キリスト者(クリスチャン) ブログトップ
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八木重吉のことば(詩)(第4日目) [キリスト者(クリスチャン)]

『神の道』
「自分が
この着物さえも脱いで
乞食のようになって
神の道にしたがわなくてもよいのか
かんがえの末は必ずここへくる」

無題
「わたしは
キリストをしんずる
しかしながら
わたし自らが
乞食のようになって
それでうれしい日がくるまでは
たからかにさけべない」

八木重吉のことは、「八木重吉のことば(第1日目)2024.4.13」をご覧下さい。
キリスト教のイエス・キリストの生涯において、イエス様は、特に貧しい人達、病にある人達、弱い立場の人達を側に招いて憐れみをかけられました。また、反対に富んでいる人達、身分の高い人達、特権階級にある人達には強い戒めと弱者への救済(施し)を求めました。
初めの詩には『神の道』という題がついています。2つ目は無題ですが、同じ主旨の詩ですね。詩にある「乞食のようになって」は、イエス様の行いのように、貧しい人間となって信仰の道にあるべきではないかと、八木の心の葛藤が見えてきます。しかし、八木は重い病に冒され、十分に貧しい生活を余儀なくされていたわけですから、私はイエス様に適う者であったと確信しています。
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八木重吉のことば(詩)(第3日目) [キリスト者(クリスチャン)]

「病気して
いろいろ自分の体が不安でたまらなくなると
どうしても恐ろしくて寝つかれない
しかししまいに
キリストが枕元にたって
じっと私をみていて下さるとおもうたので
やっと落ち付いて眠りについた」

八木重吉のことは、「八木重吉のことば(詩)(第1日目)2024.4.13」をご覧ください。
クリスチャンであった八木の作詩全体から見れば、キリスト教の信仰に関する詩はそれほど多くないと思っていたのですが、詩集を読んでいて、思っていたよりあるのには驚きました。結核で29才の生涯を終えた八木ですが、その短い生涯は、常に病床に伏しがちな生活を送っていました。
この詩は、病床での偽らざる心境を語っており、八木の信仰告白でもあると思います。いつも不安を抱えて死と対峙しているような生活の中にあって、キリスト教の信仰というよりも、イエス様に想いを馳せていますね。本当に八木は敬虔なクリスチャンでした。
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八木重吉のことば(詩)(第2日目) [キリスト者(クリスチャン)]

「病気すると
よくあんなに何も欲しくないんだろう
あれでもくらせるのだ
なぜふだんはいろいろ欲しいのだろう」

八木重吉のことは、「八木重吉のことば(詩)(第1日目)2024.4.13」をご覧ください。
ある方から聞いた話しですが、人は大病して死期が近づくと、すでに性欲はなくなっており、そして物欲がなくなり、やがて食欲もなくなるそうです。最後に残るのは知識欲だそうです。知りたいという思いは簡単にはなくならないそうです。病気で心が弱ると、不安になるものですから「治らないんじゃないか?」、「癌じゃないか?」、「このまま死ぬんじゃないか?」などと根拠のないことを考えたりします。小心者の私なんかは好例です。でも治って元気になると不安だったことを忘れるのですね。人間は都合のいい生き物なのです。まぁ、信仰の浅さが露呈するのですね。
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八木重吉のことば(詩)(第1日目) [キリスト者(クリスチャン)]

「この聖書(よいほん)のことばを
うちがわからみいりたいものだ
ひとつひとつのことばを
わたしのからだの手や足や
鼻や耳やそして眼のようにかんじたいものだ
ことばのうちがわへはいりこみたい。」

最近、八木重吉の詩集を読み始めました。過去に断片的に何度も読んでいましたが、2018年1月と2020年11月に集中的に読んでから、久しぶりに読むことになります。私が最も尊敬している詩人であり、愛読している詩集でもあります。このブログには過去に何度も掲載しています。八木重吉(1898年~1927年)は、詩人、英語科教師でキリスト教プロテスタント教会のクリスチャンです。私が住んでいる東京都町田市相原町(現在の「八木重吉記念館」がある辺り)で生まれ、師範学校の教員時代に教会に通い、キリスト教プロテスタントのクリスチャンになりました。清貧のクリスチャンです。

