教会日記2019.11.15(カトリック成城教会「平日のミサ」金曜日) [教会日記]

今日も出勤前に小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城教会の7時からの平日のミサに与りました。今朝はまた一段と寒いですね〜でも清々しい朝を迎えています!

6時50分から「お告げの祈り」をお祈りし、7時からのミサでは、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
と気持ちを込めてお祈りしてきました。
また、行方不明となっている小学一年生の小倉美咲ちゃんが、元気な姿で両親の元に帰れるようにお祈りし、同僚の病が癒されますように、同僚のお嬢さんのケガが完治しますようにと心を込めてお祈りしました。
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新約聖書:ルカによる福音書・第14章・第15〜第24節〈盛大な宴会〉 [聖書]

「イエスと食事をともにしていた一人が、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は幸いです。」と言った。そこでイエスはその人に仰せになった。「ある人が盛大な宴会を催そうとし、大勢の人を招いておいた。宴会の時刻になったので、招いておいた人々のもとに僕を遣わして、『用意が調いましたから、おいでください』と言わせた。すると、彼らはみな口実をもうけて、次々と断った。
最初の人は言った。『畑を買いましたので、それを見に出かけなければなりません。どうか失礼させてください』。次の人は言った。『牛を5対飼いましたので、それを試しに行きます。どうか失礼させてください』。もう一人は言った。『妻を迎えたばかりですので、行くことができません』。そこで、僕は戻ってきて、これらのことを主人に告げた。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで、町の大通りや路地へ出て行って、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人を、ここに連れてきなさい』。僕が、『ご主人さま、ご命令どおりにしましたが、まだ席があります』と言うと、主人は僕に言った。『街道や通りに出ていき、無理にでも人々を連れてきて、家をいっぱいにしなさい。あなた方に言っておく。招かれた者で、わたしの宴会を楽しむ者は一人もいないであろう』」

まず、この聖句の言葉(単語)の解釈をしましょう。
①「盛大な宴会」とは、<神の国(天国)で永遠の命にあずかる>ことです。
②盛大な宴会が行われる「家」とは、<神の国(天国)>のことです。
③家の「主人」とは、<神様(イエス・キリスト)>のことです。
④「僕」とは、<過去からイスラエルに遣わされた預言者たち>のことです。
⑤「招かれた宴会を断った人」とは、<イスラエルの民(=ユダヤ人)で、いずれも裕福な特権階級的な人たち>のことです。
⑥「体の不自由な人たち」とは、<イスラエルの民(=ユダヤ人)でも貧しく虐げられている人たち>のことです。
⑦「街道や通りに出ていき、無理にでも人々を連れてきた人たち」とは、<ユダヤ人ではない異邦人(外国人)>のことです。

では、この聖句の説明をしましょう。まず、この聖句には「盛大な宴会」という題がついています。場面の設定は、この聖句の前の部分に「イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになった。」とありますから、「神の国で食事をする人は幸いです。」とイエス様に言ったのはファリサイ派の人ということになります。ファリサイ派についての詳細説明は次をご参照ください。
https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2019-11-04 そして、このたとえ話しは、旧約聖書の時代から、神様はたびたびイスラエルの民(=ユダヤ人)が罪深くなっているのを憐れみ、悔い改めるように何度も預言者を使わして人々を救おうとしてきましたが、悔い改めることなくそのたびに預言者を排斥したり殺したりして神様の憐れみを拒否してきたのでした。

この神様の憐れみを拒否しているイスラエルの民であるユダヤ人たちとは、「招かれた宴会を断った人」である裕福で特権階級的なファリサイ派のような人たちのことですね。この人たちは、神様から愛され救われると、まったく重大な勘違いをしているのです。ですから神様は、悔い改めない(=神様の憐れみや救いを拒否している)ファリサイ派のような人たちではなく、イスラエルの民(=ユダヤ人)でも「体の不自由な人たち」とたとえられる貧しく虐げられている人たちや異邦人(外国人)にまでも憐れみの目を向けて救いの手を差し伸べようとしているのですね。

聖句の最後にある「あなた方に言っておく。招かれた者で、わたしの宴会を楽しむ者は一人もいないであろう」とは、イスラエルの民(=ユダヤ人)で、いずれも裕福な特権階級的な人たちに向けた言葉です。そして、イエス・キリストは、彼らが神の招きを受けるかどうかをすべてご存知であり、なにもかも見通しておられたようです。ですから、このたとえ話しの結びとして厳しくおっしゃっているのですね。
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