新約聖書:マタイによる福音書・第5章・第44節 [聖書]

「あなた方の敵を愛し、あなた方を迫害する者のために祈りなさい。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

この聖句(イエス・キリストの言葉)と同じ内容の聖句が、次の『ルカによる福音書』にもあります。
◯新約聖書:ルカによる福音書・第6章・第27~第28節
「敵を愛し、あなた方を憎む者に善行を行いなさい。呪う者を祝福し、あなた方を侮辱する者のために祈りなさい。(『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から)」。

2つの聖句で、イエス・キリストは、まず①「自分の敵を愛しなさい」と説き、②「自分を迫害する、侮辱する者のために祈りなさい。」と説いて、そして、③「それは、天におられる父の子となるためである。」と説いておられます。旧約聖書には「敵を愛せよ」という掟の記載はありませんが、敵対関係は放置しておかないで、なんとか解決しなければならないという問題意識はありました。旧約聖書の時代の神は、歴史の流れの中でゆっくりと時間をかけ、ご自分の民に裏切られながら辛抱強く導かれています。その中で、敵対関係を緩和するための間接的な手段がいくつか命じられています。

『出エジプト記』に含まれている律法の中に、敵対する者とのかかわり方に関する次のような掟が見られます。「あなたの敵の牛あるいはろばが迷っているのに出会ったならば、必ず彼のもとに連れ戻さなければならない。もし、あなたを憎む者のろばが荷物の下に倒れ伏しているのを見た場合、それを見捨てておいてはならない。必ず彼と共に助け起こさねばならない。(旧約聖書:出エジプト記・第23章・第4~第5節)」これは動物愛護の規定ではなく、たとえ敵であってもせめてこのぐらいのことはするように、そうすれば関係の改善の糸口が開けるかもしれないという意味合いがありますね。

敵対者に対する復讐を断念するということだけでも、人間にとってどれほど不可能に思われるかは、過去の悲惨な事件(第2次世界大戦でのユダヤ人の大量虐殺など)を紐解けばわかることです。しかし、それでもイエス・キリストは単刀直入に「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われます。この場合、イエス・キリストが求めておられる敵への愛の根拠は、ただ、イエス・キリストの父である神が、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」方であるからであり、私たち人間の目指すところは「天の父の子となること」なのです。

新約聖書の時代になってはじめて、「敵を愛せよ」と説くことができたのには理由があります。イエス・キリストの生と死と復活という出来事があり、これをとおして示された神の愛を体験させていただいた弟子たちがあったからです。イエス・キリストが逮捕された時、ペトロを筆頭に使徒(弟子)たちは皆、一時的にしろイエス・キリストに背を向けた者たちですが、まさにその背きの時に、イエス・キリストをとおして示された神の際限のないあわれみを体験したのでした。

フランシスコ教皇は、2017年2月19日「お告げの祈り」で、次のとおり述べておられます。
「親愛なる兄弟姉妹の皆さん、こんにちは。
 今日この主日の福音(マタイ5・38-48)――キリスト教的な「変革」をもっともよく表す箇所の一つですが――の中でイエスは、真の正義への道をわたしたちに示しています。それは、「目には目を、歯には歯を」という報復のおきてより、はるかに偉大な愛のおきてに基づくものです。この古来のおきては、悪事を働いた人に、その悪事によって生じた損害と同じだけの罰を与えることを定めています。殺人者には死刑が、人を傷つけた人には体の切断が課せられました。イエスは悪を辛抱するのではなく、それに対して行動するよう弟子たちに求めています。しかし悪に悪で返すのではなく、よい行いによって返すのです。これは、悪の連鎖を打ち破る唯一の方法です。この悪の連鎖が打ち破られると、ものごとは本当に変わり始めます。悪とは実際、「空白」すなわち、善の欠けた状態です。善という「充満」以外に、この空白を埋めることはできません。仕返しは決して争いの解決にはなりません。「こんなことをされたから、同じように仕返しをしてやる」というのでは、争いは決して終わりませんし、それはキリスト者としての行いでもありません。

 暴力を否定することによって、正当な権利が犠牲になることもあると、イエスは述べています。イエスはその例をいくつが挙げています。もう一方の頬を向けたり、上着や金銭をあきらめたり、他の犠牲を受け入れることです(39-42節)。しかしそうした犠牲をささげるからといって、正義の要求が無視されたり、拒否されたりしてもよいということではありません。違います。そうではなく、いつくしみの内に特別な形で明らかにされるキリスト者の愛は、正義を上回るものです。イエスは「正義」と「報復」をはっきり区別するよう、わたしたちに教えています。正義と報復を見分けるのです。報復が正しいことは決してありません。わたしたちは正義を求めることができます。正義を行うことは、わたしたちの責務です。しかし、人に仕返しをしたり、何らかの形で報復をすることはできません。それらは憎しみと暴力の表れだからです。

 イエスは市民法の新しい形を提案しようとしているではなく、なんじの隣人を愛し、敵をも愛せよという命令を示そうとしておられます。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(44節)。 これは容易なことではありません。これらのことばは、敵による悪事を認めるものとしてではなく、むしろ天の御父のように、より崇高で壮大な観点から見るよう招くものととらえるべきです。イエスは御父について、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」(45節)と述べています。たとえ恥ずべき行動によって今はその姿が色あせていても、 敵も実は神の似姿に造られた人間なのです。
 「敵」について語るときには、その人たちが自分とは異なる、かけ離れた人であると考えるべきではありません。そして自分自身についても語りましょう。わたしたち自身も隣人、もしくは時には親戚と争うことがあるからです。家庭の中にどれほど多くの敵意が存在していることでしょう。次のことを考えましょう。敵はまた、わたしたちの悪口を言う人、わたしたちを辱める人、わたしたちを傷つける人でもあります。これを我慢するのは容易ではありません。わたしたちはそれら一つひとつに、愛によってもたらされる善意をもって応えるよう求められています。
 人間の尊厳を真に大切にするという、この険しい道をたどってイエスに従うことができるよう、おとめマリアが助けてくださいますように。また、日常生活、とりわけ家庭内で、わたしたちが忍耐、対話、ゆるしのもとに、交わりの作り手、兄弟愛の作り手となることができるよう、マリアが助けてくださいますように。」
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