『十字を切る祈り』のお話し [祈り]

「父と子と聖霊の御名(みな)によって アーメン」

過去に、このブログに何回か掲載した記事を一部修正・加筆して再掲載しています。
キリスト教のカトリック教会には、「十字を切る」という行為があります。聖堂に入る時、ミサの初めに、お祈りの前に、祝福する時、食事の初める時と終わる時、寝る時と起きる時、家を出る時、仕事を始める時と終わる時、その他にもいろいろと十字を切る機会があります。自称<ビビリ(怖がり)>な私の場合は、暗い夜道を一人で歩く時、危険な感じがする時、とにかく怖い時は十字を切っています。なぜって?怖いからです( ̄▽ ̄;)

いつどこでも最初に唱えますので、一番簡単な『信仰宣言』だと言われています。それを私の場合は『十字を切る祈り』と称しています。ある意味「お祈りのためのお祈り」とも言うべきものです。私は朝の祈り、ロザリオの祈り、始業・終業の祈り、就寝前の祈りを含めて一日に20回以上は十字を切ります。毎日続けていると、意識せず自然と十字を切るようになるのですが、とにかく十字を切ると落ち着くこと間違いなしです(*^▽^*)

◯祈祷文は次のとおりです。
「父と
子と
聖霊(せいれい)の
御名(みな)によって
アーメン」

次にラテン語で表記します。
「In Nomine Patris,
et Filii,
et Spiritus
Sancti、
Amen.」

無謀なことと知りつつもカタカナで表記します。
「イン ノ-ミネ パトリス
エト フィーリイ
エト スピーリトゥース
サンクティ
アーメン」
以上のとおりです。

◯このお祈りの意味は、次のとおりです。
父とは、創造主であるイエス・キリストの父なる神様のことです。父なる神様は、私たち信徒の父でもあります。子とは、父なる神様の子であるイエス・キリストのことです。聖霊とは、父なる神様と子であるイエス・キリストから出る私達の救いとなる霊のことです。キリスト教の神様は、父なる神様と子であるイエス・キリストと聖霊の3つのペルソナ(位格)が一体となる『三位一体』の神様です。意味は、「父なる神様と子であるイエス・キリストと聖霊の尊い御名(みな)をもって神様の愛と一つになります。」となります。「アーメン」は、「そのとおりになりますように。」という意味ですね。

キリスト教の信徒は、古代キリスト教の初代教会時代から、『信仰宣言』で「十字架にかけられ、死んで、葬られ、黄泉(よみ)に降り、3日目に死者のうちから復活されたイエス・キリストを救い主(メシア)を信じます。」ということを信じてきました。この「信じています。」ということを表すため、また、十字架上ですべての人間の罪を背負って死んでいかれたイエス・キリストを十字を切る度に思い起こすために、<十字架のしるし>を行ってきました。このしるしは、このお祈りをする時に右手で十字を切りながら「父と子と聖霊の御名(みな)によって。アーメン」と唱えながら表現します。

この「父と、子と、聖霊のみ名によって。アーメン」は、キリスト教における最強、完璧かつ究極的なお祈りです。カトリック教会には多くのお祈りがありますが、キリスト教の「三位一体」の神を表し、その御名(みな)をもっての祈祷文ですから、これ以上のお祈りは最高である『主の祈り』を除いて他にはありません。闇の支配者サタンの勢力もこの祈りの言葉の前では勝てません。ちなみに、プロテスタント教会のほとんどの教派は十字を切りません。ですから、海外のサッカー、バスケットや野球などのスポーツで、十字を切っている選手を見かけたら、ほぼカトリック教会の信徒ということですね。

ちなみに、アイススケートで冬季オリンピック2大会連続金メダリストで超有名な羽生結弦選手は、演技をスタートさせる前に胸の前で十字を切っています。テレビで観ていて「あっ!羽生選手はクリスチャンなんだ~。十字を切るくらいだから私と同じカトリック教会のクリスチャンなんだ~。」と思いましたが、後でよく調べてみたら、羽生選手は身体の軸(中心線となる縦軸と横軸)を意識し、身体を保つため(おまじない?)で十字を切っているということが分かました。そういう意味での十字の切り方というか、使用方法もあったのですね。 ということで、クリスチャンではなかったのでした(⌒-⌒; )

