「宗教と勧誘と献金(お金)」のお話し [キリスト教関係事項・用語等]
仕事帰りの電車でのお話しです。
車内の一番端に座って先日買ったばかりの本を読んでいたのですが、私の横に座っていた若い二人組が、安倍元総理の銃撃事件のことを話していました。その話している中で、「キリスト教なんてさ、めちゃヤバい宗教だからさ、信者たちの金を絞り取れるだけ取って、幹部がいい思いしてるだけなんだよ!あんな宗教に引っかからないようにしなきゃな。」という内容でした( ̄◇ ̄;)
キリスト教カトリック教会の敬虔な信徒としては、「あの宗教団体はキリスト教じゃない!キリスト教を一括りで決めつけるんじゃない!」と、すぐさま反論をしたいところでしたが、電車の中で口論するのもな………と思い我慢しました( i _ i )殺人の現行犯で逮捕された男性についての報道で、その男性の母親が、ある宗教団体の信者で「母親が宗教にのめり込み、多額の献金をして破産して恨んでいた。」と供述しています。私も宗教(キリスト教カトリック教会)を信心している者ですが、「多額の献金をして破産」とは理解に苦しむところですね。
次に書いていることは、私の個人的な感想や意見であって、カトリック教会全体としての見解ではありませんので、誤解なされないようにあらかじめご了承ください。
さて、宗教団体でよく問題になるのが、①勧誘と②献金(お金)の2つです。特に新興の宗教団体で問題が多いように感じます。私は、宗教で勧誘と献金(お金)に一生懸命になるのは間違いだと思います。一生懸命になる大切なことは、お祈りと善き行いです。ただ、お金については、生活困窮者を支援するために献金するとか、教会の運営維持のために献金するとかは、私もお願いしいたいと思います。カトリック教会は、この2つのことは、だいたい次のとおりとなっていると思います。
1.信徒になるように勧誘しない。
まず、神父様から「勧誘はしないように!」と言われます。信徒になる人というのは、「神様が、教会に招く」という考え方をしますので、神父様や信徒が勧誘したりしないのです。ちなみに、以前所属していた教会で、洗礼を受けずに何年も毎週日曜日のミサに来ている敬虔?な人がいました。もちろんまわりの信徒は知っていましたが………それでも教会の運営のお手伝いをしていました。まぁ、たまには「そろそろ洗礼を受けたら?」とか言われてはいましたね( ̄▽ ̄;) ミサも毎日曜日に来る信徒もいれば、年に数回しか来ない信徒もいます。だからと言って誰からか文句を言われるわけではなく、電話がかかってくるわけでもありません。これは信徒を個々に尊重しているからですね。
それに、神父様に「信徒になりたい(洗礼を受けたい)」とお願いしても、すぐには信徒にしてくれません。約1年間ほどの「入門講座」を受講することになります。これは、キリスト教の信徒になるために、聖書に書かれていることなどの基礎知識を学ぶためですが、もちろん受講料などはなく無料です。受講途中で「やーめた」という人を誰も引き留めたりもしません。ですから、かえって少し寂しい感じがしますね。私が入門講座を受講し始めた当初は23人いたのですが、最終回の時は16人になり、洗礼を受けて信徒になったのは13人でした。私の妻は、数年前に入門講座を最後まで受講しましたが、未だ洗礼は受けていません。洗礼を受けることについては、私の場合は夫婦でも干渉はしません。
2.献金はありますが、何も言われない。
献金をお願いされても、「献金しなさい」とは言われません。まったくしない人もいるようです(^_^;)生活に困窮していて収入の少ない人もいると思いますから、献金をしなくてもまったく何も言われません。お金に余裕のある人が、余裕のない人の分までカバーしているという考え方なのですね。ですから献金の金額も様々です。私は、洗礼を受けて(信徒になって)10年になりますが、今までお金のことで請求・要求されたことは一度もありませんし、そのようなことを聞いたこともありません。それに、キリスト教は<ご利益宗教>ではありませんので、多額の献金をしたからといって、神様のお恵みが増すわけではありません( ̄▽ ̄;) まぁ、カトリック教会は貧乏だとは言いたくはないですが、決して裕福ではないと思います。私には、そのようなとことが敷居の低い、信徒でなくても気軽に教会を訪れることができるという、カトリック教会の良さだと思っています。ちなみに信徒でなくても、世界中どこのカトリック教会でもミサに与ることができます!
