新約聖書:マタイによる福音書・第6章・第5〜第15節 [聖書]

「『また、祈るときには、偽善者のようであってはならない。彼らは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈ることを好む。よく言っておく。彼らはその報いをすでに受けている。あなたが祈るときは、奥の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。
祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。彼らは言葉数が多ければ、聞き入れられると思っている。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。
<天におられるわたしたちの父よ、
御名(みな)が聖とされますように。
御国(みくに)が来ますように。
御心が行われますように、
天におけるように地の上にも。
私たちに日ごとの糧を今日お与えください
私たちの負い目をお赦しください
私たちも自分に負い目のある人を
赦しましたように。
私たちを試みにに遭わせず
悪からお救いください。>』」
『聖書協会共同訳聖書』から

これはイエス・キリストの聖句(せいく:イエス・キリストの言葉)です。約2000年前にイエス・キリストは、「祈りの仕方」について弟子(使徒)に説いておられます。それは、まず、①祈りは偽善的な行為であってはならないということです。人前でいかにも「熱心に祈っています!」というような見せかけの行為は祈りではありませんね。誰にも見られないように祈る場所を考える(選ぶ)ことです。②祈るときは、くどくどと言葉を多くして祈らないこと。私たちが祈る前から、神様は祈る内容をすでにご存じなのですから。③『主の祈り』を祈ること。(<  >の部分)の3点が要点です。

『主の祈り』は、キリスト教において唯一最高・最強の一番重要なお祈りであり、いつどここでも祈ることのできるお祈りです。洗礼を受けて8年になりますが、今までに500冊を超えるキリスト教関係書籍(聖書はもとより神学書、カテキズム、聖書注解書、キリスト教史、聖人伝など)を読みまくりましたが、結局、重要なことは「聖書を読むこと」、「祈ること」と「善き行い」の3点と悟りました。この3点があれば、他に何をしなくても完璧な信仰となります。
特に“祈ること”は何よりも大切なことです。それは祈ることによって「人を救える」からです。はぁ?と不思議に思う方もいらっしゃると思いますが、正しく熱心に祈れば祈りは必ずや成就するのです。もちろん個人的な利益(賭け事とかお金儲けなど)は論外ですし、すべてが成就するわけではありませんが祈れば成就します。それもたくさんの人で祈れば願がかなう可能性は大きくなります。私も熱心にお祈りした結果、願いがかなったことがあります。その時は驚きと同時に感激したことを鮮明に覚えています。これはキリスト教初期の古代キリスト教時代から確かなことなのです。昔から幾人も祈りによって人を救ってきた聖人達は、常に祈りの大切さを説いておられます。祈りましょう
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