◯それでは、実際にお祈りをします。順を追って見てみましょう。
このお祈りをする時は、
①「父と、子と、聖霊のみ名によって。アーメン」と祈祷文を唱えながら、
②右手で十字を切ります。
要領は次のとおりになります。
1.まず最初に左右両方の手のひらを胸の前で合わせて一礼します。この場合は、仏教のような左右の手のひらをピッタリと密着させるようなことではなく、両手の指先と手元はひっつけますが、手のひらはひっつけず、ふっくらとさせます。左右の親指は交差させます。右手の親指を上して✕印にします。

2.次に左手は、最初から手のひら(指)を真っ直ぐに伸ばして胸に当てます。下の図では、なぜか左手をお腹に当てていますが、一般的には胸に当てます。

3.右手の手のひら(指)を揃えて(指を伸ばし過ぎず)、手の一番先の人差し指と中指の先を “ 額の中央 ” に触れて「父と」と唱えます。

4.次に、その手をお腹の辺りに持っていき “ みぞおち ” 部分に触れて「子と」と唱えます。

5.次に、その手を左肩の辺りに持っていき “ 左肩の前面 ” に触れて「聖霊の」と唱えます。

6.次に、その手を右肩の辺りに持っていき “ 右肩の前面 ” に触れて「み名によって」と唱えます。

7.左右両方の手のひらを胸の前で合わせて「アーメン」と唱えます。
以上です。

◯上記の1~7の動作を次の絵を見ながら連続して行います。
十字を切る.png
この絵では、左上の絵から → 右 → 右 → 左下→ 右 → 右の順番です。十字を切る手順は、上(額) → 下(みぞおち) → 左(左肩前) → 右(右肩前) となります。ただし、キリスト教の正教会(ギリシャ正教会、ロシア正教会、日本正教会など)は、上 → 下 → 右 → 左となり、カトリック教会とは左右が逆になります。私がある神父様から聞いた話しでは、カトリック教会も元は正教会と同じ上 → 下 → 右 → 左だったそうです。

注意したいことは、十字を小さく早く切る人が案外といるのです。それがいかにも謙虚で控えめのような姿勢で、いかにもそれが美徳であるように受けとられているようですが、これはまったくの間違いですね。きちんと大きく(=正確に)ゆっくりと十字を切ることが大切です。前教皇の故ベネディクト16世は、神学生が小さく十字を切っているのを見て、正確にきちんと大きく十字を切るように厳しく指導されたとのことですよ。
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「祈りの効果・手を合わせる」お話し [祈り]

このブログに過去に何度か掲載しましたが、また再掲載いたします。
あるレストランで、チョコレート・パフェを食べていたら、お隣の席に座っていたお二人の会話が耳に入ってきました。年配の女性お二人でしたが、お話しの内容からすると心理学の学者?精神科医?臨床心理士?心理カウンセラー?のような心理学・精神科関係の専門家の方でした。学会の帰りのようでした………他人の話しを盗み聞きするようで気が引けましたが(; ̄O ̄)「祈り」という言葉が頻繁に出てきましたので、慌ててメモを取り始めました。

お話しの内容を整理・要約すると次のようになります。
①欧米の心理学研究では、宗教との関係の研究が進んでおり、信仰心のある人は孤独感に陥ることが少なく、心も安定するという研究結果が出ている。
②信仰心は幸福感を生み出すことだけでなく、身体の健康にも良い効果を及ぼすことがわかってきている。
③研究で、自然にガンが消えてしまう現象(自然寛解)を経験した人に、その理由についてアンケートを行った結果、「祈り」が68%、「瞑想と運動」が64%、「散歩」が52%、「音楽」が50%となっている。一番多いのが「祈り」。
④実際に「祈られている人」は、そうでない人(祈られていない人)より病状が良くなるという研究報告がある。
⑤手を合わせることによって、心身ともに健康になれるということが、世界的に研究され証明されてきている。
⑥ハーバード大学やコロンビア大学などでは、祈りの研究を精神神経免疫学の立場から解明が進んでいる。
⑦「科学的に説明のつかない、根拠のないことは受け入れられない」という人は多いが、説明はできなくても「結果」は次々と報告されており、祈りには効果があるのは間違いないといえる。
⑧神様がいようがいなかろうが、神様を信じようが信じまいが、願いごとが叶っても叶わなくても、手を合わせることで心も身体も健康になれるのだからやって損はないはず。手を合わせるだけで心が安定する。手を合わせること自体に意味がある。食事の前後、教会で、お寺で、神社で………自宅でも。

