キリスト教と読書 ブログトップ
前の10件 | 次の10件

「イエズス会 聖三木図書館」のご紹介 [キリスト教と読書]

今日は、四ツ谷のカトリック麹町・聖イグナチオ教会と同じ敷地内にある修道会のイエズス会が管轄する「イエズス会 聖三木図書館」をご紹介いたします。知らない方が多いのですが、聖三木図書館は、日本では珍しいキリスト教書専門の図書館です。特にカトリック教会関係の蔵書は国内一を誇っています。
約3年ほど前までは、土曜日や日曜日、お盆休みや年末年始などの長期休暇によく勉強しに来ていました。町田市にある自宅からは遠いのですが、この図書館は席数は少ないものの、そんなに混むこともなくとても静かですので、集中して勉強するには最適な図書館だと思います。皆様に是非お勧めいたします。

ただ本を閲覧するだけでしたらいいのですが、本を借りる場合は聖三木図書館利用登録の手続きが必要となります。登録すると「聖三木図書館利用カード」が発行され、発行日から1年間有効で本を1回につき5冊まで3週間借りることができます。一般会員は年会費2.000円です。
5A63BB2C-9F9C-41C9-8486-BFB1A1D27FC5.jpeg
また、同じ敷地というか隣にカトリック麹町・聖イグナチオ教会がありますから、勉強の途中にミサに与ることもできます。聖イグナチオ教会の平日のミサは、7時、12時及び18時の3回あります。予め聖イグナチオ教会のホームページでご確認ください。私は、ミサにも与り、勉強の合間にも静寂な聖堂で一人心静かにお祈りしていました。

住所などは、次のとおりです。
〒102-0083 東京都千代田区麴町6-5-1 岐部ホール2F
TEL 03-3262-0364 電話受付:11:30~17:00
開館時間:11時30分〜17時
休館日:祝日と毎週木曜日(その他、夏期休館など)
図書館を訪れる場合は、必ず「イエズス会聖三木図書館」のホームページをご確認してからにしてください。なお、図書の貸し出し、会員登録などの詳細についてもホームページをご覧ください。
http://www.jesuits.or.jp/~j_seimikibun/index.html
nice!(0)  コメント(0) 

『明治の東海道を歩いた宣教師 テストヴィド神父書簡集』のご紹介! [キリスト教と読書]

今日は、『明治の東海道を歩いた宣教師 テストヴィド神父書簡集』のご紹介です。このブログに過去に掲載した記事を再掲載いたします。
江戸時代から続いたキリシタン禁令の高札が撤去された1873年(明治6年)、長崎の大浦天主堂にいた“信徒発見”で有名になったプティジャン司教(神父様)は、すぐにパリ外国宣教会の香港事務所の責任者であったオズーフ神父様に、「すぐに司祭15名と資金を送ってほしい!」と電報を打ちました。この要望に応えて送られた司祭たちの1人がテストヴィド神父でした。彼は高札が撤去された同じ年の6月に司祭叙階を受け、7月に船で出発して8月に横浜に着きました。
テストヴィド.jpg
この本は、日本の再宣教の年からの歴史的事実を踏まえ、テストヴィド神父様の残された18通の紙をもとに書かれています。明治時代のパリ外国宣教師達には乗り物などはなく、歩いての宣教活動でした。テトヴィド神父様も神奈川県全域を歩きまわり、キリストの福音を述べ伝え、洗礼を授け、教会を設立し、次いで、静岡、愛知、岐阜などの東海道を巡りながら宣教し、洗礼を授けていました。特に第5章は、テストヴィド神父様が箱根を巡回中、1人のハンセン病にかかった女性と出会ったことをきっかけに、神山復生病院の設立にまで及び、日本のハンセン病患者の最初の病院を建てることになりました。当時のハンセン病患者が、いかに悲惨な環境で生活していたかを知る貴重な書簡だと思います。神山復生病院の詳細は、このブログの2021年8月21日に掲載した「神山復生病院聖堂・カトリック墓地訪問のお話し」に書きましたので、是非お読み下さい。
https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2021-08-21-1
また、「第3書簡」では、テトヴィド神父様が横浜から私が住む町田市を訪れ、当時の町田市上小山田村・下小山田村辺りを通って八王子に達し、現在のカトリック八王子教会の礎を築いたことが分かります。

目次は次のとおりです。第1章 日本再宣教の黎明
1 パリ外国宣教会
2 再宣教までの道程
3 横浜天主堂と大浦天主堂
4 キリシタン禁令高札の撤去

第2章 テストヴィド神父、横浜へ
(1849~1877)
1 テストヴィド神父の誕生
2 日本への旅――第1書簡
3 横須賀から横浜へ――第2書簡
4 横浜から八王子へ――第3書簡

第3章 歩く宣教師――神奈川県全域
(1878~1880)
1 外国人の国内旅行と宣教師
2 小田原へ――第4書簡・第5書簡
3 砂川へ――第6書簡・第7書簡

第4章 歩く宣教師――東海道
(1881~1885)
1 静岡へ、愛知へ、岐阜へ(1)――第8書簡・第9書簡
2 静岡へ、愛知へ、岐阜へ(2)――第10書簡・第11書簡・第12書簡
3 芝生村天主堂と若葉町教会
4 プティジャン司教時代の終焉――第13書簡
5 沼津と砂川に教会誕生――第14書簡

