤ人)だけの昔話しではありません。現在を生きる私たちに与えられた教えでもあります。私たちは、いつも罪を犯してしまいます。でも、その度に何度でも繰り返し立ち直って、神様の恵みにふさわしい実を実らせる生活をしなければなりません。神様の恵みにふさわしい実を実らせることのできない者は、この聖句にあるとおり「もしそれでもだめなら、切り倒してください」となります。つまり、地獄行き!という言い方はどうかな?と思いますが、天の国で神様の食卓に与るという報いを受けることはできないということですね(⌒-⌒; )

【贖罪(しょくざい)】
広い意味では神の救済,償い,和解,ゆるしと同義ですが,イエス・キリストの生と死と復活を通じての神の恩恵として実現される人間の罪からの解放と、これによってもたらされる神との交わりの回復をいいます。
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教会日記2020.10.25(カトリック成城教会「主日のミサ」日曜日) [教会日記]

今日は、カトリック成城教会の10時からの主日のミサに与りました。今日は、久しぶりに秋空になり、とても爽やかな日となりましたね。
ミサは、いつものように3蜜を避けるため、ソーシャルディスタンスで入堂制限があります。普段は200人以上入れる聖堂ですが、今は47人しか入れません。ですから、聖堂に入れない人のために、信徒館でスクリーンで映してオンラインミサに与る(42人)対策をしているのです。また、マスクの着用はもちろんのこと、聖堂(信徒館)入口さの受付でカードに氏名と電話番号の記入と手の消毒があります。そして、ミサの時間を通常よりも短縮するためと信徒の声の発生を少なくするために、約30分のミサとなっています。聖歌も歌えません( ̄◇ ̄;) 早くコロナに効くワクチンがほしいものです!

ミサでは、成城教会の守護聖人である聖タデオの記念日が、来週28日(水)と平日ですので、昨夜と今日の主日のミサで記念日のお祝いのミサを行うことになりました。聖タデオの詳細は、このブログの28日の記事に書きますので、ここでは省略させていただきます。昨日のブログにも書きましたが、神父様のご説教の中で、成城教会は日本国内においては「カトリック成城教会」が正式名称ですが、世界的には「聖タデオ教会」となり、その場合は「カトリック成城・聖タデオ教会」となるとのことでした。聖タデオは、敗者・弱者の守護聖人です。ですから、私たち成城教会の信徒は、弱い立場、弱い存在の人たちを救済支援する善き行いをしなければなりませんね。ただし、義務感ではなく喜びを持ってですね!
また、この10月が「ロザリオの月」ということもありますので、共同祈願では「アヴェ・マリアの祈り」をお祈りしました。そして、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
と気持ちを込めてお祈りしてきました。
また、行方不明となっている小学2年生の小倉美咲ちゃんが、元気な姿で両親の元に帰れるようにお祈りし、同僚の病が癒されますように、同僚のお嬢さんの病気が完治しますようにと心を込めてお祈りしました。
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旧約聖書:詩編・第32編 [聖書]

2016年4月13日に、カトリック麹町・聖イグナチ教会の大聖堂内にある告解室において、聴罪司祭(ちょうざいしさい:神父様)に「告解(こっかい)」をして赦しを乞いました(赦しの秘跡)。その時に聴罪司祭からお祈りするように教えられたのが、次の旧約聖書にある詩篇・第32章です。赦された罪を忘れないように再掲載しました。

「いかに幸いなことでしょう
背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。
いかに幸いなことでしょう
主に咎(とが)を数えられず、心に欺き(あざむき)のない人は。
わたしは黙し続けて
絶え間ない呻き(うめき)に骨まで朽ち果てました。
御手は昼も夜もわたしの上に重く
わたしの力は
夏の日照りにあって衰え果てました。
わたしは罪をあなたに示し
咎を隠しませんでした。
わたしは言いました
「主にわたしの背きを告白しよう」と。
そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを
赦してくださいました。
あなたの慈しみに生きる人は皆
あなたを見いだしうる間にあなたに祈ります。
大水が溢れ流れるときにも
その人に及ぶことは決してありません。
あなたはわたしの隠れが。苦難から守ってくださる方。救いの喜びをもって
わたしを囲んでくださる方。
わたしはあなたを目覚めさせ
行くべき道を教えよう。あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。
分別のない馬や騾馬(らば)のようにふるまうな。
それは轡(くつわ)と手綱で動きを抑えねばならない。
そのようなものをあなたに近づけるな。
神に逆らう者は悩みが多く
主に信頼する者は慈しみに囲まれる。
神に従う人よ、主によって喜び躍れ。
すべて心の正しい人よ、喜びの声をあげよ。」
【咎(とが)】
人から責められたり非難されたりするような行為。罰されるべき行為や欠点。「盗みの―で捕らえられる」。
【欺き(あざむき)】
真実からそれるような真実を誤らせる言明。紛らわしい虚偽のこと。
【呻き(うめき)】
痛さや苦しさのあまり、低い声をもらす。「下腹を押さえて―」

