新島襄のことば(第1日目) [キリスト者(クリスチャン)]

「彼女(妻の新島八重)は見た目は決して美しくはありません。
ただ、生き方がハンサムなのです。
私にはそれで十分です。」

新島 襄(にいじま じょう:1843年~1890年)は、プロテスタント教会のクリスチャンで布教家、同志社英学校(後の同志社大学)を創立したことで有名です。1890年、46歳のときに同志社大学設立運動中に倒れ亡くなりました。1843年(天保14年)、江戸の神田にあった上州安中藩板倉家江戸屋敷で、藩士の子として生まれ、本名を「七五三太(しめた)」といいます。この名前は、祖父弁治が女子が4人続いた後の初の男子誕生に喜び「しめた」と言った事から命名されたという説があります。後に敬幹(けいかん)と改名しています。
◯「新島襄誕生地」の記念碑が、千代田区神田錦町三丁目28番「学士会館」前にあります。このブログの2202年7月7日に掲載した「新島襄先生生誕之地の記念碑訪問」をお読みください。
https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2022-07-07-4

元服して安中藩士となったころ、友人からアメリカの地図書を受け取り、アメリカの制度に触れ、アメリカに憧れを持つようになりました。その後、幕府の軍艦操練所で洋学を学んでいます。函館港からアメリカに向けて出航し、船中で船長から「Joe(ジョー)」と呼ばれていたことから以後その名を使い始め、後年の帰国後は「譲」又は「襄」と名乗りました。1865年(慶応元年)7月、ボストン到着後、船長の計らいでフィリップス・アカデミーに入学、アンドーヴァー神学校付属教会で洗礼を受けました。
フィリップス・アカデミーを卒業、そしてアマースト大学を卒業(理学士)しました。これは日本人初の学士の学位取得でした。アマースト大学では、後に札幌農学校(現、北海道大学農学部)教頭となるウィリアム・スミス・クラークから化学の授業を受け、クラークにとっては最初の日本人学生であり、この縁でクラークは来日することとなったそうです。クラーク博士の「青年(少年)よ大志を抱け!」はよく知られていますよね。

さて、今日の言葉ですが、これは、アメリカの友人にあてた手紙の中に書かれているもので、襄の奥さんは、幕末のジャンヌダルクと呼ばれた「新島八重」です。八重は当時珍しい男勝りの性格とキャリアウーマンとしての生き方をして、悪妻、烈婦などと言われて周囲との軋轢が絶えなかったそうですが、襄はそれを優しく諌めながら見守っていたそうです。しかし、襄との夫婦仲の良さは有名だったそうですよ。「悪妻」と言われたのは、例えばアメリカなど西洋のマナーを学んだ新島夫婦にとっては、車に乗る時は女性が先に乗る「レディーファースト(女性を優先させる欧米の習慣・礼儀)」が当たり前のことだったのですが、封建制の色濃い当時の日本では、男性よりも女性が先に車に乗るなど受け入れ難いことだったのです。ですから「悪妻」と言われてしまったのですね。2013年のNHK大河ドラマ「八重の桜」で、綾瀬はるかさんが八重役を主演していました。
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