「靴屋のマルチン」のお話し [キリスト教と読書]

今日は、ロシアの有名な作家のトルストイの「愛あるところに神あり」というお話しですが、日本では「靴屋のマルチン」として知られているお話しです。昨年もこのブログに掲載しましたが、今年も待降節のこの時期に再掲載しました。心温まるお話しです。

「ある町にマルチンという靴屋さんが住んでいました。ですから「靴屋のマルチン」と呼ばれます。マルチンは地下室の小さな部屋に住んでいました。その小さな部屋には、小さな窓が一つだけありました。そして、その窓からは道を通る人の足だけが見えるだけでしたけれども、マルチンは、その履き物を見ただけで誰が通ったか、すぐ分かりました。なぜか?みんなマルチンが作ったり、直したりした、見覚えのある靴ばかりだったからなんですね。

トントン、トントン。朝から晩までトントン。ていねいにトントン。しっかりギュッ、ギュッ。やさしくキュッ、キュッ。マルチンの靴は一生懸命のいい靴ばかり。けれども、本当は、マルチンはとてもとても悲しい気持ちで暮らしていました。マルチンの奥さんも子どもも、ずっと前に死んでしまいました。マルチンは一人ぼっちだったんですね。マルチンの心はひとりぼっちでした。それに、なんだかなんだか寂びしくて、心の中に悲しい涙がつまっていました。

ある日、マルチンは、聖書を読み始めました。聖書には、神様の言葉が書いてあります。その聖書をマルチンは、毎晩、毎晩、夢中になって読みました。なぜだか心が安まりました。ある日、マルチンは夢の中で、イエス様の声を聞きました。「マルチン、マルチン。あした行くから待っておいで」。それで、次の日、マルチンは朝から窓の外ばかり気になっていました。「本当にイエス様は来てくれるのだろうか」。マルチンは胸がいっぱいになりました。

ふと、窓の外を見ると、雪かきのおじいさんが、疲れてぼんやりしていました。「年をとって雪かきなんて、疲れることだろう。ちょうどお茶があったまっている。そうだ、あのおじいさんにご馳走しよう」。マルチンは、おじいさんに声をかけました。「少しあったまって行きませんか」。「ありがとう。助かるよ。なにしろ外は寒くてね」。おじいさんが家に入って来ました。「さあ、さあ、こっちがあったかだよ。あたたまっておくれ。おいしいお茶もどうぞ」。マルチンはおじいさんに熱いお茶を入れてあげました。「フーッ、うまい。寒いときには、熱いものが何よりのごちそうだ」。ところで、マルチンが、窓の外ばかり気にしているので、おじいさんが聞きました。「誰か待っているのかい」。マルチンは、恥ずかしそうに答えました。「なんだかイエス様がおいでになるような、そんな気がしてね。イエス様って方は、ワシたちのような貧しい者を特別愛してらっしゃるようだ。聖書に、そう書いてあるんだよ。さあ、元気が出るから、もういっぱいどうだね」。マルチンはお茶をもういっぱい勧めました。雪かきのおじいさんは、心も身体もあったまって帰って行きました。

時々、北風がビュウーと吹いて行きます。マルチンが仕事の手を休め、窓の外を見ると、女の人が赤ちゃんをあやしているのが見えました。赤ちゃんは泣きやまないし、女の人は、寒そうなかっこうをしています。「もし、おかみさん。うちに入りなさいな」。女の人は、夕べから何も食べていなかったので、赤ちゃんにあげるお乳がでませんでした。マルチンは、パンとスープを出してあげました。「さあ、お食べ。みんな食べてもいいんだよ」。女の人は食べて元気になりました。「でも、おまえさん、この寒さに上着もないなんて寒いだろう」。そう言って、マルチンは、自分の上着を女の人に渡しました。女の人は上着を受け取ると、泣き出してしまいました。マルチンも泣きそうになりました。その女の人は、マルチンに何度も何度も御礼を言って、それから、上着を赤ちゃんにしっかりくるんで、帰って行きました。