第5章 神山復生病院設立
(1886~1891)
1 神奈川県と静岡県の巡回宣教
2 神山復生病院誕生までの道程――第15書簡・第16書簡
3 神山復生病院の設立――第17書簡
4 最後の書簡――第18書簡
5 香港で帰天

第6章 テストヴィド神父の時代
1 語り継がれる思い出
2 テストヴィド神父の後継者たち
3 テストヴィド神父の時代

◯著者紹介
中島昭子(なかじま あきこ)
捜真学院学院長。早稲田大学東アジア法研究所招聘研究員、関東学院大学キリスト教と文化研究所客員研究員。法制史学会、キリスト教史学会会員。捜真女学校高等学部、早稲田大学法学部卒業。同法学研究科博士前期課程、パリ第2大学博士課程修了。
nice!(0)  コメント(0) 

小説『クオ・ワディス』と映画『クオ・ヴァディス』のご紹介! [キリスト教と読書]

image.jpeg
写真は、2016年に読んだ岩波文庫の『クオ・ワディス(上中下の3巻)』と2017年に購入したワーナー・ホーム・ビデオから発売された『クオ・ヴァディス』DVD(2枚組)です。
正式には『クォ・ヴァディス: ネロの時代の物語(Quo Vadis: Powieść z czasów Nerona)』というそうです。ポーランドのノーベル文学賞作家ヘンリク・シェンキェヴィチによる、西暦1世紀のローマ帝国を舞台とした歴史小説です。一般には単に『クォ・ヴァディス』として知られていますが、「クォ・ヴァディス」とはラテン語で「(あなたは)どこに行くのですか?」を意味し、これに「ドミヌ(主よ)」を最後につけて、小説の主題となる「主よ、どこに行かれるのですか?」となりす。新約聖書の『ヨハネによる福音書』13章36節の引用です。

この小説は、ローマ帝国時代における暴君として悪名高い皇帝ネロ治世下のローマを舞台として、若いキリスト教徒の娘リギアと、ローマの軍人マルクス・ウィニキウスの恋愛を生き生きと描写し、当時のローマ帝国の上流階級に見られた堕落して享楽にふけった生活や社会、キリスト教徒への残虐な迫害の様子を描いています。作者のシェンキェヴィチは、この作品を執筆するのに当たって、ローマ帝国の歴史について徹底的に研究し、ネロ皇帝時代に実在した人物や史実を創作と絡めながら、読み応えのある素晴らしい小説に仕上げています。

◯「Quo Vadis 」の意味
この言葉は、登場人物でイエス・キリストの12使徒(12人の弟子)の一人だった聖ペトロの運命を決めたばかりでなく、その後のキリスト教の苦難と栄光の歴史を象徴するものとして作中のクライマックスで用いられています。
当時のローマ帝国におけるキリスト教徒への迫害は、日を追うごとに激しくなり、虐殺を恐れた者たちが国外へ脱出する事も当たり前になっていました。ペトロは最後までローマに留まるつもりでいましたが、周囲の人々の強い要請により、渋々ながらローマを離れるのに同意しました。夜中に出発してアッピア街道を歩いていたペトロは、夜明けの光の中に、こちらに来るイエス・キリストを目にします。エルサレムで十字架の磔刑で死に、3日目に復活されて天に昇られたはずのイエス・キリストの姿を見るのです。
ペトロは驚き、ひざまずいて尋ねました。
Quo vadis, Domine? 「主よ、どこに行かれるのですか?」
キリストは言います。
「そなたが私の民(ローマにいるキリスト教徒)を見捨てるのなら、私はローマに行って今一度十字架にかかるであろう。」
ペトロはしばらく気を失っていましたが、すでにキリストの姿はありません。起き上がると迷うことなく元来た道を引き返しました。そしてローマで迫害されているキリスト教徒を励まし、ついには捕らえられ、十字架(逆さ十字架の磔刑)にかけられて殉教しました。ペトロは死にましたが、それはキリスト教の発展の契機となり、彼はキリスト教カトリック教会において初代のローマ教皇とされています。
なお、クォ・ヴァディスの物語とペトロの逆さ十字架の磔刑の物語は、新約聖書正典として一応の確定を見た西暦397年の第3回カルタゴ教会会議で、正典から外された外典福音書である『ペトロ行伝』から採られています。また、この小説は1951年にロバート・テイラー主演で映画化(カラー)され、現在はワーナー・ホーム・ビデオからDVD(2枚組)が発売されています。約3時間ほどの長編スペクタクルです( ̄▽ ̄;)
nice!(0)  コメント(0) 

映画『祈りのちから』と小説『祈りのちから』のご紹介 [キリスト教と読書]

祈りの力.jpg
今日は、このブログで過去に掲載した記事を再掲載いたします。映画『祈りのちから』と小説『祈りのちから』です。この映画を初めて観て大いに感激・感動しました。祈ることが、いかに大切なことかを説いています。キリスト者(クリスチャン)であれば、これは絶対に観るべき映画であり、絶対に読むべき小説です。

