「浅草・鳥越きりしたん殉教記念碑(殉教地)訪問」のお話し [キリスト教関係事項・用語等]

今日は、「浅草・鳥越きりしたん殉教記念碑」がある殉教地を訪問してきました。この猛暑・極暑の大炎天下、それも日中に汗まみれになりながら、我ながらよくここまで来たものです( ̄▽ ̄;) 記念碑の前で、殉教された皆さんを偲び、永遠の安息をお祈りしてきました。
カトリック浅草教会の正面入口です。主日のミサの日以外は、聖堂の中には入れません。
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カトリック浅草教会の裏手に「鳥越の殉教」の記念碑があり、その横に説明板がありました。そこには次のとおり書かれています。
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「この地に鳥越川が流れ、隅田川にそそいでいた。この今は暗渠となっている鳥越川のほとりで江戸時代の初期 1613年 8月 16日、小伝馬町の牢獄に捕らえられていた者と共に 8名のキリシタンが、幕府の禁教令にめげず信仰を守り通して斬首された。同じく翌 17日には 14名、9月 19日にはさらに 5名がこの鳥越川のほとり、甚内橋より東の地にて処刑された。これらの、幕府の迫害にも屈せず、神への純正なこころを貫き通した人々の殉教をいつまでも忘れぬよう、この地に、この記念碑を建立した。
2001年 1月 カトリック浅草教会」
今でも巡礼のために訪れる方がたくさんいらっしゃるようです。この説明板には、処刑された人々合計28人の殉教者の氏名も刻まれています。
◯鳥越で殉教した28人(説明板より)
ミカエル笹田
ヨアキム破竹庵
アントニオ世兵衛
ヨハネ門前
トマス神田喜兵衛
レオ大工
ルカ神田
ビンセンシオ田辺
(以上、8月16日に8人殉教)
マルコ喜左衛門
トマス喜右衛門
ヨアキム源内
シモン彦左衛門
アントニオ半三郎
ヤコブ栄蔵
レオ作内
ヨハネ保四郎
マルコ権助
ミカエル弥蔵
マティア新五郎
ダミヤン茂助
ヤコブ弥四郎
ヨアキム源左衛門
(以上、8月17日に14人殉教)
伝道師ヨハネ末木
伝道師グレゴリオ
大名の小姓パウロ
同じくグレゴリオ
牢内洗礼の某
(以上、9月19日に5人殉教)
ほかに小伝馬町牢で獄死したアポリナールがいます。
以上、28人殉教

◯「カトリック東京大司教区」のホームページの浅草教会のページから
「浅草教会の歴史を語る時、江戸における最初の宣教についてふれておきたい。徳川家康の貿易政策に協力することを条件に、江戸での宣教を許されたフランシスコ会のヘロニモ・デ・ヘスス神父は、1599年「ロザリオの元后聖マリア聖堂」と「修道院」を江戸府内(現在の日本橋か八丁堀)に京都の4人の信徒たちと建て、宣教・司牧に当たった。ヘロニモ神父の亡きあと、同じフランシスコ会のルイス・ソテロ神父らにより、この聖堂・修道院を中心に東北、幾内方面にもおよぶ宣教活動が続けられ、江戸では3,000人を超す信徒が数えられた。
しかし1613年、将軍秀忠は江戸城の敷地拡張を口実に、突然この聖堂と修道院は取り壊されてしまった。(キリシタン禁教令の実施)信徒の有志とソテロ神父らは、礼拝堂を建てることを願い出たが許されず、府内から4キロばかり離れた浅草のハンセン病院の近くの寄せ場に密かに藁ぶきの小さな礼拝堂を建て、同年6月29日ソテロ神父の手で祝別された。だが、これはすぐ幕府に知るところとなって、建設を指導した信徒たちは捕らえられ伝馬町の牢屋に送られた。(後の1639年、ペトロ岐部神父がこの牢内で拷問を受け、殉教している。)同年8月16日から、今の教会から東へ約500m行った当時の刑場で27人が処刑され殉教した。1623年12月4日札の辻で殉教した、ジョアンナ原主水胤信(タネノブ)は浅草のハンセン病院・寄せ場に身を隠していたと思わせる。 
以上の事柄は宣教師たちよって逐一本国スペイン、ポルトガルに書簡で伝えられ、現在ではキリシタン研究にはなくてはならない資料になっている。」

その後、浅草の浅草寺近くというか、台東区立隅田公園近くにある待乳山本龍院(待乳山聖天:まつちやましょうでん)に行き、1639年7月4日に、この寺院あたりの明地(空地)で穴吊りの刑にされ、腹部をあぶり焼きされて殉教した福者ペトロ岐部司祭の永遠の安息をお祈りしてきました。
◯「福者ペトロ岐部司祭」のことは、このブログの2022年7月1日に掲載した「福者ペトロ岐部司祭と187殉教者のお話し」をお読みください。
https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2022-07-01
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その後、近くにある「蟻の街」があった隅田公園を5月5日に再訪して以来再々訪問し、「蟻の街」を偲んできました。炎天下です!誰もいません(⌒-⌒; )
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◯「蟻の街」のことは、このブログの2022年4月23日に掲載した「蟻の街のお話し・第一話 尊者エリザベト・マリア北原怜子のことば」をお読みください。
https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2022-04-23
また、同日に掲載した「蟻の街のお話し・第二話 尊者北原怜子・ゼノ修道士ゆかりの地訪問記」をお読みください。
https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2022-04-23-3

このブログに掲載した都内にある切支丹関係の史跡などを訪問した時の記事ですのでご覧ください。
◯「都旧跡 元和キリシタン遺跡(殉教地)訪問」のお話し
https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2021-08-28-1
◯「都旧跡 切支丹屋敷跡訪問」のお話し 
https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2021-09-10-2
◯「目黒の切支丹灯籠訪問」のお話し
https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2021-11-12-2
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