「土曜日の主日のミサの開式時間」のお話し [キリスト教関係事項・用語等]

「主日のミサ」で、土曜日の夜(夕方)に行う主日のミサの開式時間について、私の意見とその理由を述べます。まず、結論は「土曜日の主日のミサは、18時30分以降に開式することが最適である」ということです。このことは、私の経験上において確信していることです。理由は次のとおりです。
①18時30分以前の開式時間では、企業で働いている人、特にサービス業などで働いている人は、土曜日・日曜日に出勤する方が多く、主日のミサに与ることができません。
②若い夫婦の家庭で、特に小さいお子さんのいる家庭では、平日は家庭サービスをしにくいものですから、日曜日は家庭サービスのできる貴重な日となります。そして、労働者として体を休める日曜日でもあります。ですから、主日のミサに与るには、土曜日の夜(夕方)となります。
③若い人ほど、平日にできない社会貢献活動、ボランティア活動、習い事や趣味などを日曜日に行っている人が多くおり、主日のミサに与るには、土曜日の夜(夕方)となります。

今まで、仕事や社会活動の出張で、北海道から九州まで全国90近いカトリック教会のミサに与ってきました。この経験からですが、土曜日の主日のミサを18時以前に開式しているカトリック教会は、ごくごく少数派です。だいたいどこの教会も18時又は18時30分の開式がほとんどです。16時や17時の開式の教会の主日のミサでは、ご高齢な方がほとんどで若い人は少ないです。

カトリック教会の利点(良いところ)は、主日のミサも平日のミサも、所属教会のミサに与ることが基本原則ですが、どうしても所属教会でミサに与ることができない場合は、他のカトリック教会のミサに与ることができるところです。しかし、主日のミサでは、所属教会としての重要な連絡事項があったりしますので、やはり所属教会の主日のミサに与ることが大切になってきます。

家族全員が信徒であれば問題はないのかもしれませんが、信徒の中には、私のように家族で私だけが信徒という人もたくさんいます。教会の所在する地域によって、その土地や個々の教会の諸事情もあり、開式時間に違いがあってもしかたがないと思います。しかし、前述したように、働いている人で、ミサに与りたくても与れないというのは、これは大きな問題だと思います( ̄▽ ̄;)

どこのカトリック教会も、所属信徒は高齢者が多くなり、若年者は少なくなっています。ただ単純に洗礼を受ける人が少なくなっているということが原因でしょう。しかし、働いている若い年齢層の信徒が、教会に来れない(ミサに与れない)ということも遠因だと思います。平日のミサでも、主日のミサでも、信徒ではない若い人が見学に訪れます。聖堂を見渡しますと、ほとんど高齢者です。つまり、若い人がいない(少ない)教会に、若い人がまた来ようと思うでしょうか?たくさんの若い人が溌溂としている教会であれば、若い人たちもまた来ようと思うのではないでしょうか。この「若い人たちが来れる教会創り(環境創り)」が、希求の課題であると確信しています。

個々の教会の存在意義は、その当該協会の主任司祭の教会統治(運営方針)のもと、信徒の教会運営に係る意思にあると思います。したがって、間違ってはいけないことは、いわゆる信徒集団である教会というセクショナリズムに陥ってはいけないことです。無意識のうちに自分の所属している教会が良ければ、それでいいという考え方に陥ってしまいがちなのです。その無意識が、やがて教会運営に携わっている運営委員だけの意見・意思となり、所属している個々の信徒の思い・意見を無視することに繋がっていくのだと思います。私も以前所属していた教会で、運営委員長(その教会では議長)を経験していますのでよく理解しています。この無意識のうちにが怖いですね。

この無意識が、土曜日の夜(夕方)の主日のミサの開式時間が、若い人たちのことを考えていない(配慮していない)開式時間になっているということです。小さなことと受け取られる方も多いかと思いますが、私には小さいこととは思われません。開式時間を遅くすることで、若い人たちがミサに与るこが可能になるのです。「日本のカトリック教会を俯瞰する」というと、大げさな言い方になりますが、もっと他のカトリック教会を見て良いところを知ることです。優しさや配慮の対象は、高齢者だけではありません。若い人たちへも優しさや配慮が必要です。若い人たちが「一回でも多く教会を訪れ、一回でも多くミサに与り、一回でも多くご聖体を拝領する」これですね!
nice!(0)  コメント(0) 

新島襄のことば(第1日目) [キリスト者(クリスチャン)]

「彼女(妻の新島八重)は見た目は決して美しくはありません。
ただ、生き方がハンサムなのです。
私にはそれで十分です。」

新島 襄(にいじま じょう:1843年~1890年)は、プロテスタント教会のクリスチャンで布教家、同志社英学校(後の同志社大学)を創立したことで有名です。1890年、46歳のときに同志社大学設立運動中に倒れ亡くなりました。1843年(天保14年)、江戸の神田にあった上州安中藩板倉家江戸屋敷で、藩士の子として生まれ、本名を「七五三太(しめた)」といいます。この名前は、祖父弁治が女子が4人続いた後の初の男子誕生に喜び「しめた」と言った事から命名されたという説があります。後に敬幹(けいかん)と改名しています。
◯「新島襄誕生地」の記念碑が、千代田区神田錦町三丁目28番「学士会館」前にあります。このブログの2202年7月7日に掲載した「新島襄先生生誕之地の記念碑訪問」をお読みください。
https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2022-07-07-4

元服して安中藩士となったころ、友人からアメリカの地図書を受け取り、アメリカの制度に触れ、アメリカに憧れを持つようになりました。その後、幕府の軍艦操練所で洋学を学んでいます。函館港からアメリカに向けて出航し、船中で船長から「Joe(ジョー)」と呼ばれていたことから以後その名を使い始め、後年の帰国後は「譲」又は「襄」と名乗りました。1865年(慶応元年)7月、ボストン到着後、船長の計らいでフィリップス・アカデミーに入学、アンドーヴァー神学校付属教会で洗礼を受けました。
フィリップス・アカデミーを卒業、そしてアマースト大学を卒業(理学士)しました。これは日本人初の学士の学位取得でした。アマースト大学では、後に札幌農学校(現、北海道大学農学部)教頭となるウィリアム・スミス・クラークから化学の授業を受け、クラークにとっては最初の日本人学生であり、この縁でクラークは来日することとなったそうです。クラーク博士の「青年(少年)よ大志を抱け!」はよく知られていますよね。

さて、今日の言葉ですが、これは、アメリカの友人にあてた手紙の中に書かれているもので、襄の奥さんは、幕末のジャンヌダルクと呼ばれた「新島八重」です。八重は当時珍しい男勝りの性格とキャリアウーマンとしての生き方をして、悪妻、烈婦などと言われて周囲との軋轢が絶えなかったそうですが、襄はそれを優しく諌めながら見守っていたそうです。しかし、襄との夫婦仲の良さは有名だったそうですよ。「悪妻」と言われたのは、例えばアメリカなど西洋のマナーを学んだ新島夫婦にとっては、車に乗る時は女性が先に乗る「レディーファースト(女性を優先させる欧米の習慣・礼儀)」が当たり前のことだったのですが、封建制の色濃い当時の日本では、男性よりも女性が先に車に乗るなど受け入れ難いことだったのです。ですから「悪妻」と言われてしまったのですね。2013年のNHK大河ドラマ「八重の桜」で、綾瀬はるかさんが八重役を主演していました。
nice!(0)  コメント(0)