映画のホームページに掲載されているストーリーはだいたい次のとおりです。
「トニーは妻エリザベスと娘の3人家族。理想的なファミリーと思われたが問題を抱えていた。クリスチャンの老婆クララは家を売却のため不動産の担当者エリザベスを呼び彼女にクローゼットを見せる。そこはクララの祈りの部屋だった。エリザベスの問題にクララは、祈ることをすすめる…そこから不思議なことが展開する。」というものです。
そして、解説として次のことが記載されています。
「人は誰でも行き詰まることがある。失敗し、誤解され、助けてくれる人もなく、どうすることも出来なくなったとき、自然と口から出る言葉は「神様、助けて下さい」という“祈りの言葉”である。この映画は、祈ることはいつでも、どこでも、誰にでも出来ること、祈りは、最終の最強の力であることを教えてくれる。」という納得の解説ですね。

私の妻も娘もクリスチャンではありませんが、家で一緒にDVDを観て大感動していました。これは絶対に観るしかないでしょう!というか、絶対に観なければならないですね!祈りには神様の恵みがあるのです。願いがかなうのです。もちろんすべてではありませんが、それでも祈りの恵みを日々感じるようになるのです。そして、この映画の原作者(著者)であるクリス・ファブリーの待望の小説(日本言版)が、中嶋典子訳で2017年3月25日に<いのちのことば社>から出版されています。やはり小説の方が映画(DVD)よりもストーリーが濃く・長く、整理されて書かれていますので読み甲斐があります。皆さんも是非とも映画を観て小説を読んでくだい。最初に映画を観て、それから小説を読む方がいいでしょう。

イエス様は、祈りについて次のとおり説かれています。
新約聖書:マタイによる福音書・第6章・第5~第6節
「また、あなた方は祈る時、偽善者のようであってはならない。彼らは人に見せびらかすために、会堂や街角に立って祈るのを好む。あなた方によく言っておく。彼らはすでに報いを受けている。あなた方は祈る時は、奥の部屋に入って戸を閉め、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた行いをご覧になるあなたの父が報いてくださる。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から
この聖句(イエス様の言葉)で重要なところは、「隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」というところです。ここに「父」とありますが、父とはイエス様の父なる神様のことですね。ここの箇所は、イエス・キリストが使徒(弟子)達に説かれているところですから、「父に祈りなさい。」となるのですね。この聖句のとおり謙虚に信じて祈れば、必ずや神様が報いてくださるのです。祈りましょう!
nice!(0)  コメント(0) 

『証し 日本のキリスト者』のご紹介 [キリスト教と読書]

先日、帰宅途中に書店を覘いたら、手書きしたポスターに『証し 日本のキリスト者』という書名が目に入り、なにかインスピレーションを感じるものがあり、書いてある内容を読み始めました。そうしたら「これは読みたい!」という霊感?直観?がして( ̄▽ ̄;) 翌日amazonで即買いしました!
私と同じキリスト者(クリスチャン)135人が、どのような切っ掛けで信仰に入ったのか?信仰に不安を抱いていないだろうか?神に疑問の感じることはあるのだろうか?日々どのような信仰生活をしているのだろうか?など、知りたいことがいっぱいあります!信徒はもちろん司祭職の方もいます。
実に興味津々ではありますが、興味本位ではなく、ことの本質として信仰という自分と心を同じくする人が、「キリスト教を信仰するとはどのような想いなのか?どのような心の在り方なのか?どのような行為なのか?」ということを知り、現在の自分の信仰と比較して、是非とも今後の信仰生活に資するものにできるよう読み取りたいと思います。現在、まだまだ読んでいる途中であります!(*^▽^*)
◯1,000ページを超える大部な本とは知らなかった~!びっくりしました!厚さ5cm・なんと重量1.5Kg近く!重すぎ~!( ̄▽ ̄;) この重さじゃ電車の中で読もうと思っても持ち歩きは無理です!家で読むしかないですね。
396763F3-E02A-40CF-8F65-FEEE80CA9857.jpeg
著者:最相葉月(さいしょう はづき)
出版:角川書店
発刊:2023年1月13日
定価:3,498円(本体3,180円+税)
判型:A5変形判
ページ数:1,096ページ

◯内容紹介(角川書店のホームページから引用)
「なぜ、神を信じるのか。全国の教会を訪ね、135人に聞いた信仰のかたち。「証し」とは、キリスト者が神からいただいた恵みを言葉や言動を通して人に伝えることである。
本書は、北海道から沖縄、五島、奄美、小笠原まで全国の教会を訪ね、そこで暮らすキリスト者135人に、神と共に生きる彼らの半生を聞き書きしたものだ。自然災害や戦争、事件、事故、差別、病のような不条理に直面してなお、彼らは神をどうして信じられるのか? なぜ、信仰は揺るぎないものであり続けるのか。
回心、洗礼、家族、献身、開拓、奉仕、社会、差別、政治、戦争、運命、赦し、真理、そして復活……。それぞれの章で語られる「証し」のなかで「信仰とは何か?」という有史以来の謎に向き合い、終章の「コロナ下の教会、そして戦争」で、日本におけるキリスト教の現在地をも筆者は照らし出す。構想10年、取材6年。1000ページを超える圧倒的なボリュームで綴る渾身の長編ノンフィクション。」