“祈り”の大切さ、その重要性及び効果等については、このブログでたくさん記事にしてきました。実際の祈祷文なども掲載してきました。私も経験していますが、祈りは案外と実現・成就するのです。皆さんには信じてもらえないかも知れませんが、本当に「これは奇跡か?」と思うことも度々あります。私だけではありません。でも、もちろんすべて叶う(かなう)わけではありません。

特筆すべきは上記の④です。「祈られている」こと。つまり自分以外の他人のために祈ることも効果があるのです!それも多く人が一人のために集中して祈ると効果も大きく成就しやすくなるようです。私も毎日朝夕に家族の守護と平安だけでなく、ある方の病気の治癒をお祈りしています。この祈りの効果を今は証明できませんが、必ずや治癒が実現・成就すると信じています。
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「祈りの大切さ」についてのお話し [祈り]

今日の記事は、過去に何度かこのブログに掲載しましたが、また再掲載いたします。
まず、新約聖書の4つの福音書から、「祈りの成就」についての聖句(イエス・キリストの言葉)を掲載いたします
◯マタイによる福音書:第21章・第22節
「あなた方が信じて祈るなら、求めるものはすべてかなえられる。」

◯マルコによる福音書:第11章・第23~第24節
「しかも心に疑わず、自分の言ったようになると信ずるなら、それは聞き入れられる。それ故、あなた方に言っておく。あなた方が祈り求めるものはすべて、かなえられるものと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」

◯ルカによる福音書:第11章・第9~第10節
「そこで、あなた方に言っておく。求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見出す。たたきなさい。そうすれば開かれる。誰でも求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれる。」

◯ヨハネによる福音書:第14章・第13~第14節
「そして、あなた方がわたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。わたしの名によって何かわたしに願うなら、わたしがかなえてあげよう。」
以上『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

ここに掲載した聖句の前半部分の「祈るならば」、「求めるものは」及び「願うことは」は、後半部分の「得られる(得られた)」、「そのとおりになる」、「与えられる」及び「かなえてあげよう(かなえられる)」となります。願うことも求めることも祈ることの範疇に入ると思いますが、結果はすべて成就するということになりますね。
祈りにおいて大切なことは、神を信じることです。願いがかなうと心の底から信じることです。とことん信じることです。そこには微塵も疑いや不安はないわけです。信じなければ祈りは成就しません。これが信じて熱心に祈り続けると成就するのです。大切なことは、
①信じて祈ること
②熱心に祈ること
③祈り続けること
④同じ内容なら多くの人と祈ること
信じられないかもしれませんが、必ずと言って良いほど願いは成就します。しかし、すべてが成就するわけではありません。もちろん成就しないこともあります。

私は、願い求める祈りが成就すれば、今度は “ 感謝の祈り ” を捧げます。願いの内容が成就しなかった場合、最初は祈りが十分ではなかったのか、祈りが足らない・祈りが弱いのかと思ったりするでしょうが、そうではなく、実は何らかの形で成就しているのです。それが、願ったことの反対・逆になることもあるでしょう。そうすると、私たち人間は「なんだ、神様はきき入れてくださらなかった」とか、「まったく違ったことになった!」とか、「祈らなければよかった!」などと思うものです。人間は弱いのですね。

そうではなく、「これは神様が何か意味をお与えになっている。」又は「これは神様が試練をお与えになった。」と素直に受けとめるべきです。この成就しなかった時こそ、これは神様のご意思だと受けとめるのです。私の経験では、よくよく後になって振り返ってみると、「あの時、お祈りしたことが後になって成就した。」又は「お祈りした内容ではなくてよかった。違ったことが成就してよかった。」ということが何度もありました。ですから、お祈りした結果がどうであろうと、感謝の祈りを捧げることが大切なのです。

