「新島襄先生生誕之地」の記念碑訪問 [キリスト者(クリスチャン)]

今日は、義父の法事・お墓参りのため、仕事はお休みをいただきました。藤沢市での法事・お墓参りを終えて、今夜19時30分からの「山谷夜回りの会(ホームレス支援)」活動に行く途中、カトリック成城・聖タデオ教会で「ロザリオの祈り」を一環お祈りし、終わってからまだ時間がありましたので、都営地下鉄半蔵門線神保町駅で途中下車し、「新島襄先生生誕之地」の記念碑を訪ねました。記念碑は、千代田区神田錦町三丁目28番「学士会館」の敷地外周の植込みにあります。
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新島 襄(にいじま じょう:1843年~1890年)先生は、プロテスタント教会のクリスチャンで布教家、同志社英学校(後の同志社大学)を創立したことで有名です。1890年、46歳のときに同志社大学設立運動中に倒れ亡くなりました。1843年(天保14年)、江戸の神田にあった上州安中藩板倉家江戸屋敷で、藩士の子として生まれ、本名を「七五三太(しめた)」といいます。この名前は、祖父弁治が女子が4人続いた後の初の男子誕生に喜び「しめた」と言った事から命名されたという説があります。後に敬幹(けいかん)と改名しています。

元服して安中藩士となったころ、友人からアメリカの地図書を受け取り、アメリカの制度に触れ、アメリカに憧れを持つようになりました。その後、幕府の軍艦操練所で洋学を学んでいます。函館港からアメリカに向けて出航し、船中で船長から「Joe(ジョー)」と呼ばれていたことから以後その名を使い始め、後年の帰国後は「譲」又は「襄」と名乗りました。1865年(慶応元年)7月、ボストン到着後、船長の計らいでフィリップス・アカデミーに入学、アンドーヴァー神学校付属教会で洗礼を受けました。
フィリップス・アカデミーを卒業、そしてアマースト大学を卒業(理学士)しました。これは日本人初の学士の学位取得でした。アマースト大学では、後に札幌農学校(現、北海道大学農学部)教頭となるウィリアム・スミス・クラークから化学の授業を受け、クラークにとっては最初の日本人学生であり、この縁でクラークは来日することとなったそうです。クラーク博士の「青年(少年)よ大志を抱け!」はよく知られていますよね。

ちなみに、学士会館の敷地周りには、他にも記念碑があります。
まず、「日本野球発祥の地」の記念碑です。
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次に「東京大学発祥の地」の記念碑です。
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次の写真は、学士会館の建物です。この時間になると、ビルの谷間になっている日陰は、風が吹いてとても涼しいです!
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