◯目次
この本について――まえがきに代えて
第一章 私は罪を犯しました
第二章 人間ではよりどころになりません
第三章 神様より親が怖かった
十字架の風景1 兄弟姉妹
第四章 お望みなら杯を飲みましょう
十字架の風景2 教会とカウンセリング
第五章 神を伝える
十字架の風景3 宣教ブーム
第六章 自分の意思より神の計画
第七章 教会という社会に生きる
第八章 神はなぜ私を造ったのか
第九章 政治と信仰
十字架の風景4 夫婦と教会
第十章 そこに神はいたか
第十一章 神はなぜ奪うのか
第十二章 それでも赦さなければならないのか
十字架の風景5 宣教の終わりと始まり
第十三章 真理を求めて
第十四章 これが天の援軍か
終章 コロナ下の教会、そして戦争
あとがき

◯著者紹介<最相葉月>
1963年に東京都生まれ。ノンフィクションライターで編集者です。兵庫県神戸市で育ち、関西学院大学法学部法律学科(国際法専攻)卒業。広告会社、出版社、PR誌編集事務所勤務を経て、フリーの編集者兼ライターとなる。執筆する主なテーマは科学技術と人間の関係性、スポーツ、教育、音楽など。
第4回小学館ノンフィクション大賞を受賞、1998年刊行の『絶対音感』がベストセラーとなる。2007年刊行の『星新一 一〇〇一話をつくった人』は第34回大佛次郎賞、第29回講談社ノンフィクション賞、第28回日本SF大賞、第61回日本推理作家協会賞、評論その他の部門及び第39回星雲賞ノンフィクション部門を受賞しました。
nice!(0)  コメント(0) 

月刊誌『聖母の騎士』のご紹介 [キリスト教と読書]

『聖母の騎士』は「聖母の騎士社」が出版している冊子です。聖母の騎士社は、キリスト教カトリック教会の宗教法人カトリックコンベンツァル聖フランシスコ修道会の日本管区において、印刷出版業務を行うことを目的として長崎市本河内の聖母の騎士修道院内に設置されています。
1930年5月15日に、聖マキシミリアノ・コルベ神父によって、日本の国民にキリストの福音と聖母マリアの愛を伝えるため『無原罪の聖母の騎士(現在の月刊「聖母の騎士」)』が創刊されたのです。その内容は、カトリックの教え入門、現代に生きるキリスト信者の横顔など、キリスト教を紹介する読み物になっています。
◯ 右側は現在の『聖母の騎士(2月号)』です。左側は昭和10年4月1日発行の『無原罪の聖母の騎士(4月号)』です。神保町にある古本屋の店頭ワゴンの中にあるのを見つけました。確か50円だったと思います。
5E0202DF-ABDF-456B-A1C1-E4A8E662589E.jpeg
昭和10年4月1日発行のものは、最後のページに「編集人兼発行人 マキシミリアン・コルベ」となっています。聖コルベ神父様が長崎にいらした時の『聖母の騎士』なのですね。
59130FE7-B654-4739-84BA-3B8B5C770E9D.jpeg
1930年4月24日、ポーランドにあるコンベンツァル聖フランシスコ修道会のクラクフ管区からマキシミリアノ・コルベ神父、ゼノ・ゼブロフスキー修道士、コンラド修道士が長崎に上陸しました。そして、なんとその1か月後に、雑誌『無原罪の聖母の騎士』を発行されたのです!コルベ神父は無原罪の聖母マリアを守護者とする聖母の騎士会及びポーランドの聖母の騎士修道院の創設者で、皆さんご存知のとおり「アウシュヴィッツの聖人(聖人記念日は8月14日)」として知られています。
コルベ神父のことは、このブログの「聖マキシミリアノ・マリア・コルベ司祭殉教者のお話し2022.8.14」をご覧ください。アドレスは、https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2022-08-14
◯月刊『聖母の騎士』
1冊税込みで220円です。年間購読は3,300円(送料共税込)本文32ページ(A5判)
購入希望の方は、「聖母の騎士社オンライン」アドレスhttps://seibonokishi.easy-myshop.jp/c-item-detail?ic=G001 から購入手続きができます。また、四ッ谷にある「サンパウロ」及び「ドン・ボスコ社」、聖イグナチオ教会にある「女子パウロ会」のお店でも購入できます。教会によっては、閲覧用に常備していたり、教会内で販売をしているところもあります。
nice!(0)  コメント(0) 

クリスマス特集2022・その16「靴屋のマルチン」のお話し [キリスト教と読書]

今年もこのブログに「クリスマス特集」を掲載する季節になりました。数年前からこの時期の恒例となっています。今日は、クリスマス特集の最終回、その16「靴屋のマルチン」のお話しです。ロシアの有名な作家のレフ・ニコラエヴィチ・トルストイの「愛あるところに神あり」というお話しですが、日本では「靴屋のマルチン」として知られているお話しです。

「ある町にマルチンという靴屋さんが住んでいました。ですから「靴屋のマルチン」と呼ばれます。マルチンは地下室の小さな部屋に住んでいました。その小さな部屋には、小さな窓が一つだけありました。そして、その窓からは道を通る人の足だけが見えるだけでしたけれども、マルチンは、その履き物を見ただけで誰が通ったか、すぐ分かりました。なぜか?みんなマルチンが作ったり、直したりした、見覚えのある靴ばかりだったからなんですね……なるほどね!