祈り・黙想の中で、神様にありのままをすべて告白してさらけ出し………告白する前から神様はすべてをご存知ですが、「なぜお祈りがかなえられないのですか?」という問いも率直でいいのですが、それよりも、私の場合は「この試練に耐えさせてください。」というお願いをします。そのために「私に足らないものは何でしょうか。」………と続けていきます。黙想の中で、いかに神様と対話・お話しができるかですね。
初めは、神様は何も応えてくれません………と感じますが、それは、自分が聴こえないだけで、実は神様は常に語りかけているのです。その語りかける声が聴こえるまでになるは、何度も何度も黙想を続けるしかないですね。そうすると、やがてある日突然のように声を聴いたように感じます。この時、確実に涙が溢れ出ます。私は、きちんと黙想できるまで長い年月がかかりましたというか、まだまだかもしれません。
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信徒ではない方には、まったく奇妙な話しにしか思えないでしょう。でも、これが神様を信じる信仰だと思います。それが宗教なのですね。聖書の聖句を心に刻み、深くより深く黙想をしていかなければなりません。ですから、時間がない忙しい時には黙想は不向きというか、黙想はできないですね。一日の中で、一番適当な時間は寝る直前です。心静かにして気持ちを落ち着けることが大切です。それと、部屋の環境も大切です。音は禁物ですし、明かりも少し暗いくらいがいいてすね。私はローソクの灯火だけにしています。その日の感謝のお祈りをしてから、願うお祈りに入っていき、聖書の聖句を黙想していきます。
必ずや成就することを信じて。
祈りましょう 。
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「フランシスコ教皇のお祈りカード」のご紹介 [祈り]

とても上質な紙に、美しい図柄とフランシスコ教皇のお祈りの祈祷文が印刷されているカードです。このカードは、フランシスコ教皇が2019年11月に来日された際に行われたミサで参加者全員に配布され、その後、全国のカトリック教会で配布されたものです。
◯祈祷文は次のとおりです。
「おお、主よ、
すべてのいのちを守るため、
よりよい未来をひらくため、
あなたの力と光で
わたしたちをとらえてください。」
◯記念に額に入れて飾っています。彩飾がとってもキレイですね!絵画用品・額装専門店の世界堂でマット加工してもらいました。
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『友のための祈り』 [祈り]

今日は、友情のお祈り『友のための祈り』をご紹介たいします。いつも気にかけて助けてくれる親友のために祈りましょう!

「神よ、私は心から友のために祈ります。
私が友と語りあい、
好意をもって助けあい、
お互いに尊敬しあうことができるよに導いてください。
キリストよ、私の友の上に慈しみの目を注いでください。
あなたをとおして、
私達が真の友情を持ち続けることができますように
支えてください。」
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臨終に際しての祈り [祈り]

今日は、「臨終」に際してのお祈りについてお話しいたします。
その前に、まず、このブログの2018年10月12日に、映画『ザ・ライト エクソシストの真実』をご紹介しました。詳しくは、ご紹介した記事をお読み下さい。
https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2018-10-12
この映画は、分類上はどうしても「ホラー映画」となってしまいますが、映画の内容は実際に起こった事実を基に制作されています。ですから、昔に有名になったフィクション映画の『エクソシスト』のような、少女の首が360度回転したり、口からは緑色の汚物が吐き出されたり、少女の体がベッドから浮きあがったり、スパイダー・ウォークで階段を駆け下りたり………しませんのでご安心ください。でも怖いです( ̄◇ ̄;)

今日は、この映画『ザ・ライト エクソシストの真実』の中で印象的なシーンがありましたのでご紹介いたします。それは、臨終に際してのお祈りの祈祷文のことです。映画のシーンは、雨が降る夜の出来事で、自転車に乗った子どもが交通事故に遭い、命の灯火が消えようとする場面でのことです。丁度、この事故を間近で目撃した神学生(司祭になるため、神学校で勉強をしている学生)が、雨の降りしきる中、事故の起きた道路上で子どもの臨終に立ち会い、臨終のお祈りを捧げるというものです。

神学生は、意識がしだいに遠のく子どもに、次のように臨終のお祈りを捧げます。
「主イエス・キリストにより、
聖霊の炎よここに来たれよ。
この者の魂を永遠の地において再び目覚めさせ、
聖霊の力でその魂を満たしたまえ。
主なるイエス・キリストよ
受け取りたまえ◯◯◯◯(子どもの名前)を
あなたの腕の中に。
主イエス・キリストの限りなき慈悲により
この者を安らかに去らせたまえ。
この十字架(指先で子どもの額に十字を切る)をもって
汝は、主イエス・キリストの恩寵を受ける 。
これによって、この世界で犯したすべての過ちの罪は赦された。
父と子と聖霊のみ名によって
アーメン」

