「蟻の街」のお話し・第二話「尊者北原怜子・ゼノ修道士ゆかりの地訪問記」 [日記]

今日は、来週4月29日(金)に出勤する振替休日でお休み(朝だけ会議で出勤)をいただき、お昼前からアトピー性皮膚炎(足首)のため皮膚科病院と腰痛のために以前行っていた四ツ谷の整体院に行ってきました。その後は、自宅近くの整骨院に行く予定でしたが、予定を変更して、今朝掲載したブログ記事関連で、カトリック教会の尊者(そんじゃ)北原怜子さんとゼノ修道士を偲ぶため、お二人のゆかりの地を訪れました………ということで、この記事を「蟻の街のお話し・第二話 尊者北原怜子・ゼノ修道士ゆかりの地訪問記」として、今朝の記事を「蟻の街のお話し・第一話 尊者エリザベト・マリア北原怜子のことば」と修正します。

故北原怜子さんの詳しいことは、今朝、このブログに掲載した「蟻の街・第一話 北原怜子のことば」をお読みください。また、故ゼノ修道士の詳しいことは、このブログの2017年2月17日に掲載した「ゼノ神父のことば」をご覧ください。お二人は、戦後直後の荒廃した東京で、共通して貧者・弱者救済のためにその生涯を神に捧げ、敬虔な信仰に生きた方々です。
◯「蟻の街のお話し・第一話 尊者エリザベト・マリア北原怜子のことば」
https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2022-04-23
◯「ゼノ神父のことば」https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2017-02-17

【蟻の街】
戦後直後、復員軍人(ということですが未確認)の小澤求氏が、仕事のない人々を日雇いで雇いあげ、ガラスくず、鉄・銅くず、縄くず、紙くず等を拾い集め、回収させて再生工場へ送る仕事を行うため、廃品の仕切り場とするために隅田公園辺りの製材工場跡と約600坪の土地を借り受けました。このような労働者たちを当時「バタヤ」と呼びました。このバタヤが収集して来た物品の買い取り価格が低いため、バタヤの生活は貧しく苦しかったのですが、自前の仕切り場を開設し、バタヤたちに適切な報酬を支払うことを目指しました。小澤氏の仕切り場での報酬は出来高払いで、仕切り場の労働者とその家族たちを居住させ、仕切り場はいわば生活共同体となりました。人々はアリのように勤勉に働き、助け合って生活したことから、この共同体の名称が「蟻の会」となり、住んでいる場所を「蟻の街」と呼ぶようになりました。

この隅田川の言問橋の浅草側に「蟻の街」がありました。言問橋から撮影しました。今は桜の樹が生い茂る隅田公園となっています。暑い〜汗がダラダラ〜( ̄◇ ̄;)
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北原怜子とゼノ修道士が一緒に活動した「蟻の街(ありのまち)」があった隅田公園に来ました。隅田公園は、隅田川に架かる「言問橋(ことといばし)」の両岸にありますが、蟻の街は浅草側にありました。ここが蟻の街だったのですね………現在もこの辺りではホームレスの方がたくさん生活しています。昨年の年の暮れの12月27日に、あるホームレスの方を捜しに来たのですがお会いできなかったのです。その時の記事を2021年12月27日にブログに掲載していますのでご覧ください………その時は、ここが「蟻の街」とは知らなかったのでした。迂闊でした( ̄▽ ̄;) なお、「蟻の街」の詳しいことも、今朝このブログに掲載した「蟻の街のお話し・第一話 尊者エリザベト・マリア北原怜子のことば」をお読みください。

隅田公園内にある「アリの街跡」の説明板です。台東区が令和3年3月に設置しました。
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この後、大変遅いお昼を駅のそば屋で済ませました。近くにある浅草・浅草寺界隈は、美味いお店がたくさんあるグルメな街です!が、貧困にあったお二人を偲んでお蕎麦で我慢です!………この我慢というのがいけないですね。当たり前だと思わないと( ̄▽ ̄;) というか、お蕎麦でも贅沢です!( ̄▽ ̄;) 食後は、「蟻の街」が1960年に隅田公園から江東区潮見に移転したところに建てられた「カトリック潮見教会」での主日のミサに与ります。潮見教会でのミサと教会のことは、このブログに改めて掲載しますね。
美味しかった〜!でもこの後、外に出たら滝のような汗が(⌒-⌒; ) なぜ熱いお蕎麦を食べたのか?ざる蕎麦もあったのに〜!
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