「都旧跡 元和キリシタン遺跡(殉教地)訪問」のお話し [キリスト教関係事項・用語等]

今日は、お盆休みに訪れる予定をしていた「都旧跡 元和キリシタン遺跡(殉教地)」を訪問し、先ほどお祈りを捧げてきました。昨日急遽訪問が決まりました( ̄◇ ̄;)
この遺跡のある所は、江戸時代の「芝口札の辻(しばぐちさつのつじ)」と呼ばれたところです。芝口札の辻は、1623(元和9)年12月4日、カトリック教会の修道会であるイエズス会のデ・アンジェリス神父、フランシスコ会のガルベス神父、ジョアン原主水をはじめとする50人が火刑によって殉教した殉教地です。同月の12月24日、殉教者の妻と子どもたちの25人が、同じように市中を引き回しされた上、同じ場所で処刑されました。キリシタンの中の6人が火刑、17人が斬首、2人が磔刑でした。この時、キリシタンを匿った人たちも13人も処刑されました。アンデリス神父とガルベス神父、シモン遠甫(えんぽ)修道士の3人は、1896(慶応3)年ローマ教皇ピオ9世より「福者」と認定され、 列福されました。ジョアン原主水も2008年11月24日、長崎において列福されています。殉教された皆さんの永久の安息をお祈りしました。お祈りが終わってから、カトリック高輪教会を訪問いたします。

芝口札の辻での殉教者は次のとおりです。
1624年(寛永元年)6月12日 18人が処刑
1630年(寛永6年)1月24日 1人が鋸刑(きょけい のこぎりの刑)。
1632年(寛永8年)1月13日 6人が火刑、1人が斬首
1639年(寛永15年)1月6日 6人が磔刑、14人が斬首
1640年(寛永17年)5月2日 オゾリオ神父とバラハス神父が火刑
フランシスコ会のベルナルド・デ・サン・ホセ・オゾリオ神父は寒河江(さがえ)で、フランシスコ・バラハス神父(孫七郎)は大籠で多くの人に宣教し、仙台で捕らえられました。

住友不動産三田ツインビル西館にある「都旧跡 元和キリシタン遺跡」です。
93D9C6AD-C63B-4AEF-959A-86902E8ACCE4.jpeg
A3AC6BC6-CE8A-4AE5-9CE5-18DDDF113A75.jpeg
F7B8D248-B7F7-4F4A-92A2-9C24ECE41838.jpeg
44157792-2D48-4ABA-BADC-2DE5C59646B3.jpeg
当時、芝口札の辻は、東海道から江戸への正面入り口で、高札場であったため、多くの人が江戸に入るために通過しました。小高い丘となっていたこの地で処刑されたのは、見せしめのためでした。江戸初期の元和2年(1616)、この札の辻に「芝口門」が建てられ、江戸の町の正面の入り口としての役割を担っていました。東側が江戸湾に接し、海を隔てて房総の山を望む、1日眺めていても飽きないほどの景色であったため、「日暮御門」とも言われました。江戸市街の拡大に伴い宝永7年(1710)、江戸の入り口と高札場は札の辻から南の高輪大木戸に移され、芝口門が新たに新橋の北側に造営されると、そこを芝口と呼ぶようになりました。

この地は長く不浄の地とされたことから居住地とはなりませんでしたが、約150年後の明和年間に智福寺が建てられ、その智福寺が練馬区に移転した後、三田都ホテル(旧都イン東京ホテル)が建てられ、現在は、都ホテル跡地を再開発して2006年9月に住友不動産三田ツインビル西館(ラ・トゥール三田)が建てられ、北側から入った広場の階段を上った高台に「元和のキリシタン殉教碑」が建てられています。少し道から奥まった所にあります。1956年(昭和31年)に智福寺にカトリック信徒によって建てられた「元和大殉教記念碑」の石柱は、智福寺移転の際に聖マリア学園に移され、その後、カトリック高輪教会に移されています。
◯住所:東京都港区三田3丁目7-8
碑は、住友不動産三田ツインビル西館の北側から入って奥の広場内にあります
◯アクセス:JR山の手線の田町駅下車徒歩5分
都営 三田線又は浅草線の三田駅下車徒歩3分
nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。