この祈祷文は、子どもに「罪の赦し」を与えていますから、司祭(神父)用の祈祷文ですが、もしも、実際にこのような場面に遭遇した時、私たち信徒は適切なお祈りを捧げることができるでしょうか。やはり、普段からいろいろなお祈りをしていないと難しいですね。ミサに与ることはもちろんのこと、毎日の朝夕のお祈りに加えて、あらゆる機会にお祈りを捧げる習慣を身につけないと、とっさにお祈りを捧げることはできません。自分のためではなく、祈りを必要としている人のために、いつでもお祈りできるようにしたいものですね。
そして、男子跣足カルメル修道会のカルメロ神父様が編集し、サンパウロから出版されている『カトリック祈祷書 祈りの友』に掲載されている「臨終の枕辺にあって」というお祈りの祈祷文をご紹介いたします。「祈りの友」の<病者のための秘跡と祈り>の章にあります。この祈祷文は、あまりお祈りしたくないかもしれませんが、いつか、このお祈りを必要とする時がくるかもしれません。皆さん、心してお祈りしましょう!

「神よ、わたしたちの兄弟(姉妹)◯◯◯◯(名前)さんは、
この世の生涯を終えて、
いま、みもとに召されようとしています。
あなたはすべてを見、すべてを知っておられます。
かれが、人のために流した汗のしとしずくをも、
あなたは見逃しにはなりません。
かれが、人のために運んだ足の歩みを、
あなたはすべて数えておられます。
かれが、不幸な人を思って流した涙を、
あなたは覚えておられます。
あなたは、
かれが人のために果たした愛の行いのひとつひとつを、
ご自分になされた行いとして、受け取ってくださいました。
慈しみ深い主よ、
かれが、人間の弱さのために犯した数々の罪を、
ひとり子のあがないのゆえに、すべてゆるし、
かれが果たした愛の行いの数々を御ひとり子の愛のゆえに、
永遠の命をもって報いてください。
いま、あなたのみ前に立とうとする◯◯◯◯(名前)さんに、
裁く者としてではなく、
優しい父としてのみ顔を見せてください。
わたしたちの兄弟◯◯◯◯(名前)さんは、
あなたの愛にすべてを委ねて、み前に立とうとしています。
かれが、生前、常に期待していたおことば、
「祝されたものよ、
来て、世の始めからあなたがたのために準備されていた国を受けよ」
(新約聖書:マタイによる福音書・第25章・第34節)」
というおことばを聞いて、
限りなく終わりないよろこびに満たされますように。
私たちの主イエス・キリストによって、
アーメン」
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聖マーザー・テレサの祈り(第4日目) [祈り]

「仕事の最中でも、祈ることはできます。
仕事は祈りを妨げないし、
祈りもまた、仕事を妨げることはないのです。
ただほんの少しだけ心を神に向けるだけで良いのです。
愛しています、
お任せしています、
信じています、
神よ、私は今あなたが必要です。
こんな感じでいいのです。
これは素晴らしい祈りです。」

聖マザー・テレサのことは、このブログの2023年5月23日に掲載した「聖マザー・テレサの祈り(第1日目)」をご覧ください。
お祈りは、いわば神様との通信です。したがって場所や時間を選びません。もっとも大切なことは、このお祈りにある「愛しています、お任せしています、信じています、神よ、私は今あなたが必要です。」という神様に寄り頼む神様への姿勢と対話です。神様を見ることはできず、神様が応えてくださる声は聞こえませんが、きっと神様は応えてくださいます。それを心の底から信じて祈るのが信仰であると確信しています。神は私たちのそばにおられます。
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聖マザー・テレサの祈り(第3日目) [祈り]

「主よ、わたしは信じきっていました。
わたしの心が愛にみなぎっていると。
でも、胸に手を当ててみて
本音に気づかされました。
わたしが愛していたのは他人ではなく
他人の中の自分であった事実に。
主よ、わたしが自分自身から解放されますように。

主よ、わたしは思いこんでいました。
わたしは与えるべきことは何でも与えていたと。
でも、胸に手を当ててみて
真実がわかったのです。
わたしのほうこそ与えられていたのだと。
主よ、わたしが自分自身から解放されますように。」

