旧約聖書の詩編・箴言&新約聖書における「平和」の記載箇所 [聖書]

聖書に記載されている聖句(イエス・キリストの言葉)や使徒(弟子)達の言葉は、私達キリスト者にとってすべて大切な言葉ですが、その中でも特にイエス・キリストが説いておられる教えは、まず「隣人への愛」です。そして「人への赦し」です。この2つのあるところに「平和の実現」があります。
その「平和の実現」ですが、ミサの司式の中にも出てきますね。司祭(神父様)がミサの中で、「主の平和がいつも皆さんと共に。」とおっしゃると、信徒が「また司祭と共に。」と言って、続いて司祭の「お互いに平和の挨拶をしましょう。」という言葉で、信徒は「主の平和」と言ってから、まわりにいる人に「主の平和」と言いながら挨拶をします。また、ミサの一番最後で、司祭による「派遣の祝福」で、司祭が「行きましょう、主の平和のうちに。」という言葉があります。ミサにおいて「主の平和」とあるのは、いかに平和が大切であるかということを物語っていますね。聖書に掲載されている「平和」の単語が出てくるのは、だいたい次のとおりです。

◯旧約聖書
詩編:第34編・第15節
「悪を避け、善を行い/平和を尋ね求め、追い求めよ。」

詩編:第37編・第11節
「貧しい人は地を継ぎ/豊かな平和に自らをゆだねるであろう。」

詩編:第37編・第37節
「無垢であろうと努め、まっすぐに見ようとせよ。平和な人には未来がある。」

箴言:第3章・第2節
「わが子よ、わたしの教えを忘れるな。わたしの戒めを心に納めよ。そうすれば、命の年月、生涯の日々は増し/平和が与えられるであろう。」

箴言:第12章・第20節
「悪を耕す者の心には裏切りがある。平和を勧める人の心には喜びがある。」

◯新約聖書
マタイによる福音書:第5章・第9節
「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。」

マタイによる福音書:第10章・第12~第13節
「その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。」

マルコによる福音書:第9章・第50節
「塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」

ルカによる福音書:第2章・第14節
「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心(みこころ)に適う人にあれ。」

ヨハネによる福音書:第14章・第27節
「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」

ヨハネによる福音書:第16章・第33節
「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

ローマの信徒への手紙:第2章・第10節
「すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。」

ローマの信徒への手紙:第8章・第6節
「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。」

ローマの信徒への手紙:第12章・第18節
「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」

ローマの信徒への手紙:第14章・第17節
「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」

ローマの信徒への手紙:第14章・第19節
「だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。」

コリントの信徒への手紙第二:第13章・第11節
「終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。」

ガラテヤの信徒への手紙:第5章・第22~第23節
「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」

エフェソの信徒への手紙:第2章・第14~第16節
『実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。』

エフェソの信徒への手紙:第4章・第3節
「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。」

コロサイの信徒への手紙:第1章・第20節
「その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」

コロサイの信徒への手紙:第3章・第15節
「また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」

テモテへの手紙第二:第2章・第22節
「若いころの情欲から遠ざかり、清い心で主を呼び求める人々と共に、正義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。」

ヘブライ人への手紙:第12章・第11節
「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」

ヘブライ人への手紙:第12章・第14節
「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。」

ヤコブの手紙:第3章・第18節
「義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。」

ペトロの手紙第一:第3章・第11節
「悪から遠ざかり、善を行い、/平和を願って、これを追い求めよ。」

ヨハネの手紙第二:第3節
「父である神と、その父の御子イエス・キリストからの恵みと憐れみと平和は、真理と愛のうちにわたしたちと共にあります。」
以上です。
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教会日記2020.2.19(カトリック礼拝会修道院「平日のミサ」水曜日) [教会日記]

今日は、出勤する前に小田急線喜多見駅で途中下車し、カトリック女子修道会の礼拝会修道院での7時からの平日のミサに与りました。礼拝会修道院は、昨年の11月6日以来、約3ヶ月半ぶりの訪問となりました。今朝も寒いですが、私は清々しい朝を迎えています!