トントン、トントン。朝から晩までトントン。ていねいにトントン。しっかりギュッ、ギュッ。やさしくキュッ、キュッ。マルチンの靴は一生懸命のいい靴ばかり。けれども、本当は、マルチンはとてもとても悲しい気持ちで暮らしていました。マルチンの奥さんも子どもも、ずっと前に死んでしまいました。マルチンは一人ぼっちだったんですね。マルチンの心はひとりぼっちでした。それに、なんだかなんだか寂びしくて、心の中に悲しい涙がつまっていました。

ある日、マルチンは聖書(新約聖書)を読み始めました。聖書には、神様の言葉が書いてあります。その聖書をマルチンは、毎晩、毎晩、夢中になって読みました。なぜだか心が安まりました。ある日、マルチンは夢の中で、イエス様の声を聞きました。「マルチン、マルチン。あした行くから待っておいで」。それで、次の日、マルチンは朝から窓の外ばかり気になっていました。「本当にイエス様は来てくれるのだろうか」。マルチンは胸がいっぱいになりました。

ふと、窓の外を見ると、雪かきのおじいさんが、疲れてぼんやりしていました。「年をとって雪かきなんて、疲れることだろう。ちょうどお茶があったまっている。そうだ、あのおじいさんにご馳走しよう」。マルチンは、おじいさんに声をかけました。「少しあったまって行きませんか」。「ありがとう。助かるよ。なにしろ外は寒くてね」。おじいさんが家に入って来ました。「さあ、さあ、こっちがあったかだよ。あたたまっておくれ。おいしいお茶もどうぞ」。マルチンはおじいさんに熱いお茶を入れてあげました。「フーッ、うまい。寒いときには、熱いものが何よりのごちそうだ」。ところで、マルチンが、窓の外ばかり気にしているので、おじいさんが聞きました。「誰か待っているのかい」。マルチンは、恥ずかしそうに答えました。「なんだかイエス様がおいでになるような、そんな気がしてね。イエス様って方は、ワシたちのような貧しい者を特別愛してらっしゃるようだ。聖書に、そう書いてあるんだよ。さあ、元気が出るから、もういっぱいどうだね」。マルチンはお茶をもういっぱい勧めました。雪かきのおじいさんは、心も身体もあったまって帰って行きました。

時々、北風がビュウーと吹いて行きます。マルチンが仕事の手を休め、窓の外を見ると、女の人が赤ちゃんをあやしているのが見えました。赤ちゃんは泣きやまないし、女の人は、寒そうなかっこうをしています。「もし、おかみさん。うちに入りなさいな」。女の人は、夕べから何も食べていなかったので、赤ちゃんにあげるお乳がでませんでした。マルチンは、パンとスープを出してあげました。「さあ、お食べ。みんな食べてもいいんだよ」。女の人は食べて元気になりました。「でも、おまえさん、この寒さに上着もないなんて寒いだろう」。そう言って、マルチンは、自分の上着を女の人に渡しました。女の人は上着を受け取ると、泣き出してしまいました。マルチンも泣きそうになりました。その女の人は、マルチンに何度も何度も御礼を言って、それから、上着を赤ちゃんにしっかりくるんで、帰って行きました。

マルチンは、また仕事にかかりました。しばらくすると、窓の外で何か声が聞こえます。男の子が、おばあさんのリンゴを取ろうとしたので、おばあさんがひどく怒っていました。マルチンは、飛び出して行って、叫びました。「まあ、まあ、おばあさん、ゆるしておやんなさいよ」。「いいや、今日という今日は、ゆるせんよ。せんだっても、この小僧はワシのリンゴを盗んだんだよ」。「坊や、それは本当か。それは悪いことだよ。誰も見ていないと思っても、天の神様はちゃんと見ておられる。でも、今日は、ワシがそのリンゴを買って、お前にあげるからな」。そして、マルチンは、男の子にリンゴを一個持たせました。「おばあさん、許すって事は難しいけど、とても大切なことのようだ」。マルチンは、小さな声で、そんなことを言いました。すると、おばあさんは「そうだ」とため息をついて、なんだかやさしい気持ちになりました。その時です。「おばあさん、ボクが荷物をもってあげるよ」と男の子は言いました。男の子も、やさしい気持ちになって、二人で仲良く帰って行きました。