生前に刊行した詩集は1冊のみで、昭和初期に若くして亡くなりましたが、第二次世界大戦(太平洋戦争)後にクリスチャン詩人としての評価が高まりました。当時は不治の病であった結核を28才で発病し、29才という若すぎる歳で早世しました。“祈りの詩人”、“信仰の詩人”ともいわれ、短い生涯でしたが数多くの詩を残しています。皆さんは、きっと小学生か中学生の時に、国語の教科書で八木重吉氏の詩と出会ってますね。
この詩は、聖書のことをいっています。聖書に書かれている言葉は、イエス様の聖句ですから、その聖句と一体になってみたいとの想いですね。八木重吉は敬虔過ぎるほど敬虔なクリスチャンなのでした。
◯八木重吉の家族写真です。私が尊敬するクリスチャン詩人です。
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生家と家族のお墓は、私の自宅のある東京都町田市相原町にあり、現在の生家は「八木重吉記念館」として一般の皆さんに開館しており、貴重な資料を展示しています。八木重吉の詩は短い詩が多く、単純な分かりやすい言葉で純粋な抒情詩になっているのですが、どの詩も侘びしさがあり、そこに人間の儚い美しさがあると思うのです。読む人の胸に、何かキューと締め付けるような、何とも言えない儚さがあり、キリスト教の信仰による詩も数多くあります。詩集「秋の瞳」や「貧しき信徒」などが有名ですね。
『八木重吉全詩集1秋の瞳・詩稿1・2』
『八木重吉全詩集2貧しき信徒・詩稿3』
(株)筑摩書房:ちくま文庫(文庫版)・1988年第1刷発行
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◯「八木重吉記念館」
住所は、東京都町田市相原町4473番地です。詳細は、ホームページ:https://www.jukichi-yagi.org/
をご覧ください。
◯このブログに「八木重吉記念館のお話し」として、訪問記事を書いていますからお読みください。
https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2023-07-14
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三木露風のことば(詩) [キリスト者(クリスチャン)]

「夕焼小焼の、赤とんぼ
おわれて見たのは、いつの日か

山の畑の、桑 (くわ)の実を
小籠 (こかご) に摘んだは、まぼろしか

十五で姐 (ねえ) やは、嫁に行き
お里のたよりも、絶えはてた

夕焼小焼の、赤とんぼ
とまっているよ、竿 (さお) の先」

この記事は、このブログに過去に掲載した記事を再掲載しています。
童謡の『赤とんぼ』です。作詞した三木露風(みき ろふう:1889年~1964年)は、キリスト教カトリック教会のクリスチャンで童謡作家、歌人、随筆家です。本名は三木操(みき みさ)と言います。近代日本を代表する詩人・作詞家として、北原白秋と並び「白露時代」と称されました。若き日は日本における象徴派詩人でもありました。
兵庫県揖西郡龍野町(現在の「たつの市」)に父・三木節次郎、母・かたの長男として生まれ、5歳の時に両親が離婚し、祖父の元に引き取られて育てられました。小・中学生時代から詩や俳句・短歌を新聞や雑誌に寄稿、17歳で処女詩集を、20歳で代表作の『廃園』を出版するなど早熟の天才で、北原白秋と共に「白露」と注目されました。
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龍野中学校を中退して上京し、早稲田大学と慶應義塾大学で学んでいます。また、1916年から1924年まで北海道上磯町(現・北斗市)の「厳律シトー会トラピスト修道院」で日本文学講師を務めました。1922年にこの修道院で洗礼を受け、キリスト教カトリック教会のクリスチャンになりました。信仰に基づく詩集のほかに、随筆「修道院生活」や「日本カトリック教史」などを著し、ローマにあるバチカン市国の教皇庁から「キリスト教聖騎士」の称号を授与、1963年に紫綬褒章受章、1964年12月21日に交通事故で亡くなりました。