◯このブログの2021年7月11日に「洗礼のお話し」という記事を書いていますのでお読みください。ご参考まで:https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2021-07-11
車内の一番端に座って先日買ったばかりの本を読んでいたのですが、私の横に座っていた若い二人組が、安倍元総理の銃撃事件のことを話していました。その話している中で、「キリスト教なんてさ、めちゃヤバい宗教だからさ、信者たちの金を絞り取れるだけ取って、幹部がいい思いしてるだけなんだよ!あんな宗教に引っかからないようにしなきゃな。」という内容でした( ̄◇ ̄;)
キリスト教カトリック教会の敬虔な信徒としては、「あの宗教団体はキリスト教じゃない!キリスト教を一括りで決めつけるんじゃない!」と、すぐさま反論をしたいところでしたが、電車の中で口論するのもな………と思い我慢しました( i _ i )殺人の現行犯で逮捕された男性についての報道で、その男性の母親が、ある宗教団体の信者で「母親が宗教にのめり込み、多額の献金をして破産して恨んでいた。」と供述しています。私も宗教(キリスト教カトリック教会)を信心している者ですが、「多額の献金をして破産」とは理解に苦しむところですね。
次に書いていることは、私の個人的な感想や意見であって、カトリック教会全体としての見解ではありませんので、誤解なされないようにあらかじめご了承ください。
さて、宗教団体でよく問題になるのが、①勧誘と②献金(お金)の2つです。特に新興の宗教団体で問題が多いように感じます。私は、宗教で勧誘と献金(お金)に一生懸命になるのは間違いだと思います。一生懸命になる大切なことは、お祈りと善き行いです。ただ、お金については、生活困窮者を支援するために献金するとか、教会の運営維持のために献金するとかは、私もお願いしいたいと思います。カトリック教会は、この2つのことは、だいたい次のとおりとなっていると思います。
1.信徒になるように勧誘しない。
まず、神父様から「勧誘はしないように!」と言われます。信徒になる人というのは、「神様が、教会に招く」という考え方をしますので、神父様や信徒が勧誘したりしないのです。ちなみに、以前所属していた教会で、洗礼を受けずに何年も毎週日曜日のミサに来ている敬虔?な人がいました。もちろんまわりの信徒は知っていましたが………それでも教会の運営のお手伝いをしていました。まぁ、たまには「そろそろ洗礼を受けたら?」とか言われてはいましたね( ̄▽ ̄;) ミサも毎日曜日に来る信徒もいれば、年に数回しか来ない信徒もいます。だからと言って誰からか文句を言われるわけではなく、電話がかかってくるわけでもありません。これは信徒を個々に尊重しているからですね。
それに、神父様に「信徒になりたい(洗礼を受けたい)」とお願いしても、すぐには信徒にしてくれません。約1年間ほどの「入門講座」を受講することになります。これは、キリスト教の信徒になるために、聖書に書かれていることなどの基礎知識を学ぶためですが、もちろん受講料などはなく無料です。受講途中で「やーめた」という人を誰も引き留めたりもしません。ですから、かえって少し寂しい感じがしますね。私が入門講座を受講し始めた当初は23人いたのですが、最終回の時は16人になり、洗礼を受けて信徒になったのは13人でした。私の妻は、数年前に入門講座を最後まで受講しましたが、未だ洗礼は受けていません。洗礼を受けることについては、私の場合は夫婦でも干渉はしません。
2.献金はありますが、何も言われない。
献金をお願いされても、「献金しなさい」とは言われません。まったくしない人もいるようです(^_^;)生活に困窮していて収入の少ない人もいると思いますから、献金をしなくてもまったく何も言われません。お金に余裕のある人が、余裕のない人の分までカバーしているという考え方なのですね。ですから献金の金額も様々です。私は、洗礼を受けて(信徒になって)10年になりますが、今までお金のことで請求・要求されたことは一度もありませんし、そのようなことを聞いたこともありません。それに、キリスト教は<ご利益宗教>ではありませんので、多額の献金をしたからといって、神様のお恵みが増すわけではありません( ̄▽ ̄;) まぁ、カトリック教会は貧乏だとは言いたくはないですが、決して裕福ではないと思います。私には、そのようなとことが敷居の低い、信徒でなくても気軽に教会を訪れることができるという、カトリック教会の良さだと思っています。ちなみに信徒でなくても、世界中どこのカトリック教会でもミサに与ることができます!
