新約聖書:ヨハネによる福音書・第20章・第23節 [聖書]

「誰の罪であれ、あなた方が赦せば、その罪は赦され、
あなた方が赦さないなら、赦されないまま残る。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

この聖句(イエス・キリストの言葉)は、罪の赦しについて、イエス・キリストが使徒(弟子)たちに語ったものです。使徒たちが赦せば、その罪は赦され、使徒たちが赦さなければ、その罪は赦されないという非常に重い務めが語られています。すべては使徒たちの「赦し」の判断にかかっているのです。
しかし、罪びとを赦すという「赦しの権能(けんのう)」は、本来はイエス・キリストだけのものでした。それが、聖書に書かれているように確かに使徒たちに与えられたのです。しかし、実は使徒たち各々個人だけというわけではありません。むしろ洗礼を受けた私たち信徒にも与えられているのです。
そうなると、私たち信徒にもこの重い責務があるということになりますね………ということは、「私たちが赦せば、その罪が赦される。私たちが赦さなければ、その罪は赦されないまま残る。」ということになります。これは私たちに良心があればこそですが、その人に悪意があると大変なことになります。

キリスト教は、「隣人への愛」と「人への赦し」を実践する宗教と言っても過言ではないと思います。新約聖書のマタイによる福音書・第18章・第21~第22節で、イエス・キリストは、信徒たちの「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。(「兄弟」とあるのは、自分に関係する隣人たちのことです。)」と説いています。7の70倍ですから490回赦しなさいということではなく、とことん赦しなさい、際限なく無限に赦しなさいと説いているのですね。

人間にとって罪の問題というのは、とても重要な問題です。罪を犯した人間は、罪からどのようにして解放される(赦される)のか?ということですね。それはとても切実な問題でもあるのです。誰かがその人の犯した罪を赦さなければ、その人は一生罪を背負って生きていかなければなりません。ですから、イエス・キリストは、罪を犯した人に心の底から真実に回心する(悔い改める)機会を与え、回心して洗礼を受ければ罪は赦されると説いているのです。洗礼を受けてキリスト教の信徒(クリスチャン)にならなくても、誰でも自分の過ちにいつか赦してもらいたいと思う時が必ずきます。その時に赦してもらいたいのであれば、自分も人を赦すべきなのです。それが平和な世の中を築く第一歩となるのですね。心に憎しみや恨みがあっては、決して平和な世の中は訪れることはありません。
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