聖マザー・テレサのことは、このブログの2023年5月23日に掲載した「聖マザー・テレサの祈り(第1日目)」をご覧ください。
この祈りには『自己からの解放』という題がついています。この祈りの言葉の謙遜さに頭が下がります。相手・他人のためにとやっている行為だと思っていたら、実は自分自身のためだったということです。それでは「自己満足でしょ!」というになりますね。人間というものは、あくまでも謙虚でなければなりません。よく考えない行為は、まったくのお節介焼きだけになってしまいます(⌒-⌒; ) 私の自戒とするところです。
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聖マザー・テレサの祈り(第2日目) [祈り]

「主よ、私が空腹を覚えるとき、
パンを分ける相手に出会わせてください。
のどが渇くとき、
飲み物を分ける相手に出会えますように。
寒さを感じるとき、
暖めてあげる相手に出会わせてください。

不愉快になるとき、
喜ばせる相手に出会えますように。
私の十字架が重く感じられるとき、
だれかの重荷を背負ってあげられますように。
貧しくなるとき、
貧しい人に出会わせてください。

ひまがなくなるとき、
時間を割いてあげる相手に出会えますように。
私が屈辱を味わうとき、
だれかを褒めてあげられますように。
気が滅入るとき、
だれかを力づけてあげられますように。

理解してもらいたいとき、
理解してあげる相手に出会えますように。
かまってもらいたいとき、
かまってあげる相手に出会わせてください。
私が自分のことしか頭にないとき、
私の関心が他人にも向きますように。

空腹と貧困の中に生き、
そして死んでいく世の兄弟姉妹に
奉仕するに値する者となれますように。
主よ、私をお助けください。
主よ、私たちの手をとおして
日ごとのパンを今日彼らにお与えください。
私たちの思いやりをとおして
主よ、彼らに平和と喜びを与えください。」

聖マザー・テレサのことは、このブログの2023年5月23日に掲載した「聖マザー・テレサの祈り(第1日目)」をご覧ください。
この祈りには『自分より他人を』という題がついています。この祈りに説明はいりませんね。祈りの祈祷文のとおりです。私が参加している「山谷夜回りの会」のホームレス支援活動に携わる人の指針・心構えとなるお祈りの祈祷文です。あくまでも謙虚であり、強い信仰心が感じられる祈祷文です。
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聖マザー・テレサの祈り(第1日目) [祈り]

「イエスよ、私をお救いください
愛されたいという欲望から
ほめられたいという欲望から
名誉を得たいという欲望から
称賛されたいという欲望から
人よりも好かれたいという欲望から
相談されたいという欲望から
よく思われたいという欲望から
人気を得たいという欲望から

屈辱を受けるという恐れから
軽蔑されるという恐れから
非難されるという恐れから
中傷されるという恐れから
忘れ去られるという恐れから
ひどい扱いを受けるという恐れから
嘲笑されるという恐れから
疑われるという恐れから」

マザー・テレサ(マケドニア:1910年~1997年)は、キリスト教カトリックの修道女で、修道会「神の愛の宣教者会」の創立者です。本名は、アルーマニア語でアグネサ/アンティゴナ・ゴンジャ・ボヤジといいます。神の使徒です。「マザー」は指導的な修道女への敬称であり、「テレサ」は修道名ですね。インドのカルカッタで始めたマザー・テレサの貧しい人々のための活動は、後進の修道女らによって全世界に広められ、今も多くの貧困者などを救済しています。

生前からその活動は高く評価されており、1973年のテンプルトン賞、1979年のノーベル平和賞、1980年のバーラ・ラトナ賞(インド国民に与えられる最高賞)、1983年にエリザベス2世から優秀修道会賞など多くの賞を受けました。1996年にはアメリカ名誉市民に選ばれています。(アメリカ名誉市民はわずか10人ほどだそうです)。2003年には、当時の教皇ヨハネ・パウロ2世によって列福され、2019年9月4日に教皇フランシスコによって聖人に列せられました。

この祈りの前半は、「欲望からの救いの祈り」で、後半は「恐れからの救いの祈り」となっています。欲望からの救いは、その欲望を自分ではなく、人に与えることへ変える祈りへ、恐れからの救いは、その恐れを勇気に変える祈りへということですね。欲望は、凡人である私が自戒としていた言葉です。過去形ですね。そうです!洗礼を受けえキリスト者として生きていくうちに、このような欲望は徐々に消え去っていくことを実感するようになりました。これが祈りの力です。
どこまでも常に謙虚で、勇気をもって何事にも取り組み、人に愛を与え続けたマザー・テレサらしいお祈りの言葉ですね。
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