教会日記2022.7.2(カトリック成城・聖タデオ教会「主日のミサ」土曜日) [教会日記]

今日は、仕事は指定休でお休みでした。朝から、もう40年も通っている理髪店に行き、終わってから浅草にあるカトリック浅草教会に行ってきました。教会の敷地内にある「鳥越きりしたん殉教記念碑(殉教地)」を訪問して、殉教された当時の信徒の皆さをを偲び、永遠の安息をお祈りしてきました。詳しいことは、このブログの次のアドレスをクリックしてお読みください。猛暑・極暑の大炎天下の中、滝のように流れる汗をふき拭きして行ってきました(⌒-⌒; )
https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2022-07-02-1
今日も祭壇の生花がキレイですね!
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ミサでは、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、た
崇められますように、
アーメン」
と主を讃えて、
続いて
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
とお祈りしました。
続いて、
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」と祈り、
そして、同僚の病と同じ病の私が親しくしているご婦人のお二人が癒されるようお祈りしました。
終わりに、『大天使聖ミカエルへの祈り』をお祈りしました。
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
とお祈りしました。
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今日の日記2022.7.2(猛暑日の昼食!) [日記]

今日は、浅草のカトリック浅草教会の敷地にある「鳥越きりしたん殉教記念碑」にお祈りを捧げに行った帰りに、JR総武線浅草橋駅近くの「イタリアン食堂 東京MEAT酒場」に寄りました。
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タラコ&イカ・スパゲッティを食べました。猛暑で汗だくになり、あまり食欲がない時に塩味のタラコスパゲッティは助かります。モチモチ&ツルツル麺で美味しかったです!(^◇^)
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「浅草・鳥越きりしたん殉教記念碑(殉教地)訪問」のお話し [キリスト教関係事項・用語等]

今日は、「浅草・鳥越きりしたん殉教記念碑」がある殉教地を訪問してきました。この猛暑・極暑の大炎天下、それも日中に汗まみれになりながら、我ながらよくここまで来たものです( ̄▽ ̄;) 記念碑の前で、殉教された皆さんを偲び、永遠の安息をお祈りしてきました。
カトリック浅草教会の正面入口です。主日のミサの日以外は、聖堂の中には入れません。
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カトリック浅草教会の裏手に「鳥越の殉教」の記念碑があり、その横に説明板がありました。そこには次のとおり書かれています。
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「この地に鳥越川が流れ、隅田川にそそいでいた。この今は暗渠となっている鳥越川のほとりで江戸時代の初期 1613年 8月 16日、小伝馬町の牢獄に捕らえられていた者と共に 8名のキリシタンが、幕府の禁教令にめげず信仰を守り通して斬首された。同じく翌 17日には 14名、9月 19日にはさらに 5名がこの鳥越川のほとり、甚内橋より東の地にて処刑された。これらの、幕府の迫害にも屈せず、神への純正なこころを貫き通した人々の殉教をいつまでも忘れぬよう、この地に、この記念碑を建立した。
2001年 1月 カトリック浅草教会」
今でも巡礼のために訪れる方がたくさんいらっしゃるようです。この説明板には、処刑された人々合計28人の殉教者の氏名も刻まれています。
◯鳥越で殉教した28人(説明板より)
ミカエル笹田
ヨアキム破竹庵
アントニオ世兵衛
ヨハネ門前
トマス神田喜兵衛
レオ大工
ルカ神田
ビンセンシオ田辺
(以上、8月16日に8人殉教)
マルコ喜左衛門
トマス喜右衛門
ヨアキム源内
シモン彦左衛門
アントニオ半三郎
ヤコブ栄蔵
レオ作内
ヨハネ保四郎
マルコ権助
ミカエル弥蔵
マティア新五郎
ダミヤン茂助
ヤコブ弥四郎
ヨアキム源左衛門
(以上、8月17日に14人殉教)
伝道師ヨハネ末木
伝道師グレゴリオ
大名の小姓パウロ
同じくグレゴリオ
牢内洗礼の某
(以上、9月19日に5人殉教)
ほかに小伝馬町牢で獄死したアポリナールがいます。
以上、28人殉教

◯「カトリック東京大司教区」のホームページの浅草教会のページから
「浅草教会の歴史を語る時、江戸における最初の宣教についてふれておきたい。徳川家康の貿易政策に協力することを条件に、江戸での宣教を許されたフランシスコ会のヘロニモ・デ・ヘスス神父は、1599年「ロザリオの元后聖マリア聖堂」と「修道院」を江戸府内(現在の日本橋か八丁堀)に京都の4人の信徒たちと建て、宣教・司牧に当たった。ヘロニモ神父の亡きあと、同じフランシスコ会のルイス・ソテロ神父らにより、この聖堂・修道院を中心に東北、幾内方面にもおよぶ宣教活動が続けられ、江戸では3,000人を超す信徒が数えられた。
しかし1613年、将軍秀忠は江戸城の敷地拡張を口実に、突然この聖堂と修道院は取り壊されてしまった。(キリシタン禁教令の実施)信徒の有志とソテロ神父らは、礼拝堂を建てることを願い出たが許されず、府内から4キロばかり離れた浅草のハンセン病院の近くの寄せ場に密かに藁ぶきの小さな礼拝堂を建て、同年6月29日ソテロ神父の手で祝別された。だが、これはすぐ幕府に知るところとなって、建設を指導した信徒たちは捕らえられ伝馬町の牢屋に送られた。(後の1639年、ペトロ岐部神父がこの牢内で拷問を受け、殉教している。)同年8月16日から、今の教会から東へ約500m行った当時の刑場で27人が処刑され殉教した。1623年12月4日札の辻で殉教した、ジョアンナ原主水胤信(タネノブ)は浅草のハンセン病院・寄せ場に身を隠していたと思わせる。 
以上の事柄は宣教師たちよって逐一本国スペイン、ポルトガルに書簡で伝えられ、現在ではキリシタン研究にはなくてはならない資料になっている。」