マルチンは、家に帰り、また、仕事を始めました。暗くなってきたので、ランプをともし、道具を片付け、そして、棚から聖書を取り出して、きのうの続きを読もうとしました。その時、急に、きのうの夢の中のイエス様の声を思い出しました。そして、マルチンは、ふと誰かがいるような気がしました。その時です。昼間の雪かきのおじいさんが現れ、にっこり笑いながら言いました。「マルチン、マルチン。お前は、私に気がつかなかったのか」。「誰に?」。「わたしに…、あれは私なんだよ」。そして、フッーと消えました。次に、赤ちゃんを抱いた女の人も、また、おばあさんと男の子も現れ、にっこり笑いながら言いました。「マルチン、私が分からなかったのか。あれはみんな私なんだよ」。マルチンは叫びました。「夢ではなかったんだ。本当に、本当に、ワシはイエス様にお会いできた」。マルチンの心は、喜びでいっぱいになりました。

マルチンの机の上の聖書には、イエス様のこんな言葉が記されておりました。『お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。…… わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである』と。」

◯新約聖書『マタイによる福音書』第25章・第31~第46節に、次の聖句(イエス・キリストの言葉)があります。
「人の子が栄光に包まれ、すべてのみ使いを従えてくるとき、人の子は栄光の座に着く。そして、すべての民族がその前に集められ、羊飼いが羊と山羊(ヤギ)を分けるように、人の子は彼らを二つに分け、羊を右に、山羊を左に置く。
その時、王は自分の右側の者に言う、『わたしの父に祝福された者たち、さあ、世の初めからあなた方のために用意されている国を受け継ぎなさい。あなた方は、わたしが飢えていた時に食べさせ、渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸のときに服を着せ、病気のときに見舞い、牢獄にいた時に訪ねてくれたからである』。
すると、正しい人たちは答える、『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えておられるのを見て食べさせ、渇いておられるのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅をしておられるのを見て宿を貸し、裸でおられるのを見て服をお着せしましたか。また、いつあなたが病気であったり、牢獄におられるのを見て、あなたをお訪ねしましたか。』
すると王は答えて言う、『あなた方によく言っておく。これらのわたしの兄弟、しかも最も小さい者の一人にしたことは、わたしにしたのである。』
それから、王はまた左側にいる者にも言う、『呪われた者たち、わたしから離れ去り、悪魔とその使いたちのために用意されている永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていた時に食べさせず、渇いていた時に飲ませず、旅をしていた時に宿を貸さず、裸の時に服を着せず、病気の時、牢さまた牢獄にいた時に、訪ねてくれなかったからである』。
その時、彼らもまた答えて言う、『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしていたり、裸であったり、病気であったり、牢獄におられたりしたのを見ても、お世話をしませんでしたか』。
すると、王は答えて言う、『お前たちによく言っておく。これらの最も小さい者の一人にしなかったことは、わたしにしなかったのである。』こうして、これらの者たちは永遠の刑罰に、正しい人たちは永遠の命に入る。」
『原文校訂による口語訳フランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

解釈をしますと、冒頭にある「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき」というのは、終末(この世の終わり)に、人の子=イエス・キリストが再臨するということです。その時に天使たちを従えて来て“最後の審判”をするのです。分かりやすく説明すると、この世の終わりに、イエス・キリストが再び現れて、天国に入る者と地獄に落ちる者とを選別するということです。「王」とは、イエス・キリストのことです。「兄弟であるこの最も小さい者」とは、苦しんでいる人たち、弱い立場にある人たち、病にある人たちなど、救いを求めている人たちのことです。「永遠の刑罰に」というのは地獄に落ちるということで、「永遠の命に入る」というのは天国に入るということです。

自分のためではなく、人の為に善い行いをすること。特に貧しい人たち、苦しんでいる人たち、弱い立場の人たち、病にある人たち、そのような人たちのために善い行いをすることです。それがイエス・キリストにすることと同じことになるのです。イエス・キリストは、そういう弱い人たちの中にいてくださるのですね。クリスマスはイエス・キリストがこの世にお生まれになった素晴らしい日です。私たちも、靴屋のマルチンのように、イエス・キリストとお会いできるといいですね。祈りましょう。
nice!(0)  コメント(0) 

クリスマス特集2022・その15「賢者の贈り物」のお話し [キリスト教と読書]

今年もこのブログに「クリスマス特集」を掲載する季節になりました。数年前からこの時期の恒例となっています。今日は、その15「賢者の贈り物」のお話しです。
この「賢者の贈り物」は、オー・ヘンリー(本名:ウィリアム・シドニー・ポーター:アメリカ:1862年~1910年)の短編小説です。小説家で主に短編小説を得意とし、381編の作品を残しています。市民の哀歓を描き出した短編が多く、短編の名手と呼ばれています。映画化されたものも少なくありません。

