「やもめの献金」のお話し [聖書]

今日は、新約聖書の2つの福音書にある「やもめの献金」のお話しです。フランシスコ教皇のご説教も掲載いたしました。

◯新約聖書:マルコによる福音書・第12章・第41~第44節
〈やもめの献金〉
「さて、イエスは献金箱に向かい合うように座って、人々がその中に金を投げ入れるのを見ておられた。大勢の金持ちたちがたくさん投げ入れていた。そこへ、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚を投げ入れた。それは一クァドランスにあたる。そこで、イエスは弟子たちを呼び寄せて、仰せになった、「あなた方によく言っておく。あの貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人の中で、誰よりも多く投げ入れた。ほかの人々は有り余る中から投げ入れているのに、あのまもめは乏しい中から、その持っているすべてを、生活費のすべてを投げ入れたからである。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳註聖書』から
◯新約聖書:ルカによる福音書・第21章・第1~4節
〈やもめの献金〉
「さて、イエスは目を上げて、金持ちたちが献金箱に献金を入れるのを見ておられた。すると、ある貧しいやもめが、レプトン銅貨を二枚入れるのを見て、仰せになった。「あなた方によく言っておく。この貧しいやもめは、ほかの誰よりも多く入れた。金持ちたちはみな、あり余る中から入れたが、彼女は乏しい中から、生活費のすべてを入れたからである。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳註聖書』から

◯フランシスコ教皇の説教
2015年11月8日、フランシスコ教皇は、サンピエトロ広場に集まった大勢の信者とともに、教皇公邸書斎の窓から「お告げの祈り」をささげました。次は祈りの前に教皇が述べられた「やもめの献金」の全訳です。
「親愛なる兄弟姉妹の皆さん、こんにちは。よいお天気ですね。
今日の福音朗読は二つの箇所から成り立っています。一つは、キリストに従う者がしてはいけないこと説明し、他方はキリスト者の模範を示しています。
最初の箇所から始めましょう。してはいけないことについてです。イエスは初めの箇所で、律法の教師である律法学者を非難しておられます。彼らの生き方には、高慢、強欲、偽善という三つの欠点があるからです。彼らは「長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを」望みます(マルコ12・38-39)。しかし、そうしたもったいぶった外見の下に、偽りと不正義を隠しています。
イエスが「やもめの家を食い物にし」(同40参照)と述べているように、彼らは人前で自分を誇示しながら、自らの権威を振りかざします。やもめとは、孤児や異邦人のようにもっとも弱く、もっとも守られていない人々であると考えられます。最後にイエスは、律法学者は「見せかけの長い祈りをする」(同40)と言っておられます。今日でも、わたしたちはこうした行いをする恐れがあります。例えば、祈りが正義からかけ離れているために、神を賛美せずに、貧しい人々に害を与えている場合や、神を愛していると言いながら、自分の利益を得るために神の偉大さをたたえる場合です。

福音の次の箇所も、同じ考え方に沿っています。エルサレムの神殿の中で、群衆が賽銭箱に金を入れている場面です。大勢の金持ちがたくさんの金を入れています。そこに一人の貧しいやもめがやってきて、銅貨2枚だけを献金します。イエスはこの女性を注意深く見つめ、状況が全く対照的であることに注目するよう弟子たちに呼びかけます。
裕福な人は、自分の行いを誇示しながら、有り余るものを献金しましたが、このやもめは、イエスが言われるように、「持っている物すべて、生活費を全部入れた」のです。(44)。したがって、彼女はすべてを差し出しました。彼女は非常に貧しいので、銅貨一枚を神殿に献金し、他の一枚を自分のために取っておくこともできたでしょう。しかし、彼女は神に半分だけ差し出すことを望みませんでした。自分の持っているすべてを自ら差し出しました。神とともにあることはすべてを持っていることと同じであることを、彼女はその貧しさのうちに知っていたのです。神によって完全に愛されていると感じたので、自分も神を完全に愛しました。この年老いた女性は何と美しい模範を示していることでしょう。
今日イエスは、基準は量ではなく完全さであることをわたしたちに示しています。量と完全さには違いがあります。多くの金銭を持っていても空虚であることはあります。心が満たされていません。今週は、量と完全さの違いについて考えましょう。それは財布の問題ではなく、心の問題です。財布と心の間には違いがあります。財布だけに心をうばわれるという心の病があります。それはよくないことです。「心から」神を愛することは、神と、神の摂理を信じ、見返りを求めずに、もっとも貧しい兄弟姉妹の中におられる神に仕えることなのです。

わたしが前にいた教区での出来事をお話しします。ある母親が三人の子どもたちと一緒に夕食を食べていました。父親は仕事のために留守でした。彼らはミラノ風カツレツを食べていました。誰かがドアをノックしたので、5才、6才、7才の子どもの内の一人が言いに来ます。「お母さん、貧しい人が何か食べるものを欲しがっているよ。」そこで、よいキリスト者である母親は、「どうしましょうか」と子どもらに尋ねます。「お母さん、あの人に何かあげようよ」「そうしましょう。」母親は、フォークとナイフをとって、カツレツを半分に切ります。「お母さん、そんなことしないでよ。冷蔵庫にある何かをあげようよ。」「いけません。これで三つのサンドイッチを作りましょう。」真の愛の行いは、残り物ではなく、自分が必要としている物を差し出すことであることを、子どもたちは学びました。その午後、子どもたちは少しお腹をすかせたでしょうが、これがあるべき姿なのです。
隣人が何かを必要としていたら、わたしたちは、この子どもたちと半分のカツレツの話のように、有り余ったものではなく、大切なものを差し出さなければなりません。有り余った時間ではなく、必要な時間を差し出すべきです。わたしたちは、自分の能力を、自分や自らの団体のために使った後ではなく、即座に無償で差し出すよう招かれています。
この貧しいやもめの学びやに受け入れてくださるよう、主に願い求めましょう。主はこのやもめを高い座につけ、生きた福音の師として示しておられます。ご自分の全生涯をわたしたちのために神にささげた貧しいかた、マリアのとりつぎによって、貧しくとも、喜びのうちに豊かで、惜しげなく無償で与えることのできる心を願い求めましょう。」

フランシスコ教皇は、ここで「イエスは、基準は量ではなく完全さであることをわたしたちに示しています。量と完全さには違いがあります。多くの金銭を持っていても空虚であることはあります。心が満たされていません。それは財布の問題ではなく、心の問題です。財布と心の間には違いがあります。財布だけに心をうばわれるという心の病があります。それはよくないことです。「心から」神を愛することは、神と、神の摂理を信じ、見返りを求めずに、もっとも貧しい兄弟姉妹の中におられる神に仕えることなのです。」と説いておられます。つまり、イエス・キリストは、たくさん捧げたから良い、少ないから駄目ということではなく、捧げるその人の姿勢・態度といった真心の行為の大切さを弟子たち(= 私たち信徒)に説いておられるのですね。
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