この詩は、童謡『赤とんぼ』の歌詞です。露風が作詞、山田耕筰が作曲した日本の名曲ですね。『赤とんぼ』 には、心の深いところで私たちを和ませ、心を震わせる何かがあると思います。露風が鈴木三重吉の「赤い鳥運動」に参加し、童謡を手掛けて1921年に童謡集『真珠島』を出版。この中にある『赤とんぼ』を山田耕筰が作曲して広く知られるようになりました。このブログに3回目の掲載になります。ちなみに、山田耕筰のお墓は、東京都あきる野市にある「西多摩霊園」にあります。

◯『赤とんぼ』の歌詞の説明
三木露風は、5歳の時に両親が離婚し、それ以降は母親とは生き別れで祖父に養育されることになりました。実際には、子守り奉公の姐や(ねえや)に育てられ、そのときの印象を歌にしたものです。
ですから、詩の第一節にある「おわれてみたのは」を漢字で書くと、「追われてみたのは」ではなく、「(背)負われて、見たのは」であり、姐やの背中におんぶされて肩越しに見た赤い夕焼けという意味なのですね。姐やは、数えの15歳で嫁に行ったと詞にあります。これは、当時の農家は極めて貧しかったものですから、口減らしもあっての子守り奉公をし、そして若くして嫁いでいったわけですが、嫁入り先でも農家の労働力として、働きづめの一生を送ったのではないかと思われます。また、「お里のたよりも絶えはてた」の意味は、お母さんは離婚して実家に帰るのですが、そのお母さんが5歳の息子を不憫に思い、実家の近くに住む娘を子守り奉公に出すように図り、彼はお母さんには会えないのですが、時々実家に帰る姐やを通してお母さんの消息を聞くことができ、お母さんも姐やを通して息子の消息を知ることができたのです。しかし、姐やが他家に嫁に行くことになって、もうお母さんの消息も途絶えてしまったという、とても悲しい詩(歌詞)となっています。

私の亡くなった母のことですが、2005年9月23日、入院していた母を病院に見舞い、気分転換ということで車椅子に母を乗せ、病院の玄関前の芝生の上で飛んでいる赤とんぼ見ながら、母と私、妻、娘の4人で歌った思い出の歌でもあります。その7日後に母は他界しました。74歳でした。私達の故郷に対する懐かしい気持ちを思い起こさせ、故郷を愛おしむ気持ちが自然と湧き起こります。胸がジーンとしてつい目頭が熱くなる思いになり、そしてそれは、年齢を重ねるごとに強くなる気がします。この歳になっても、この歌の意味を想いながら亡き母を慕って歌うと、必ず涙が出てきます。やはり日本人ですね。

【姐や(ねえや)】
年の若い女中や下女を親しんで呼んだ言葉です。
【口減らし(くちべらし)】
家計の負担を軽くするために、子どもを奉公に出したり養子にやったりして、養うべき家族の人数を減らすことです。
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森永太一のことば [キリスト者(クリスチャン)]

「景気不景気、人にあり。」

この記事は、このブログに過去に掲載した記事を再掲載しています。
森永太一郎(佐賀県伊万里市:1865年~1937年)は、キリスト教プロテスタント教会のクリスチャンで、日本の実業家、株式会社森永製菓の創業者(初代社長)です。19歳の時に、一流の商人になろうと野心に燃えて上京して陶器商に勤めましたが、やがて店が傾いたのを期に、日本の陶器を売って一儲けしようと渡米しますが夢を果たせず、流浪の身になってしまいました。

そんなある日のこと、借金もあるし、おめおめと帰国することもできないと悩んで公園のベンチに座っていると、60歳ぐらいの上品な顔立ちの婦人が彼の隣に座り、ハンドバックからキャンデーを取り出してその一つを彼に勧めてくれました。そのキャンデーを口に入れた森永は思わず「うまい!」と叫び、その瞬間に洋菓子職人になろうと決心したそうです。森永は、さっそく菓子づくりの見習いの仕事を探しますが、人種差別が酷く、日本人には下男の仕事ぐらいしか見つかりませんでした。下男をしながらアメリカ人の家を転々としながらチャンスを待っていたところ、ある時、オークランドの老夫妻の家に流れ着きましたが、その家の老夫妻は熱心なクリスチャンで、とても親切で日本人である森永を対等の人間として扱い、決して見下すことはなかったことに感激し、老夫婦の信仰するキリスト教に興味を持ち、オークランドの日本人教会で洗礼を受けたのでした。

