教会日記2022.7.28(カトリック成城・聖タデオ教会「平日のミサ」木曜日) [教会日記]
今朝は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城・聖タデオ教会の7時からの「平日のミサ」に与りました。今日は、気温は34度を超えるようです!(⌒-⌒; ) 熱中症に要注意です!今朝も清々しい朝を迎えています。
ミサでは、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と主を讃えて、
続いて
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
とお祈りしました。
続いて、
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」と祈り、
そして、同僚の病と同じ病の私が親しくしているご婦人のお二人が癒されるようお祈りしました。
終わりに、『大天使聖ミカエルへの祈り』をお祈りしました。
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
とお祈りしました。
ミサでは、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン」
と主を讃えて、
続いて
「天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。
アーメン」
とお祈りしました。
続いて、
「主よ、ここに私がおります。
この私を遣わしてください。
アーメン」と祈り、
そして、同僚の病と同じ病の私が親しくしているご婦人のお二人が癒されるようお祈りしました。
終わりに、『大天使聖ミカエルへの祈り』をお祈りしました。
「大天使聖ミカエル、
悪との戦いにおいて、私たちを守り、
凶悪な企みに打ち勝つことが出来ますように。
神の命令によって
悪魔が人々を害することが出来ないようにお願い致します。
天軍の総帥、
人々を惑わし、食いつくそうと探し回っているサタンと
他の悪霊を神の力によって地獄に閉じ込めて下さい。
アーメン。」
とお祈りしました。
新島襄のことば(第3日目) [キリスト者(クリスチャン)]
「愛以貫之(あいをもって これをつらぬく)」
新島先生のことは、「新島襄のことば(第1日目)2022.7.24」をご覧ください。
https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2022-07-24
この言葉は、新島先生が「真神之道 愛以貫之」と毛筆で書かれた言葉です。イエス・キリストの教えのすべてが「愛」に象徴されています。すべてにこの愛をもって善き行いを実践するときに、キリスト教を信仰する真髄があると確信しています。とても力強いお言葉ですね!
この言葉は、新島先生が、1886年、同志社分校を設置するために仙台を訪れた際、仙台市の東一番町にある仙台教会で行った説教の中で、「キリスト教とはなにか?」との問いに、新島先生が語られたものです。
「キリスト教の神の愛はすべての人に与えられ、神はどんな時も私たち一人ひとりのために配慮され、導こうとされている。しかし、私たちはそのことを忘れがちである。キリストは、私たちと共にいて私たちを救うために、身代わりとなって苦しみ十字架で死なれた。そのようなキリストの愛は広く、深く、高い。愛は忍び、ゆるすものである。一見弱々しく無力に見えるが、だれもその愛に逆らうことはできない。神はこの愛をもって、私たちを近くに引き寄せ、今も私たちの心に働きかけている。」
新島先生のことは、「新島襄のことば(第1日目)2022.7.24」をご覧ください。
https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2022-07-24
この言葉は、新島先生が「真神之道 愛以貫之」と毛筆で書かれた言葉です。イエス・キリストの教えのすべてが「愛」に象徴されています。すべてにこの愛をもって善き行いを実践するときに、キリスト教を信仰する真髄があると確信しています。とても力強いお言葉ですね!
この言葉は、新島先生が、1886年、同志社分校を設置するために仙台を訪れた際、仙台市の東一番町にある仙台教会で行った説教の中で、「キリスト教とはなにか?」との問いに、新島先生が語られたものです。
「キリスト教の神の愛はすべての人に与えられ、神はどんな時も私たち一人ひとりのために配慮され、導こうとされている。しかし、私たちはそのことを忘れがちである。キリストは、私たちと共にいて私たちを救うために、身代わりとなって苦しみ十字架で死なれた。そのようなキリストの愛は広く、深く、高い。愛は忍び、ゆるすものである。一見弱々しく無力に見えるが、だれもその愛に逆らうことはできない。神はこの愛をもって、私たちを近くに引き寄せ、今も私たちの心に働きかけている。」