「12月24日のクリスマス・イヴのこと。
アメリカにヤングという若い夫婦がいました。
夫の名はジェイムズ、妻は彼のことをジムと呼んでいました。
妻の名はデラ。
ジムは貧しいサラリーマンでした。
しかも、ヤング夫妻が迎えたその年は特別に景気が悪く、給料も減ってしまいました。
二人はいつもより厳しいクリスマスを迎えなければなりませんでした。
それでも、デラは、このクリスマス・イヴを、なんとか楽しく過ごしたいと思っていました。
そして愛する夫のために何かすばらしいプレゼントを買いたいと思いましたが、1ドル87セントしかありません。
何度数え直しても、1ドル87セント。これでは何も買えません。
デラの目から涙が出て来ました。
しかし、デラが姿見の前に立ちお化粧を直していたとき、すばらしいことを思いつきました。
デラには膝の下までとどく美しい髪の毛があったのです。
すぐにその長い髪の毛はある品物に変っていました。
それは、ジムが大切にしている金の懐中時計に付ける「プラチナの鎖」でした。
一方、ジムも愛する妻・デラのために何かすばらしいプレゼントをしようと考えていました。
でもお金がありません。
ジムは、祖父と父から受け継いだ大切な金の懐中時計を質に入れ、デラが欲しがっていた「鼈甲の櫛」を買いました。
デラは、ジムにプレゼントする「プラチナの時計鎖」を用意し、ジムの帰りを待っていました。
ジムは定刻通りにアパートに帰って来ました。
しかし、扉を開いたジムは、デラの顔を見て、棒立ちになってしまいました。
デラのあの美しい髪の毛が無くなっていたからです。
でもそれだけではありません。
髪の毛を売って買った「プラチナの鎖」をつけるはずの、ジムの金時計もなくなっていたのです。
ジムが金時計を売って、デラの髪に飾ろうとした「鼈甲の櫛」。デラが自分の髪を売って買った「プラチナの鎖」。
どちらもムダにになってしまいました。
デラの美しい髪の毛はなく、ジムの金時計もないからです。
しかし、彼らはお互いの「思いやり」を受け取りました。
自分の一番大切にしていたものを犠牲にしてまで、愛する者を喜ばせようとした、その何ものにも代え難い素晴らしい「思いやりの心」を互いに受け取ったのです。
彼らはその二つのプレゼントを机の引き出しにそっとしまったということです。」

作者のオー・ヘンリーは最後にこう言っています。「現代の賢者たちに言おう。贈りものをする人々の中で、この二人こそ「賢い人々」であったのだと。贈りものを与え、贈りものを受けとる人々のなかで、彼ら二人のごとき者こそが「最も賢き人々」であるのだと。
nice!(0)  コメント(2) 

クリスマス特集2022・その14「シークレット・サンタ」のお話し [キリスト教と読書]

今年もこのブログに「クリスマス特集」を掲載する季節になりました。数年前からこの時期の恒例となっています。今日は、その14「シークレット・サンタ」のお話しです。このお話しは、“どん底からサンタクロースになった男”の実話です。

アメリカで、ある町にラリーという青年がいました。1971年11月、23歳のラリー・スチュワートは、会社が倒産して路頭に迷ってしまいました。彼は貧しい家で育ち、「いつかお金持ちなってやる!」という野望を抱き、「お金持ちになれば幸せになれる!」と固く信じて会社を設立したのでした。
一週間余も何も食べていなかった彼は、気がつくとレストランで食事をしていました。お腹いっぱいになった彼の前には、19ドル少々の数字がかかれた伝票があります……が、お金はまったく持っていません。このままでは無銭飲食で捕まってしまう!……逃げようか?正直に話そうか?と思っていた彼に、レストランの店主が……。
「あの、これ落としましたよ。」と言って、20ドル札を差し出したのでした。内心<これは店主の勘違いだ!>と思ったラリーは平常心を装って、その20ドル札を受け取って無事に勘定をすませたのでした。無銭飲食の難を逃れた。「ラッキー!」と、その時はただそう思いました。

そして4年後……そして再び会社を設立しますが、また倒産してしまいます。莫大な借金を負ってしましまって今度こそもう駄目だと思い、銀行強盗をしようとします。そして、銀行に行ってピストルを出そうとしたまさにその時!ある記憶がよみがえりました……あのレストランでのことが……<あの20ドル札は本当に落し物だったのか?>、<本当に店主の勘違いだったのか?>と。
そこで、あの時のレストランに行って確かめたら、店主は意外なことを話しました。「クリスマスは誰もが幸せになれる日なんだよ。」と……彼は本当のことを知って号泣しました。無銭飲食で捕まらなかったのも、銀行強盗をしなくてすんだのも、あの20ドル札のおかげ……。

ラリーは今度こそ回心し、貧しくてもコツコツと働くことを決心しました。やがて結婚して子どもにも恵まれました。そんなあるクリスマスの日、ラリーはサングラスと帽子で素顔を隠し街に出ました。そして銀行の預金を全額おろして、20ドル札に替えたのです。そうです!お金に困っている人たちに20ドル札を配り歩いたのでした。人々に感謝されてラリーは嬉しさや喜びを感じました。
ところが、妻に黙ってやっていたものですから、ある時、気づかれてしまいます。<これは怒られるだろうな……>と思いましたが、予想外に妻の言葉は「あなたを誇りに思う。素敵なことじゃない。これからはもっと節約してたくさんの人を助けられるように協力するわ。」と。ラリーは、人々の役に立つ仕事をしたいと長距離電話の会社を設立しましたが、今度は大当たりして年収もかなり稼ぐ会社になりました。裕福になってからも、ラリーは27年間、名前を明かさず20ドル札を配り続けました。およそ約700万人の人に、総額約130万ドル(日本円で約1億8千万円)も!