7時からのミサではご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
と気持ちを込めてお祈りしてきました。
また、行方不明となっている小学一年生の小倉美咲ちゃんが、元気な姿で両親の元に帰れるようにお祈りし、同僚の病が癒されますように、同僚のお嬢さんの病気が完治しますようにと心を込めてお祈りしました。
では、仕事に行ってまいります!
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水野源三のことば・詩(第1日目) [キリスト者(クリスチャン)]

“瞬き(まばたき)の詩人”水野源三の詩
『キリストを知るためだと分かりました』 
「病に倒れたその時には、涙流して悲しんだが、
霊の病いやしたもうキリストを知るためだとわかり、
喜びと感謝に変わりました。
友にそむかれたその時には、夜も眠れずに恨んだが、
とわに変わらない友なるキリストを知るためだとわかり、
喜びと感謝に変わりました。
過ち犯したその時には、心を乱してくやんだが、
すべてをば償いたもうキリストを知るためだとわかり、
喜びと感謝に変わりました。」

水野源三は、キリスト教プロテスタントのクリスチャンで詩人です。長野県埴科郡坂城町に生まれ、9歳の時に赤痢に罹ってその高熱によって脳性麻痺を起こし、やがて見ること聞くことの機能以外のすべてを失いました。話すことも書くことも出来なくなりましたが、母親が何とか彼と意思の疎通をしようと五十音順を指で指し示したところ、目の動きで応答し、これが47才で天に召されるまで彼の唯一のコミュニケーション能力となりました。「瞬き(まばたき)の詩人」と呼ばれるようになったのはそのためです。

12才の時、偶然にも牧師(ぼくし:プロテスタント教会は「牧師」で、カトリック教会は「神父(しんぷ)」といいます。)が置いていった聖書を読み、ラジオでキリスト教放送を聴き、キリスト教の通信教育も受けて13才でクリスチャンとなり、18才の時からは詩作を開始し多くの作品を生み出しました。その詩風は神への喜びを表す純粋な詩で、彼のその姿は、クリスチャンはもとより多くの人々の感動を呼びました。この詩は、キリスト教の信仰に生涯を捧げられた水野さんの人柄が偲ばれる詩ですね。

水野源三詩集です。すべて「アシュラム・センター」から出版されています。
『わが恵み汝に足れり―水野源三第一詩集』(1975年)
『主にまかせよ汝が身を―水野源三第二詩集 』(1978年)
『今あるは神の恵み―水野源三第三詩集』(1981年)
『み国をめざして―水野源三第四詩集』(1984年)
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今日の日記2020.2.18(焼きそば!) [日記]

JR中央線立川駅構内にある「神戸 長田本庄軒」の〈ぼっかけオムそば〉です!美味い!焼きそば好きにはたまりません!お店の詳しいことは https://www.toridoll.com/shop/nagata/ をご覧ください。
長田本庄軒.jpg
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教会日記その二2020.2.18(カトリック麹町・聖イグナチオ教会「平日のミサ」火曜日) [教会日記]

今日は、仕事が終わってから膝の痛みを柔らげるため、整体院に行く前に四ッ谷まで足をのばし、カトリック麹町・聖イグナチオ教会の18時からの平日のミサに与りました。朝夕はまだまだ寒いですね〜やはり寒さは膝にも影響します( ̄◇ ̄;)

18時のアンジェラスの鐘が響き渡るなか「お告げの祈り」をお祈りし、ミサではご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
と気持ちを込めてお祈りしてきました。
また、行方不明となっている小学一年生の小倉美咲ちゃんが、元気な姿で両親の元に帰れるようにお祈りし、同僚の病が癒されますように、同僚のお嬢さんの病気が完治しますようにと、心を込めてお祈りいたしました。さぁ、今から整体院に直行です!
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教会日記2020.2.18(カトリック成城教会「平日のミサ」火曜日) [教会日記]

今日は、出勤する前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城教会の7時からの平日のミサに与りました。今朝は寒いですね〜お昼は暖かくなるのでしょうか。今日も私は清々しい朝を迎えています!