マルチンは、また仕事にかかりました。しばらくすると、窓の外で何か声が聞こえます。男の子が、おばあさんのリンゴを取ろうとしたので、おばあさんがひどく怒っていました。マルチンは、飛び出して行って、叫びました。「まあ、まあ、おばあさん、ゆるしておやんなさいよ」。「いいや、今日という今日は、ゆるせんよ。せんだっても、この小僧はワシのリンゴを盗んだんだよ」。「坊や、それは本当か。それは悪いことだよ。誰も見ていないと思っても、天の神様はちゃんと見ておられる。でも、今日は、ワシがそのリンゴを買って、お前にあげるからな」。そして、マルチンは、男の子にリンゴを一個持たせました。「おばあさん、許すって事は難しいけど、とても大切なことのようだ」。マルチンは、小さな声で、そんなことを言いました。すると、おばあさんは「そうだ」とため息をついて、なんだかやさしい気持ちになりました。その時です。「おばあさん、ボクが荷物をもってあげるよ」と男の子は言いました。男の子も、やさしい気持ちになって、二人で仲良く帰って行きました。

マルチンは、家に帰り、また、仕事を始めました。暗くなってきたので、ランプをともし、道具を片付け、そして、棚から聖書を取り出して、きのうの続きを読もうとしました。その時、急に、きのうの夢の中のイエス様の声を思い出しました。そして、マルチンは、ふと誰かがいるような気がしました。その時です。昼間の雪かきのおじいさんが現れ、にっこり笑いながら言いました。「マルチン、マルチン。お前は、私に気がつかなかったのか」。「誰に?」。「わたしに…、あれは私なんだよ」。そして、フッーと消えました。次に、赤ちゃんを抱いた女の人も、また、おばあさんと男の子も現れ、にっこり笑いながら言いました。「マルチン、私が分からなかったのか。あれはみんな私なんだよ」。マルチンは叫びました。「夢ではなかったんだ。本当に、本当に、ワシはイエス様にお会いできた」。マルチンの心は、喜びでいっぱいになりました。

マルチンの机の上の聖書には、イエス様のこんな言葉が記されておりました。『お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。…… わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである』と。」

新約聖書『マタイによる福音書』第25章・第31~第46節に、次の聖句(イエス・キリストの言葉)があります。
「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。
そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』
すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』
そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

解釈をしますと、冒頭にある「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき」というのは、終末(この世の終わり)に、人の子=イエス・キリストが再臨するということです。その時に天使たちを従えて来て“最後の審判”をするのです。分かりやすく説明すると、この世の終わりに、イエス・キリストが再び現れて、天国に入る者と地獄に落ちる者とを選別するということです。「王」とは、イエス・キリストのことです。「兄弟であるこの最も小さい者」とは、苦しんでいる人、弱い立場にある人、病にある人など、救いを求めている人達のことです。「永遠の罰を受け」というのは地獄に落ちるということで、「永遠の命にあずかる」というのは天国に入るということです。

自分のためではなく、人の為に善い行いをすること。特に貧しい人、苦しんでいる人達、弱い立場の人達、病にある人達、そのような人達のために善い行いをすることです。それがイエス様にすることと同じことになるのです。イエス様は、そういう弱い人達の中にいてくださるのですね。クリスマスはイエス・キリストがこの世にお生まれになった素晴らしい日です。私達も、靴屋のマルチンのように、イエス様とお会いできるといいですね。祈りましょう。
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根谷崎武彦

 聖公会信徒(84歳)です。ロシアとウクライナの紛争、双方の言い分を聞いているうちにトルストイの靴屋のマルチンを思い浮かべました。
 結末が「マルチン」のように丸く収まるとよいのですが!!
by 根谷崎武彦 (2022-07-01 21:05) 

アウグスティヌス

おはようございます。
返信が遅くなり申し訳ございません。
根谷崎の仰せのとおりですね。
丸く収まるとよいのですが。
早く戦争が収まるようにお祈りいたします。
by アウグスティヌス (2022-07-05 08:12) 

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