名前を明かさない彼を、人々はいつしかこう呼びました。「シークレット・サンタ」と。そして、2007年1月12日、ラリーは癌のため58歳で静かに帰天(きてん:死ぬこと)しました。シークレット・サンタはもういなくなるのか……しかし、その年のクリスマスにもシークレット・サンタは現れたのです!彼の遺志を引き継いだ人達が、20ドル札を配ったのでした。
”クリスマスは全ての人が幸せになれる日”といわれています。経済的な貧困による不安定な社会、生活難からくる心理的苦痛等々、世の中にはそのような人々がたくさんいるのです。自分だけが幸せならばそれでいいと思う人は仕方ないのかもしれません。しかし、苦しい大変な時はお互い様です。そのような時にこそ人の為に尽くしせば、それ以上のものが返ってくるのではないでしょうか?!このクリスマスをあなたも誰かのために想いを馳せ、幸せがくるようお祈りしましょう!

【帰天】
天から授かった命が天に帰ること。つまり死ぬこと。
nice!(0)  コメント(0) 

クリスマス特集2022・その13「クリスマスの鐘」のお話し [キリスト教と読書]

今年もこのブログに「クリスマス特集」を掲載する季節になりました。数年前からこの時期の恒例となっています。今日は、その13「クリスマスの鐘」のお話しです。

「昔々、アメリカのある町に、大きな教会がありました。教会には天にそびえる高い塔があって、立派な鐘(かね)がつるされています。その鐘には『クリスマスの夜にだけ鳴る』という、不思議な言い伝えがありました。ところがまだ一度も、この鐘が鳴る音を聞いた人はありませんでした。クリスマスが近づくと、町の人たちは塔を見あげて話し合います。
「今年こそは、あの鐘の鳴る音が聞けるかなあ?」
「わしは八十年も生きているが、まだ一度も聞いたことがない。なんでも、わしのじいさんが子どもの頃に聞いたそうだが、それは素晴らしい音色だったそうだ」
「どうすれば、あの鐘はなるのだろう?」
「神さまに贈り物をすれば、鳴るという話だよ」

さて、この町のはずれの小さな村に、ペドロという男の子と弟がいました。
ある日、ペドロは弟に言いました。
「クリスマスの教会って、とってもにぎやかなんだってさ」
すると弟は、目を輝かせてせがみました。
「わあ、ぼく、行ってみたいなあ」
「よし、連れて行ってあげるよ」
ペドロは、弟と約束しました。
そして、待ちに待ったクリスマスの前の夜。
ペドロと弟は、しっかりと手をつなぐと町へ向かいました。

町の入り口までいった時、二人は女の人が倒れているのを見つけました。
「どうしたのかな? この人、動かないよ。お兄ちゃん、どうしよう?」
「このままほうっておいたら、凍え死んでしまう。困ったなあ?」
あたりには、誰もいません。
ペドロはポケットから銀貨を取り出すと、弟に差し出しました。
「この銀貨は、神さまへの贈り物だよ。ぼくはこの人を助けるから、一人で行っておいで」
「えっ、ぼく、一人で行くの? お兄ちゃんだって、あんなに行きたがっていたじゃないか」
「いいんだ。さあ、行っておいで」
弟は仕方なく、一人で町の中へ入っていきました。

教会の中は、たくさんの人でにぎわっていました。どの人も神さまへの立派な贈り物を、得意そうに持っています。キラキラと、まぶしく光る宝石。山のような、金貨。立派な、銀食器。誰もが素晴らしい贈り物をして、鐘を鳴らそうと考えていました。
けれど、鐘は鳴りません。
「今年こそ、鐘を鳴らしてみせるぞ!」
最後に王様も、命の次に大切にしている金の冠をささげました。
(さすがに、これで鐘が鳴るだろう)
みんなはジッと、耳をかたむけました。
でも高い塔の上は、シーンと静まり返ったままです。
「ああ、なんと、王さまの金の冠でもだめなのか」
「きっとあの鐘は、永久に鳴らない鐘なんだ」
「そうだ。そうに違いない」
人々があきらめて帰りかけた、その時です。

♪カローン、コローン、カローン、コローン・・・・・・。
突然、塔から美しい鐘の音が響いてきたではありませんか。
「あっ!鳴った。とうとう鳴ったぞ!」
「なんて、美しい音色なんだ」
「それにしても、鐘を鳴らすほどの贈り物をしたのは、いったい誰だろう?」
王様をはじめ、人々はいっせいに振り返りました。
するとそこにはペドロの弟が、はずかしそうに立っていました。
「ぼく、お兄ちゃんから預かった銀貨を一枚、神さまにささげただけだよ」
弟は、そう言ったあと、お兄ちゃんの助けてあげたあの女の人は、きっと大丈夫だろうなと、思いました。素晴らしい贈り物というのは、高価だからよいのではありません。大した物ではなくても、贈る人の心がこもっていればよいのです。
メリークリスマス」
う~ん!とっても感動的な良いお話しです!でもアメリカには王様はいないのですが………(⌒-⌒; )
nice!(0)  コメント(0) 
前の10件 | 次の10件 キリスト教と読書 ブログトップ