教会日記2020.8.5(カトリック成城教会「平日のミサ」水曜日) [教会日記]

今日は、痛めている膝の治療で整形外科、少々アトピー性皮膚炎で皮膚科、他に整体院と整骨院に行くためΣ( ̄ロ ̄lll) 仕事はお休みをいただきました。その病院などへ行く前に、小田急線成城学園前駅で途中下車し、カトリック成城教会の7時からの平日のミサに与りました。今日も暑くなりそうですが、清々しい朝を迎えています!(^∇^)

ミサでは、ご聖体を拝領させていただいたことを主(神様)に感謝申し上げ、
「栄光の全能永遠の父よ、
御名(みな)が讃えられますように、
崇められますように、
アーメン
天におられる私達の父よ、
どうかこの祈りを聴き入れてください。
慈しみ深く憐れみ深い主よ、
主に救いを求める人々に主の平安をお与えください。
病に苦しむ人々に主の癒しをお与えください。
貧困にあえぐ人々に主の豊かな恵みをお与えください。
主よ、どうか主に救いを求める人々がすべて救われますように。
私達の主イエス・キリストによって。アーメン」
と気持ちを込めてお祈りし、共同祈願では、『新型コロナウイルス感染症に苦しむ世界のための祈り』をお祈りしました。
また、行方不明となっている小学2年生の小倉美咲ちゃんが、元気な姿で両親の元に帰れるようにお祈りし、同僚の病が癒されますように、同僚のお嬢さんの病気が完治しますようにと心を込めてお祈りしました。
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新約聖書:マタイによる福音書・第15章・第1〜第20節 [聖書]

「そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った。「なぜあなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」
イエスはお答えになった。「なぜ、あなた方は、自分たちの言い伝えのために、神の掟を破るのか。神は『父と母を敬え。父または母をののしる者は死刑に処せられる。』と仰せになった。しかし、あなた方は言っている。『父または母に向かって、<わたしの物であなたの役に立つ物はすべて、神への供え物です>と言う者は、父または母を敬わなくてもよい。』このように、あなた方は自分たちの言い伝えによって神の言葉を無にしている。

偽善者たち、イザヤは、あなたか方について、いみじくもこう預言した。
『この民は口先でわたしを畏れ敬うが、
その心は、わたしから遠く離れている。
わたしは礼拝しているが、それはむなしい。
彼らが教える教えは人間の戒めだからである』」

それから、イエスは群衆を呼び寄せて仰せになった。「聞いて悟りなさい。口に入るものが人を汚さすのではない。口から出るものが人を汚すのである」。その時、弟子たちがイエスに近寄って、「ファリサイ派の人々が、お言葉を聞いてつまずいたのをご存じですか」と言うと、イエスはお答えになった、「わたしの天の父がお植えにならなかったものは、みな抜き取られる。そのままにしておきなさい。彼らは盲人を導く盲人である。盲人が盲人を導けば、二人とも穴に落ちてしまう」。
ペトロが言った、「このたとえをわたしたちに説明してください」。イエスは仰せになった、「あなた方まで、まだ悟らないのか。口に入るものはみな腹に入り、厠に落ちることが分からないのか。しかし、口から出てるものは、心から出てくるもので、これが人を汚す。悪い考えや、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、冒涜は、心から出てくる。これこそが人を汚す。手を洗わずに食べることは人を汚さない。」
『原文校訂による口語訳 フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

【ファリサイ派】
ファリサイ派とは、ユダヤ教の指導者の一派で、律法を厳格に守り、細部に至るまで忠実に実行することによって神の正義の実現を追求していますが、その結果、形式主義に陥り、人間が作った掟を大切にして神の真の教えをないがしろにしている人達のことです。偽善者ですね。新約聖書に登場する律法学者や祭司長なども同類の人達です。

この聖書の部分は、ファリサイ派の人達がイエス様を陥れようとして、反対にやり込められている場面です。ファリサイ派の人達は、ユダヤ教の指導者ではあるものの、その教えは形式主義に陥っており、神様の教えをないがしろにしているため真の教えに盲目的になっている人達なのです。ですから、このような盲目的な人達の教えでは、聖書にあるとおり「盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」とイエス様はと説いておられるのですね。
また、食物を手を洗わずに食べたとしても、自分の口から入るものは他の人の心を汚すことはありません。しかし、自分の口から出る(発言する)ものは、その発言の内容なりが悪いと、他の人の心を汚してしまいます。心の中にある悪い考え、殺意、姦淫、不品行、盗み、偽証、罵りが、口から出て人の心を汚すことになるのです。ですから、人が清められるために必要なのは手を清めることでなく、心を清めることであるとイエス様は説いておられます。

この絵は、ピーテル・ブリューゲル(父)作の「盲人の寓話」です。1568年の作で、ナポリ・カポディモンテ国立美術館蔵です。ブリューゲルの作品は、聖書から題材をとってブリューゲルが生きた時代の風景と共に描いた絵が多いのですが、この絵も今日掲載した聖書の箇所から題材を得ています。先頭の盲人が盲人達を棒で引っ張って行くため、穴に落ちていきます。ブリューゲルは、長男と同名であるため、父の作品は「父」と書かれます。旧約聖書に出てくる「バベルの塔」を画いた絵は有名ですね。
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