その後、浅草の浅草寺近くというか、台東区立隅田公園近くにある待乳山本龍院(待乳山聖天:まつちやましょうでん)に行き、1639年7月4日に、この寺院あたりの明地(空地)で穴吊りの刑にされ、腹部をあぶり焼きされて殉教した福者ペトロ岐部司祭の永遠の安息をお祈りしてきました。
◯「福者ペトロ岐部司祭」のことは、このブログの2022年7月1日に掲載した「福者ペトロ岐部司祭と187殉教者のお話し」をお読みください。
https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2022-07-01
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その後、近くにある「蟻の街」があった隅田公園を5月5日に再訪して以来再々訪問し、「蟻の街」を偲んできました。炎天下です!誰もいません(⌒-⌒; )
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◯「蟻の街」のことは、このブログの2022年4月23日に掲載した「蟻の街のお話し・第一話 尊者エリザベト・マリア北原怜子のことば」をお読みください。
https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2022-04-23
また、同日に掲載した「蟻の街のお話し・第二話 尊者北原怜子・ゼノ修道士ゆかりの地訪問記」をお読みください。
https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2022-04-23-3

このブログに掲載した都内にある切支丹関係の史跡などを訪問した時の記事ですのでご覧ください。
◯「都旧跡 元和キリシタン遺跡(殉教地)訪問」のお話し
https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2021-08-28-1
◯「都旧跡 切支丹屋敷跡訪問」のお話し 
https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2021-09-10-2
◯「目黒の切支丹灯籠訪問」のお話し
https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2021-11-12-2
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「聖クリストフォロス」のお話し [聖人・福者・尊者]

今日7月2日は、「聖クリストフォロス」の記念日となっております。
聖クリストフォロス(聖クリストファー)の「クリストフォロス」とは、ギリシア語で「キリストを背負うもの」の意味があります。3世紀のローマ帝国の皇帝デキウスの時代に殉教したといわれているキリスト教の伝説的な聖人です。カトリック教会、聖公会及びルーテル教会で聖人とされており、カトリック教会では旅行者の守護聖人ともなっています。昔から伝統的に7月25日がクリストフォロスの祝日とされてきましたが、現在のカトリック教会の<聖人暦(聖人の生誕や殉教を記念してお祝いする暦)>からは「史実性に乏しい」ということで除外されています。

クリストフォロスの物語(伝承)は、教派によって微妙に異なっているそうです。カトリック教会における伝承では、クリストフォロスは、元々レプロブスという名前のローマ人だったそうです。彼はキリスト教に改宗し、イエス・キリストに仕えることを決意したそうです。彼は隠者のもとを訪れ、イエス・キリストにより親しく仕える方法を質問しました。隠者は、人々のために奉仕することがその道であると話し、流れの急な川を示して、そこで川を渡る人々を助けることを提案しました。レプロブスはこれを聞き入れ、川を渡ろうとする人々に無償で尽くし始めました。

ヒエロニムス・ボスの作品です。1500年頃
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ある日、小さな男の子が川を渡りたいとレプロブスに言いました。彼があまりに小さかったのでお安い御用と引き受けたレプロブスでしたが、川を渡るうちに男の子は異様な重さになり、レプロブスは倒れんばかりになりました。あまりの重さに男の子がただものでないことに気づいたレプロブスは丁重にその名前を尋ねますと、男の子は自らがイエス・キリストであると明かしました。イエス・キリストは、全世界の人々の罪を背負っているため重かったのでした。川を渡りきったところでイエス・キリストは、レプロブスを祝福し、今後は「キリストを背負ったもの」という意味の「クリストフォロス」と名乗るよう命じたそうです。

同時にイエス・キリストは、レプロブスが持っていた杖を地面に突き刺すように命じました。彼がそうすると杖から枝と葉が生えだし、みるみる巨木となりました。後にこの木を見た多くの人々がキリスト教に改宗したそうです。この話は、伝承によってローマ帝国デキウス帝の知るところとなり、クリストフォロスは捕らえられ、拷問を受けたあとで斬首されたそうです。このことから、旅行、旅人、車、電車や船などの乗り物の守護聖人になっています。子どものイエス・キリストを背負って川を渡るところを画いた絵画やメダイは多いですね。通勤、出張、旅行をする人は、道中の安全を聖クリストフォロス様にお祈りしてください!
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