◯このブログの2021年7月11日に「洗礼のお話し」という記事を書いていますのでお読みください。ご参考まで:https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2021-07-11
教会日記2022.7.12(カトリック成城・聖タデオ教会「平日のミサ」火曜日) [教会日記]
今朝は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会の7時からの「平日のミサ」に与りました。曇り空で、昨日よりは気温が下がりましたね。しかし、相変わらず蒸し暑さはありますが、今日も清々しい朝を迎えています。
ミサでは、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と主を讃えて、
続いて
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
とお祈りしました。
続いて、
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」と祈り、
そして、同僚の病と同じ病の私が親しくしているご婦人のお二人が癒されるようお祈りしました。
終わりに、『大天使聖ミカエルへの祈り』をお祈りしました。
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
とお祈りしました。
ミサでは、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と主を讃えて、
続いて
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
とお祈りしました。
続いて、
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」と祈り、
そして、同僚の病と同じ病の私が親しくしているご婦人のお二人が癒されるようお祈りしました。
終わりに、『大天使聖ミカエルへの祈り』をお祈りしました。
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
とお祈りしました。
新約聖書:マタイによる福音書・第5章・第44節 [聖書]
「あなた方の敵を愛し、あなた方を迫害する者のために祈りなさい。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から
この聖句(イエス・キリストの言葉)と同じ内容の聖句が、次の『ルカによる福音書』にもあります。
◯新約聖書:ルカによる福音書・第6章・第27~第28節
「敵を愛し、あなた方を憎む者に善行を行いなさい。呪う者を祝福し、あなた方を侮辱する者のために祈りなさい。(『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から)」。
2つの聖句で、イエス・キリストは、まず①「自分の敵を愛しなさい」と説き、②「自分を迫害する、侮辱する者のために祈りなさい。」と説いて、そして、③「それは、天におられる父の子となるためである。」と説いておられます。旧約聖書には「敵を愛せよ」という掟の記載はありませんが、敵対関係は放置しておかないで、なんとか解決しなければならないという問題意識はありました。旧約聖書の時代の神は、歴史の流れの中でゆっくりと時間をかけ、ご自分の民に裏切られながら辛抱強く導かれています。その中で、敵対関係を緩和するための間接的な手段がいくつか命じられています。
『出エジプト記』に含まれている律法の中に、敵対する者とのかかわり方に関する次のような掟が見られます。「あなたの敵の牛あるいはろばが迷っているのに出会ったならば、必ず彼のもとに連れ戻さなければならない。もし、あなたを憎む者のろばが荷物の下に倒れ伏しているのを見た場合、それを見捨てておいてはならない。必ず彼と共に助け起こさねばならない。(旧約聖書:出エジプト記・第23章・第4~第5節)」これは動物愛護の規定ではなく、たとえ敵であってもせめてこのぐらいのことはするように、そうすれば関係の改善の糸口が開けるかもしれないという意味合いがありますね。
敵対者に対する復讐を断念するということだけでも、人間にとってどれほど不可能に思われるかは、過去の悲惨な事件(第2次世界大戦でのユダヤ人の大量虐殺など)を紐解けばわかることです。しかし、それでもイエス・キリストは単刀直入に「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われます。この場合、イエス・キリストが求めておられる敵への愛の根拠は、ただ、イエス・キリストの父である神が、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」方であるからであり、私たち人間の目指すところは「天の父の子となること」なのです。
新約聖書の時代になってはじめて、「敵を愛せよ」と説くことができたのには理由があります。イエス・キリストの生と死と復活という出来事があり、これをとおして示された神の愛を体験させていただいた弟子たちがあったからです。イエス・キリストが逮捕された時、ペトロを筆頭に使徒(弟子)たちは皆、一時的にしろイエス・キリストに背を向けた者たちですが、まさにその背きの時に、イエス・キリストをとおして示された神の際限のないあわれみを体験したのでした。