6時50分から「お告げの祈り」をお祈りし、7時からのミサでは、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
と気持ちを込めてお祈りしてきました。
また、行方不明となっている小学一年生の小倉美咲ちゃんが、元気な姿で両親の元に帰れるようにお祈りし、同僚の病が癒されますように、同僚のお嬢さんの病気が完治しますようにと心を込めてお祈りしました。
さぁ、仕事に行ってまいります!
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新約聖書:マタイによる福音書・第6章・第5〜第15節 [聖書]

「『また、祈るときには、偽善者のようであってはならない。彼らは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈ることを好む。よく言っておく。彼らはその報いをすでに受けている。あなたが祈るときは、奥の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。
祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。彼らは言葉数が多ければ、聞き入れられると思っている。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。
<天におられるわたしたちの父よ、
御名(みな)が聖とされますように。
御国(みくに)が来ますように。
御心が行われますように、
天におけるように地の上にも。
私たちに日ごとの糧を今日お与えください
私たちの負い目をお赦しください
私たちも自分に負い目のある人を
赦しましたように。
私たちを試みにに遭わせず
悪からお救いください。>』」
『聖書協会共同訳聖書』から

これはイエス・キリストの聖句(せいく:イエス・キリストの言葉)です。約2000年前にイエス・キリストは、「祈りの仕方」について弟子(使徒)に説いておられます。それは、まず、①祈りは偽善的な行為であってはならないということです。人前でいかにも「熱心に祈っています!」というような見せかけの行為は祈りではありませんね。誰にも見られないように祈る場所を考える(選ぶ)ことです。②祈るときは、くどくどと言葉を多くして祈らないこと。私たちが祈る前から、神様は祈る内容をすでにご存じなのですから。③『主の祈り』を祈ること。(<  >の部分)の3点が要点です。

『主の祈り』は、キリスト教において唯一最高・最強の一番重要なお祈りであり、いつどここでも祈ることのできるお祈りです。洗礼を受けて8年になりますが、今までに500冊を超えるキリスト教関係書籍(聖書はもとより神学書、カテキズム、聖書注解書、キリスト教史、聖人伝など)を読みまくりましたが、結局、重要なことは「聖書を読むこと」、「祈ること」と「善き行い」の3点と悟りました。この3点があれば、他に何をしなくても完璧な信仰となります。
特に“祈ること”は何よりも大切なことです。それは祈ることによって「人を救える」からです。はぁ?と不思議に思う方もいらっしゃると思いますが、正しく熱心に祈れば祈りは必ずや成就するのです。もちろん個人的な利益(賭け事とかお金儲けなど)は論外ですし、すべてが成就するわけではありませんが祈れば成就します。それもたくさんの人で祈れば願がかなう可能性は大きくなります。私も熱心にお祈りした結果、願いがかなったことがあります。その時は驚きと同時に感激したことを鮮明に覚えています。これはキリスト教初期の古代キリスト教時代から確かなことなのです。昔から幾人も祈りによって人を救ってきた聖人達は、常に祈りの大切さを説いておられます。祈りましょう
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「聖母マリアのしもべ会・七聖人(創立者)」のお話し [聖人・福者・尊者]

聖母マリア七聖人.jpg
今日は「聖母マリアのしもべ会・七聖人(創立者)」の任意の記念日でした。
七聖人は、いずれも北イタリアなるフロレンス市の元豪商で、①ボンフィリオ・デ・モナルデ、②ヨハネ・デ・ボナジュンタ、③ベネディクト・デル・アンテラ、④バルトロメオ・デリ・アミディ、⑤リコヴェロ・デ・ウグチォネ、⑥ゲラルヂノ・デ・ソステニヨ、⑦アレキシオ・ファルコニエリという名前の13世紀半ばの人達でした。
当時のイタリアは、ドイツ皇帝フェデリコ2世の軍勢に侵入され、国民はグエルフ人とギベリン人の二派に分裂し、町と町とが互いに争って不安定な殺伐とした世情でした。そこで、7人は人生の儚さやこの世の無情を感じてこの世を憂い、安寧を願わんがために主(神様)に仕えようと望むようになったのでした。

