「親指のマリア(親指の聖母)」のお話し [キリスト教と美術]

今日は、「親指のマリア(親指の聖母)」のお話しです。読売新聞の2月28日(日)の日曜版に「聖母像(親指のマリア)」の記事が掲載されていましたのでご紹介いたします。その前に、まずはこの絵を携えて宣教のために日本に侵入し、長崎奉行所に捕縛されたイタリアの司祭シドッチ神父をご紹介いたします。

ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッチ(シドッティ)(イタリア:1668年〜1714年)は、イタリア人のカトリック教会の司祭です。江戸時代中期に日本へ潜入して捕らえられ、その死まで江戸で幽閉されました。その時の幕政の実力者である新井白石は、シドッチとの対話をもとに『西洋紀聞』などを著しています。このお話しは社会科(日本史)の授業で習いましたからご存じですよね( ̄▽ ̄;)
長崎奉行所に捕らえられた後、江戸にあった小石川の「切支丹屋敷」に収容され、宣教をしてはならないという条件で、拷問を受けないことはもちろん、囚人としての扱いを受けることもなく、二十両五人扶持という破格の待遇で軟禁されました。屋敷では、シドッチの監視役で身の回りの世話係であったのは長助・はるという老夫婦でした。彼らは切支丹の親を持ち、親が処刑されたため、子供のころから切支丹屋敷で働いて過ごしていたのでした。しかし、ある日、2人は木の十字架をつけていることを役人により発見され、シドッチに感化され洗礼を受けたと告白したため、シドッチは2名とともに屋敷内の地下牢に移され、その10ヶ月後の1714年(正徳4年)10月21日に46歳で衰弱死し、カトリック教会の司祭としては、日本における最後の殉教者となりました。

写真は読売新聞の2月28日(日)の日曜版にあった「聖母像(親指のマリア)」の記事です。
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次の写真は、シドッチの所持品であったカルロ・ドルチ作といわれる聖母の絵です。濃紺のマントから親指が覗いていますので、通称「親指のマリア(親指の聖母)」と呼ばれています。ドルチの作かの確証はありませんが、明らかにドルチの作風と認められます。現在は東京国立博物館に所蔵され、重要文化財に指定されています。これは、シドッチが捉えられて長崎奉行所で尋問を受けた時に没収され、長崎奉行所できちんと保管されていたからこそ残ったのですね。
このブログの2019年7月18日に「悲しみの聖母のお話し」として、国立西洋美術館に所蔵されている正真正銘のカルロ・ドルチの作品「悲しみの聖母」を掲載していますのでご覧ください。とっても「親指のマリア(親指の聖母)」とよく似ています!https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2019-07-18
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次の写真は、カトリック碑文谷教会(通称「サレジオ教会」)の大聖堂祭壇正面右側にある小祭壇上に掲げられた「親指のマリア」のレプリカ(円内中央にある小さな額絵)です。碑文谷教会は「江戸のサンタマリア」に捧げられた教会です。それは、シドッチ神父が、イタリアから持ってこられた「親指のマリア」をその聖母に因んで「江戸のサンタマリア」に捧げられることになったからだそうです。
碑文谷教会は通称「サレジオ教会」と呼ばれているように、カトリック東京大司教区から修道会のサレジオ会に委託された教会です。サレジオ会は19世紀にイタリアの司祭であった聖ヨハネ・ボスコによって設立されました。東京都では調布教会や下井草教会なども同じくサレジオ教会です。
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ちなみに、7年前の2014年に切支丹屋敷跡地を調査のため発掘したところ、3体の人骨が発掘されました。国立科学博物館などの調査によって、1体はシドッチ、残りの2体の人骨は、1人は日本人、もう1人はDNAが残っていなかったため、分析不能という結果が2016年4月に公表されました。国立科学博物館では、発掘された遺骨をもとにシドッチの頭部の復元像(写真)を制作し、2016年11月8日に公開されました。
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