帰国後、キリスト教の伝道師を目指しますが周囲の者に理解されず、再び製菓技術を学ぶために渡米し、激しい人種差別に耐えて遂に技術を取得し、開業費も貯めて帰国します。そして、赤坂の溜池に二坪の小屋を借りると「森永西洋菓子製造所」の看板を掲げ開業しました。マシュマロを作って菓子屋に卸すと、これが好評で飛ぶように売れ、この成功に勇気を得た森永は、宣伝販売をするためにガラス張りの屋台式箱車を作らせ、その中にチョコレート、キャンデー、ケーキを積んで町を歩きました。この屋台の屋根には「キリスト・イエス罪人を救わんために世に来たりたまえり。義は国を高くし罪は民をはずかしむ」という聖句を書いた看板が打ち付けられていたため、「ヤソの菓子屋さん」と呼ばれ有名になったそうです。

容器の上げ底をしない、品質本位、厳格な衛生管理など誠実な仕事ぶりも評判を呼びました。菓子と言えば和菓子が主流の時代でしたが、彼は不眠不休で営業努力、また商品改良に努め、小さな菓子屋さんが株式会社へと発展し、やがてミルク・キャラメルがヒット商品となって全国的に有名になったのです。社長の職を退いた後は、「我は罪人の頭なり」と題して、全国の諸教会で力強く伝道をして回ったそうです。
この言葉は、好景気だ不景気だのと状況に嘆いたり甘んじたりしていてはいけない。どんな逆境でも各人が精一杯努力すれば、必ずや克服出来るという戒めの言葉であると私は解釈しています。創業者ならではの言葉です。
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小泉信三のことば(第3日目) [キリスト者(クリスチャン)]

「人生において、万巻の書をよむより、優れた人物に一人でも多く会うほうがどれだけ勉強になるか。」

このブログに過去に掲載した記事を再掲載いたします。
小泉信三のことは、このブログの「小泉信三のことば(第1日目)2024.4.8」をご覧ください。
小泉氏は読書を奨励する方ですから、この言葉は読書を否定するものではなく、「読書はもちろんだけど、それよりも多くの優れた人に会って、その人の言葉を聴き、行動を観て学び自分に取り入れた方が、たくさんの読書をするよりも勉強になる。」と言うことですね。やはり優れているというか、立派だといわれる人との出会いは大切ですね。その人の話す言葉、行動といったものが周りに影響するのです……ということは、良くても悪くても自分の発言、行動も周りに影響を与えているということですね。お互い良い影響を与え合うような出会いでありたいものです。
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小泉信三のことば(第2日目) [キリスト者(クリスチャン)]

「スポーツが与える三つの宝
練習、フェアプレイの精神、友」

このブログに過去に掲載した記事を再掲載いたします。
小泉信三のことは、このブログの「小泉信三のことば(第1日目)2024.4.6」をご覧ください。
3つの宝の第一にきているのは「練習」です。そして「フェアプレイの精神」、最後に「友」とあります。どの言葉も序列を付けがたい大切なものがありますが、どうようなことにも共通するのは「練習」なのですね。でも、私の場合は、スポーツにおいて練習は当たり前ですから、宝としては「友」ですね。
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小泉信三のことば(第1日目) [キリスト者(クリスチャン)]

「練習ハ不可能ヲ可能ニス(練習は、不可能を可能にする)」

このブログに過去に掲載した記事を再掲載いたします。
小泉信三(こいずみ しんぞう:1888年~1966年)は、キリスト教日本聖公会(イングランド国教会由来の教派)のクリスチャンで、経済学者、上皇陛下(平成天皇)の皇太子時代の師父です。戦前の1933年から1946年まで慶應義塾長(慶応義塾大学)を務めました。1954年にコロンビア大学から人文学名誉博士号を贈与され、1959年には文化勲章を受章されています。