そのようなところに、1233年8月15日の「聖母マリアの被昇天の祝日」に、聖母マリア様が彼ら個々にご出現になり、修道修行を勧められたので、彼らは決心して“アッシジの聖フランシスコ”のように自分達の財産をことごとく貧しい人々にに施し、司教の許可を得て、9月8日の「聖母マリアのご誕生」の記念日をもって、郊外のカマルチアというところにある小屋で憧れの修道生活を始めたのでした。
ある日、7人が粗末な服を身にまとい町中を歩いていると、小さな子供等がぞろぞろついて来ながら、とっても面白そうに「マリア様のしもべ!マリア様のしもべ!」とはやし立てたのでした。後に彼らの修道会が司教よって「マリアのしもべ会」と命名されたのは、この子ども達の言葉が元となったのでした。しかも、その時その子ども達の中に、幼いフィリッポ・ベニチオという子どももいましたが、この子どもが、後に「マリアのしもべ会」に入り、総長の重任をおびて同会の発展に力を尽くし、死後に聖人に列せられたのでした。

7人の質素で敬虔な生活ぶりは間もなく町中の評判になり、大勢の人々が教えを乞うべく押し掛けて来るようになり、司教の許可を得て、更にそこから36㎞ほど離れたモンテ・セナリオという静寂な場所で祈りと苦行に勤しみました。ある聖金曜日の事でした。彼らがイエス・キリストのご苦難を黙想していると、聖母マリア様が再びご出現になり、「アウグスチノ会の戒律」を用い、黒の会服を着し、また聖子の十字架の下にたたずむ聖母の苦痛を尊敬すべきことをお示しになりました。7人が早速そのみ言葉に従ったことは言うまでもありません。
そして必要にかられて、フロレンス市中にアノンチアート修道院という修道院を設けました。巡回説教をするようになると、司祭でなくては都合の悪いこともあり、彼らの6人は司教の承諾を得て“叙階の秘跡(司祭の任命)”を受けましが、ただ残る一人、アレキシオだけは謙遜の心からどうしても司祭の権力を受けようとはせず。あくまで平修道者として乞食の生活を続け、恵む者の為に主(神様)の祝福を祈って一生を送りました。

7人の中で、最初にこの世を去ったのはヨハネ・ボナジュンタでした。彼は1251年8月13日、ミサを献げた後、自分の死すべき事を兄弟達に告げ、司祭服を着たまま聖書の主イエズス・キリストの御受難の顛末を読んでもらい「父よ我が魂を御手にまかせ奉る!」という所に至って腕を広げ、その言葉の通り自分の霊魂を天主の御手に返したのでした。最も長寿を保ったのはアレキシオで、彼は1310年2月17日、百十歳の高齢でフロレンス市に永眠しました。後に、教皇レオ13世から列聖されています。その創立した修道会は今や全世界に広まり、修道院はおよそ70、修道者は約800人に及んでいます。
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豚カツ大好き日記2020.2.17 [豚カツ大好き日記]

今日のお昼ご飯は、お弁当チェーンの「Hotto Motto(ホットモット)」の「ロースとんかつ弁当」です!税込み520円です。味はまぁまぁでんな(⌒-⌒; ) しかし、学生食堂の「豚カツ弁当」の方が数段も美味い!
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聖マザー・テレサのことば(第10日目) [聖人・福者・尊者]

「ここ数年来、わたしは、いっそう確信を深めました。
それは、ひとりの人間が体験しうる最大の苦悩は、
見捨てられていると感じることにあるという確信です。」

聖マザー・テレサの詳細は、「聖マザー・テレサのことば 2020.1.27」をご覧ください。「見捨てる」ということほど酷いことはありませんね。又は「無視する」ということも同類になると思います。「大嫌いだから、生理的に合わないから、顔もみたくないから」などよく耳にしますが、そのような相手でも人間として見捨てたり、無視したりすることは許されないことなのです。
人と人の繋がりは「絆」です。決して一人ではない自分というものが、全ての人達にあるのです。聖テレサは、この世で相手にされない人達、見捨てられた人達を救うために尊い活動を続けられました。
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