「告解(こっかい)」とは、キリスト教カトリック教会における7つある「秘跡(ひせき)」の1つで、「ゆるしの秘跡」といいます。カトリック教会での告解の位置付けはとても重要で、大罪を犯した場合はもちろんですが、年に一度、例えば「降誕祭(クリスマス:イエス・キリストの誕生)」や「復活祭(イースター:イエス・キリストの復活)」など、一年をとおして重要な節目を迎える前に告解を行うべきものとされています。告解は、カトリック教会の洗礼を受けた人だけしかできません。司祭(神父様)が告解を信徒に授けます。

私たちは、生きていくうちにいろんな罪を犯します。悪意をもって相手を陥れたり、取り返しのつかない大きな罪も犯しますが、人を恨んでしまったり、言葉で相手の心に傷つけてしまったりなど、小さな罪も犯します。その罪の告白を通して、その罪における神様からの赦しと和解を得ることが告解です。
よく「懺悔(ざんげ)」と間違う人がいますが、懺悔はカトリック教会では使われず、カトリック教会の宗教的意味は全くありません。そして、お祈りの中で罪を認めるときは「罪の告白」といいます。ですからカトリック教会では告解はとても大切な秘跡ですので、「告解」=「懺悔」ではないと考えられます。わかりやすく言えば懺悔は”ごめんなさい”と謝ることですね。告解は今までの行いや言動を振り返り、誤り・罪を認め神様に赦していただくことです。告解の最後に「あなたの罪は赦されました。」と聴罪司祭(神父様)が言います。これは罪の赦しを意味しています。

◯「7つの秘跡」とは、次のとおりです。
1.「洗礼の秘跡」
洗礼の秘跡は、水を注ぐという目に見えるシンボルによって、人が神のいのちに新たに生まれるという目に見えない神の恵みをあらわします。

2.「聖体の秘跡」
聖体(聖餐)は、共に食事をするという目に見えるシンボルをとおして、キリストのいのちをいただき、永遠のいのちの交わりを先取りするという神の恵みをあらわします。聖体の秘跡は、“秘跡の中の秘跡”と言われています。

3.「堅信(けんしん)の秘跡」
堅信は、洗礼を受けた者に聖香油を額に十字架のしるしをするという目に見えるシンボルが、信仰を強め、聖霊が与えられるという恵みをあらわします。

4.「ゆるしの秘跡」
ゆるしの秘跡は、司祭のもとで、自分の犯した罪を告白し、罪のゆるしを願うことにより、神からの罪のゆるしが与えられるというしるしです。この秘跡は、回心、悔い改め、和解、いやしの秘跡とも呼ばれています。ゆるしの秘跡に必要な行為は、①痛悔(犯した罪を悔やむこと)、②司祭への罪の告白、③償いをはたす決意、およびその実行です。ゆるしの秘跡には、個別のゆるしの式と共同回心式があります。前者は、ゆるしの秘跡を求める個人と神との出会いを重視します。それにくらべて、共同回心式は、ゆるしの秘跡の教会的な面をあらわしています。この式は、共同体の祈りの中で行われます。
共同回心式は、個人の罪だけでなく、教会共同体の連帯性について考え、共同体の上に神のゆるしを求めるのです。また、ゆるしを神に求めるだけでなく、兄弟姉妹にもゆるしを求めることを意識させてくれるもので、通常、主の降誕祭や主の復活という大きな祭日に向けての準備として、待降節や四旬節の間に行われます。

5.「叙階(じょかい)の秘跡」
叙階は、教会の頭であるキリストご自身の代理として、またキリストと教会の名によって、教会共同体に奉仕する司祭を派遣するための恵みをあらわす秘跡です。そのしるしは司教の按手であり、それによって役務に必要な聖霊の恵みが授けられます。司祭は、キリスト者共同体が世界のための救いのしるしとなるように、特別に心を配る人たちです。洗礼を受けたキリスト者は、すべてキリストの司祭職にあずかっていますが、叙階の秘跡により授かる司祭職もあります。
その人たちは、司教、司祭、助祭です。
・司祭は、聖体祭儀を行い、洗礼、ゆるしの秘跡、病者の塗油を授けて種々の祝福を与えます。
・司教は、上記の他に叙階の秘跡も授けます。
・助祭は、聖体祭儀で司祭を助け、洗礼と聖体の秘跡を授ける任務が与えられています。
司祭と助祭は司教のもとにあり、神の言葉を告げる役目をもっています。

6.「結婚の秘跡」
結婚は、結婚する2人が目に見える契りのしるしをとおして、神の新しい創造のわざがなされます。結ばれる2人は、神と人々の前で誓約を交わします。2人で築く共同体と家庭生活で、神への愛と人々への愛が具体的に実現されます。結婚はキリストと教会との一致をあらわします。

7.「病者の塗油(とゆ)の秘跡」
病者の塗油は、重い病気、あるいは高齢のために困難があるとき、死がせまっているときに、病人の額と手に司教が祝福された油を塗り、特別な恵みを願い、主キリストの受難と死が病人を強め、復活の喜びに導いてくれるように祈ります。
以上です。
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