1943年10月16日開催の出陣学徒壮行早慶戦(通称「最後の早慶戦」)は、「学徒出陣に赴かざるを得ない学生らに、せめてもの最後の餞を残したい。それには早慶戦が相応しい。」との小泉信三の思いから始まったそうです。小泉は慶大野球部の部長・主将を通じ、早稲田大学野球部(飛田穂洲監督)に試合を頼み込みました。早稲田大学野球部はこれを快諾しましたが、早稲田大学側は軍部や文部省の圧力に屈して、試合の申し出を承諾出来ずにいました。

そのため、早稲田大学野球部は大学当局の反対を押し切って試合を挙行し、試合が行われた戸塚球場に招かれた小泉は、早稲田大学側による特別席への案内を「私は学生と一緒の方が楽しいです。」と断り、学生席で観戦したそうです。当時、敵国アメリカのスポーツであった野球に対する弾圧をただ一人体育審議会でその無意味さを説き、強烈な反対の論陣をもって軍部や官僚たちを沈黙させたのも小泉信三の功績です。1976年に野球殿堂入りしています。
◯慶應義塾大学日吉キャンパスにある小泉信三の「練習ハ不可能ヲ可能ニス」の碑です。
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後に、『ラストゲーム 最後の早慶戦』として、試合から65年にあたる2008年に映画化されました。(小泉信三役を石坂浩二が演じました。石坂浩二は、慶應中、慶應高、慶應大卒です。)この言葉は、慶応義塾大学日吉キャンパスにある碑に刻まれています。毅然とした言葉のようにも聞こえるのですが、私には、この言葉の奥底にある、氏の学生を " 叱咤激励 " するような情熱ある言葉に聞こえてきます。この世の中のすべてのことに当てはまる言葉ですね。
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濱尾実のことば [キリスト者(クリスチャン)]

「『清貧』とは、お金や時間がない、物がない、人が足りないということではなく、十分にお金や物や人が使える立場にあっても、あえて使わない。その精神。」

このブログに過去に掲載した記事を再掲載いたします。
濱尾 実(はまお みのる:1925年~2006年)は、キリスト教カトリック教会のクリスチャンで元東宮侍従、元東宮傅育官、教育評論家、皇室解説者です。東京大学工学部応用化学科を卒業、カトリック世田谷教会で受洗され、敬虔な信徒だったそうです。洗礼名は「セバスチアノ」です。浜尾 実の名前で多くの著書があります。
1951年(昭和26年)に東宮傅育官として皇太子明仁親王(現在の上皇陛下)に仕えました。その後、東宮侍従となってからは、浩宮徳仁親王(現在の天皇陛下)と礼宮文仁親王(現在の秋篠宮文仁親王・皇嗣)兄弟の幼少時代の教育に当たりました。浩宮様・礼宮様からは「オーちゃん」の愛称で慕われていたそうですよ。

1971年(昭和46年)に退官し、退官後に聖心女子学院中等科・高等科にて教職を勤め、定年退職後は、教育評論家として執筆活動・講演活動を行っていました。2006年に81歳で死去、カトリック麹町・イグナチオ教会において葬儀が行われました。
ちなみに、実弟の濱尾文郎(はまお ふみお:1930年~2007)は、カトリック教会の司祭で、一橋大学社会学部と東京カトリック神学院を卒業。上智大学大学院神学研究科修士課程を経て、ローマの教皇庁立ウルバノ大学とグレゴリアン大学に留学、1957年にローマで司祭に叙階され、ヨハネ・パウロ二世教皇から枢機卿(日本で5人目)に任命されています。

「清貧」とは、国語辞典には「無理に富を求めようとはせず、行いが清らかで貧しい生活に安んじていること。」とあります。「お金がない、物がない = 清貧」ではないのです。お金があっても、物があっても“無駄に使わない精神”が清貧なのですね。日頃の倹約、節制もそうですが、私が一番に自戒とするところです(⌒-⌒; )
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