フランシスコ教皇は、2017年2月19日「お告げの祈り」で、次のとおり述べておられます。
「親愛なる兄弟姉妹の皆さん、こんにちは。
今日この主日の福音(マタイ5・38-48)――キリスト教的な「変革」をもっともよく表す箇所の一つですが――の中でイエスは、真の正義への道をわたしたちに示しています。それは、「目には目を、歯には歯を」という報復のおきてより、はるかに偉大な愛のおきてに基づくものです。この古来のおきては、悪事を働いた人に、その悪事によって生じた損害と同じだけの罰を与えることを定めています。殺人者には死刑が、人を傷つけた人には体の切断が課せられました。イエスは悪を辛抱するのではなく、それに対して行動するよう弟子たちに求めています。しかし悪に悪で返すのではなく、よい行いによって返すのです。これは、悪の連鎖を打ち破る唯一の方法です。この悪の連鎖が打ち破られると、ものごとは本当に変わり始めます。悪とは実際、「空白」すなわち、善の欠けた状態です。善という「充満」以外に、この空白を埋めることはできません。仕返しは決して争いの解決にはなりません。「こんなことをされたから、同じように仕返しをしてやる」というのでは、争いは決して終わりませんし、それはキリスト者としての行いでもありません。
暴力を否定することによって、正当な権利が犠牲になることもあると、イエスは述べています。イエスはその例をいくつが挙げています。もう一方の頬を向けたり、上着や金銭をあきらめたり、他の犠牲を受け入れることです(39-42節)。しかしそうした犠牲をささげるからといって、正義の要求が無視されたり、拒否されたりしてもよいということではありません。違います。そうではなく、いつくしみの内に特別な形で明らかにされるキリスト者の愛は、正義を上回るものです。イエスは「正義」と「報復」をはっきり区別するよう、わたしたちに教えています。正義と報復を見分けるのです。報復が正しいことは決してありません。わたしたちは正義を求めることができます。正義を行うことは、わたしたちの責務です。しかし、人に仕返しをしたり、何らかの形で報復をすることはできません。それらは憎しみと暴力の表れだからです。
イエスは市民法の新しい形を提案しようとしているではなく、なんじの隣人を愛し、敵をも愛せよという命令を示そうとしておられます。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(44節)。 これは容易なことではありません。これらのことばは、敵による悪事を認めるものとしてではなく、むしろ天の御父のように、より崇高で壮大な観点から見るよう招くものととらえるべきです。イエスは御父について、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」(45節)と述べています。たとえ恥ずべき行動によって今はその姿が色あせていても、 敵も実は神の似姿に造られた人間なのです。
「敵」について語るときには、その人たちが自分とは異なる、かけ離れた人であると考えるべきではありません。そして自分自身についても語りましょう。わたしたち自身も隣人、もしくは時には親戚と争うことがあるからです。家庭の中にどれほど多くの敵意が存在していることでしょう。次のことを考えましょう。敵はまた、わたしたちの悪口を言う人、わたしたちを辱める人、わたしたちを傷つける人でもあります。これを我慢するのは容易ではありません。わたしたちはそれら一つひとつに、愛によってもたらされる善意をもって応えるよう求められています。
人間の尊厳を真に大切にするという、この険しい道をたどってイエスに従うことができるよう、おとめマリアが助けてくださいますように。また、日常生活、とりわけ家庭内で、わたしたちが忍耐、対話、ゆるしのもとに、交わりの作り手、兄弟愛の作り手となることができるよう、マリアが助けてくださいますように。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から
この聖句(イエス・キリストの言葉)と同じ内容の聖句が、次の『ルカによる福音書』にもあります。
◯新約聖書:ルカによる福音書・第6章・第27~第28節
「敵を愛し、あなた方を憎む者に善行を行いなさい。呪う者を祝福し、あなた方を侮辱する者のために祈りなさい。(『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から)」。
2つの聖句で、イエス・キリストは、まず①「自分の敵を愛しなさい」と説き、②「自分を迫害する、侮辱する者のために祈りなさい。」と説いて、そして、③「それは、天におられる父の子となるためである。」と説いておられます。旧約聖書には「敵を愛せよ」という掟の記載はありませんが、敵対関係は放置しておかないで、なんとか解決しなければならないという問題意識はありました。旧約聖書の時代の神は、歴史の流れの中でゆっくりと時間をかけ、ご自分の民に裏切られながら辛抱強く導かれています。その中で、敵対関係を緩和するための間接的な手段がいくつか命じられています。
