新約聖書:ルカによる福音書・第14章・第15〜第24節 [聖書]

「イエスと食事をともにしていた一人が、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は幸いです。」と言った。
そこでイエスはその人に仰せになった。「ある人が盛大な宴会を催そうとし、大勢の人を招いておいた。宴会の時刻になったので、招いておいた人々のもとに僕を遣わして、『用意が調いましたから、おいでください』と言わせた。すると、彼らはみな口実をもうけて、次々と断った。
最初の人は言った。『畑を買いましたので、それを見に出かけなければなりません。どうか失礼させてください』。次の人は言った。『牛を五対飼いましたので、それを試しに行きます。どうか失礼させてください』。もう一人は言った。『妻を迎えたばかりですので、行くことができません』。
そこで、僕は戻ってきて、これらのことを主人に告げた。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで、町の大通りや路地へ出て行って、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人を、ここに連れてきなさい』。僕が、『ご主人さま、ご命令どおりにしましたが、まだ席があります』と言うと、主人は僕に言った。『街道や通りに出ていき、無理にでも人々を連れてきて、家をいっぱいにしなさい。あなた方に言っておく。招かれた者で、わたしの宴会を楽しむ者は一人もいないであろう』」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

まず、この聖句(イエス・キリストの言葉)の説明をしましょう。
①「盛大な宴会」とは、神の国(=天国)で永遠の命にあずかることです。
②盛大な宴会が行われる「家」とは、神の国(=天国)のことです。
③家の「主人」とは、神様のことです。
④「僕」とは、過去からイスラエルに遣わされた預言者たちのことです。
⑤「招かれた宴会を断った人」とは、イスラエルの民(=ユダヤ人)で、いずれも裕福で特権階級的なファリサイ派や律法学者のような人たちのことです。
⑥「体の不自由な人たち」とは、イスラエルの民(=ユダヤ人)でも貧しく虐げられている人たちのことです。
⑦「街道や通りに出ていき、無理にでも人々を連れてきた人たち」とは、ユダヤ人ではない異邦人(外国人)のことです。

では、このお話しの説明をしましょう。まず、この聖句には「盛大な宴会」という題がついています。場面の設定は、この聖句の前段の部分に「イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになった。」とありますから、「神の国で食事をする人は幸いです。」とイエス・キリストに言ったのはファリサイ派や律法学者の人ということになります。ファリサイ派についての詳細説明は次をご参照ください。
https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2019-11-04
そして、このたとえ話しは、旧約聖書の時代から、神様はたびたびイスラエルの民(=ユダヤ人)が罪深くなっているのを憐れみ、悔い改めるように何度も預言者を使わして人々を救おうとしてきましたが、悔い改めることなく、そのたびに預言者を迫害したり殺したりし、神様の憐れみ(救い)を拒否してきたのでした。

この神様の憐れみを拒否しているイスラエルの民であるユダヤ人たちとは、「招かれた宴会を断った人」である裕福で特権階級的なファリサイ派のような人たちのことですね。この人たちは、神様から愛され救われると、まったく致命的な間違いをしているのです。ですから神様は、悔い改めない(=神様の憐れみや救いを拒否している)ファリサイ派のような人たちではなく、イスラエルの民(=ユダヤ人)でも「体の不自由な人たち」とたとえられる貧しく虐げられている人たちや異邦人(外国人)にまでも憐れみの目を向けて救いの手を差し伸べようとしているのです。

聖句の最後にある「あなた方に言っておく。招かれた者で、わたしの宴会を楽しむ者は一人もいないであろう」とは、イスラエルの民(=ユダヤ人)で、いずれも裕福な特権階級的なファリサイ派や律法学者のような人たちに向けた言葉です。そして、イエス・キリストは、彼らが神の招きを受けるかどうかをすべてご存知であり、なにもかも見通しておられるのです。ですから、このたとえ話しの結びとして、救いようのない人たちであると厳しくおっしゃっているのですね。
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