教会日記2022.7.6(カトリック成城・聖タデオ教会「ロザリオの祈り」水曜日) [教会日記]
今朝は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会で、6時45分から「ロザリオの祈り」を一環お祈りしました。聖堂は、私一人でしたから静寂の中でのお祈りとなりました。水曜日と土曜日は、通常ですと午前7時から「平日のミサ」があるのですが、まだコロナ渦ということで現在は中止となっています。今日も清々しい朝を迎えています………ちなみに、今日は、私の64歳の誕生日です!(*^▽^*)
「ロザリオの祈り」を終えて、祈願しました。
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と主を讃えて、
続いて
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
とお祈りしました。
続いて、
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」と祈り、
そして、同僚の病と同じ病の私が親しくしているご婦人のお二人が癒されるようお祈りしました。
終わりに、『大天使聖ミカエルへの祈り』をお祈りしました。
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
とお祈りしました。
「ロザリオの祈り」を終えて、祈願しました。
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と主を讃えて、
続いて
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
とお祈りしました。
続いて、
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」と祈り、
そして、同僚の病と同じ病の私が親しくしているご婦人のお二人が癒されるようお祈りしました。
終わりに、『大天使聖ミカエルへの祈り』をお祈りしました。
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
とお祈りしました。
「聖マリア・ゴレッティおとめ殉教者」のお話し [聖人・福者・尊者]
今日7月6日は、「聖マリア・ゴレッティおとめ殉教者(イタリア王国:1890年10月16~902年7月6日)」の任意の祝日です。ちなみに、今日は私の64歳の誕生日でもあります(^◇^)マリア・ゴレッティは、12歳で殉教した少女です。イタリア王国の旧教皇領であったアンコーナ県コリナルドで、貧しい農夫の両親と7人兄弟の家庭に長女として生まれ、敬虔なカトリック信徒である両親から愛情を受けて信仰深く育ちました。
10歳の時に父を失い、母親のアスンタ・カルリーニは6人の子供を抱え、以前から同じ家(一説には隣家)に住むセレネッリ家を頼るようになります。このころ彼女は待望の初聖体(カトリック教会の習慣)を受け、敬虔な生涯を送る決心をします。ところが、セレネッリ家の息子のアレッサンドロは、彼女にただならぬ思いを寄せ、彼女の母親の留守をねらっては彼女を誘惑しましたが抵抗し続けました。しかし、彼女が12歳の時にアレッサンドロは短剣をもって脅し、彼女は「それは罪です」と言って抵抗したのですが、ついに彼女を刺してしまいました。翌日彼女は、「彼を赦してやってくださいね。いつか、天国でまた会いたいわ。」と言い残して息を引き取ったそうです。
殺人罪で逮捕されたアレッサンドロは、罪状からすれば死刑に相当するところでしたが、未成年(犯行当時19歳)であるという理由で酌量され、30年の懲役を受けました。ある日、彼の夢の中にマリア・ゴレッティが現れ、彼女から百合の花1本を渡されました。アレッサンドロは彼女が自分を赦してくれたと確信して改心しました。その後、27年目に出所して彼女の母親に赦しを願いに行きました。母親は、娘の言葉どおり彼を迎え入れえ赦し、共に彼女のために教会でミサを捧げたのでした。カプチン・フランシスコ会の修道院で園丁として働き、1970年に生涯を閉じるまで模範的な人生を全うしたそうです。なくなったのはまだ50年ほど前のことなのですね。
マリア・ゴレッティは、教皇庁から正式に殉教者と認められて列聖調査が始まり、1947年にローマ教皇ピウス12世によって列福され、1950年に列聖されました。マリア・ゴレッティは、キリスト教的生活(貞潔)の殉教者として尊ばれています。
10歳の時に父を失い、母親のアスンタ・カルリーニは6人の子供を抱え、以前から同じ家(一説には隣家)に住むセレネッリ家を頼るようになります。このころ彼女は待望の初聖体(カトリック教会の習慣)を受け、敬虔な生涯を送る決心をします。ところが、セレネッリ家の息子のアレッサンドロは、彼女にただならぬ思いを寄せ、彼女の母親の留守をねらっては彼女を誘惑しましたが抵抗し続けました。しかし、彼女が12歳の時にアレッサンドロは短剣をもって脅し、彼女は「それは罪です」と言って抵抗したのですが、ついに彼女を刺してしまいました。翌日彼女は、「彼を赦してやってくださいね。いつか、天国でまた会いたいわ。」と言い残して息を引き取ったそうです。
殺人罪で逮捕されたアレッサンドロは、罪状からすれば死刑に相当するところでしたが、未成年(犯行当時19歳)であるという理由で酌量され、30年の懲役を受けました。ある日、彼の夢の中にマリア・ゴレッティが現れ、彼女から百合の花1本を渡されました。アレッサンドロは彼女が自分を赦してくれたと確信して改心しました。その後、27年目に出所して彼女の母親に赦しを願いに行きました。母親は、娘の言葉どおり彼を迎え入れえ赦し、共に彼女のために教会でミサを捧げたのでした。カプチン・フランシスコ会の修道院で園丁として働き、1970年に生涯を閉じるまで模範的な人生を全うしたそうです。なくなったのはまだ50年ほど前のことなのですね。
マリア・ゴレッティは、教皇庁から正式に殉教者と認められて列聖調査が始まり、1947年にローマ教皇ピウス12世によって列福され、1950年に列聖されました。マリア・ゴレッティは、キリスト教的生活(貞潔)の殉教者として尊ばれています。