『出エジプト記』に含まれている律法の中に、敵対する者とのかかわり方に関する次のような掟が見られます。「あなたの敵の牛あるいはろばが迷っているのに出会ったならば、必ず彼のもとに連れ戻さなければならない。もし、あなたを憎む者のろばが荷物の下に倒れ伏しているのを見た場合、それを見捨てておいてはならない。必ず彼と共に助け起こさねばならない。(旧約聖書:出エジプト記・第23章・第4~第5節)」これは動物愛護の規定ではなく、たとえ敵であってもせめてこのぐらいのことはするように、そうすれば関係の改善の糸口が開けるかもしれないという意味合いがありますね。
敵対者に対する復讐を断念するということだけでも、人間にとってどれほど不可能に思われるかは、過去の悲惨な事件(第2次世界大戦でのユダヤ人の大量虐殺など)を紐解けばわかることです。しかし、それでもイエス・キリストは単刀直入に「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われます。この場合、イエス・キリストが求めておられる敵への愛の根拠は、ただ、イエス・キリストの父である神が、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」方であるからであり、私たち人間の目指すところは「天の父の子となること」なのです。
新約聖書の時代になってはじめて、「敵を愛せよ」と説くことができたのには理由があります。イエス・キリストの生と死と復活という出来事があり、これをとおして示された神の愛を体験させていただいた弟子たちがあったからです。イエス・キリストが逮捕された時、ペトロを筆頭に使徒(弟子)たちは皆、一時的にしろイエス・キリストに背を向けた者たちですが、まさにその背きの時に、イエス・キリストをとおして示された神の際限のないあわれみを体験したのでした。
フランシスコ教皇は、2017年2月19日「お告げの祈り」で、次のとおり述べておられます。
「親愛なる兄弟姉妹の皆さん、こんにちは。
今日この主日の福音(マタイ5・38-48)――キリスト教的な「変革」をもっともよく表す箇所の一つですが――の中でイエスは、真の正義への道をわたしたちに示しています。それは、「目には目を、歯には歯を」という報復のおきてより、はるかに偉大な愛のおきてに基づくものです。この古来のおきては、悪事を働いた人に、その悪事によって生じた損害と同じだけの罰を与えることを定めています。殺人者には死刑が、人を傷つけた人には体の切断が課せられました。イエスは悪を辛抱するのではなく、それに対して行動するよう弟子たちに求めています。しかし悪に悪で返すのではなく、よい行いによって返すのです。これは、悪の連鎖を打ち破る唯一の方法です。この悪の連鎖が打ち破られると、ものごとは本当に変わり始めます。悪とは実際、「空白」すなわち、善の欠けた状態です。善という「充満」以外に、この空白を埋めることはできません。仕返しは決して争いの解決にはなりません。「こんなことをされたから、同じように仕返しをしてやる」というのでは、争いは決して終わりませんし、それはキリスト者としての行いでもありません。
暴力を否定することによって、正当な権利が犠牲になることもあると、イエスは述べています。イエスはその例をいくつが挙げています。もう一方の頬を向けたり、上着や金銭をあきらめたり、他の犠牲を受け入れることです(39-42節)。しかしそうした犠牲をささげるからといって、正義の要求が無視されたり、拒否されたりしてもよいということではありません。違います。そうではなく、いつくしみの内に特別な形で明らかにされるキリスト者の愛は、正義を上回るものです。イエスは「正義」と「報復」をはっきり区別するよう、わたしたちに教えています。正義と報復を見分けるのです。報復が正しいことは決してありません。わたしたちは正義を求めることができます。正義を行うことは、わたしたちの責務です。しかし、人に仕返しをしたり、何らかの形で報復をすることはできません。それらは憎しみと暴力の表れだからです。
イエスは市民法の新しい形を提案しようとしているではなく、なんじの隣人を愛し、敵をも愛せよという命令を示そうとしておられます。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(44節)。 これは容易なことではありません。これらのことばは、敵による悪事を認めるものとしてではなく、むしろ天の御父のように、より崇高で壮大な観点から見るよう招くものととらえるべきです。イエスは御父について、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」(45節)と述べています。たとえ恥ずべき行動によって今はその姿が色あせていても、 敵も実は神の似姿に造られた人間なのです。
「敵」について語るときには、その人たちが自分とは異なる、かけ離れた人であると考えるべきではありません。そして自分自身についても語りましょう。わたしたち自身も隣人、もしくは時には親戚と争うことがあるからです。家庭の中にどれほど多くの敵意が存在していることでしょう。次のことを考えましょう。敵はまた、わたしたちの悪口を言う人、わたしたちを辱める人、わたしたちを傷つける人でもあります。これを我慢するのは容易ではありません。わたしたちはそれら一つひとつに、愛によってもたらされる善意をもって応えるよう求められています。
人間の尊厳を真に大切にするという、この険しい道をたどってイエスに従うことができるよう、おとめマリアが助けてくださいますように。また、日常生活、とりわけ家庭内で、わたしたちが忍耐、対話、ゆるしのもとに、交わりの作り手、兄弟愛の作り手となることができるよう、マリアが助けてくださいますように。」