『使徒的書簡 わたしはせつに願っていた』のご紹介 [キリスト教と読書]

この本の本文に入る直前のページで、教皇フランシスコは、次のとおり書いています。
「神の民の典礼的養成について
司教、司祭、助祭、男女奉献生活者、
そしてすべての信徒の皆さんへ」

この書籍は、四六版・全72ページ・本文62ページです。時間があれば一日で読めます。内容については、次に掲載する「カトリック中央協議会出版部ブログ」に要点をまとめて書いてありますので、私の読書感想文?は省きますが、この書簡は、聖職者を含めたカトリック教会信徒を対象にしているということです。ですから、ミサに与るすべての信徒が読むべき教皇の書簡です。ちなみに、2回読むときちんと頭に入ります!
◯カトリック中央協議会のホームページから
「象徴的な行為」に参与する能力を失ってしまった現代人に対し、キリスト教の祭儀がもつ真実の美しさに対する驚きを再び呼び覚ますよう促す、典礼的養成についての使徒的書簡。ミサへの参加の根底にある、わたしたちをご自分のもとに集めたいというキリストの強い望みに気づくよう招いたうえで、自己の内面だけにとらわれたり、救いは自身の努力によって獲得するものと考えたりする、「霊的な世俗性」の解毒剤としての典礼の意義を説き、人格主義の高まりによる両極端の逸脱に警鐘を鳴らす。
【原文の発表年月日】2022年6月29日
◯カトリック麹町・聖イグナチオ教会で、ミサ前に撮影しました。
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書名:『使徒的書簡 わたしはせつに願っていた』
著者;教皇フランシスコ
訳者:宮内 毅
発行;カトリック中央協議会
発刊:2023年12月12日
定価:450円+税

◯カトリック中央協議会出版部ブログから
これは、典礼的養成についての書簡です。しかし、ミサの司式者である聖職者だけに向けられたものではありません。典礼への「行動的参加」を促されている信徒も含めた、すべての神の民に向けられたものです。
本書において教皇はまず、第二バチカン公会議『典礼憲章』の重要性を強調します。そのうえで、これまでたびたび繰り返してきた「霊的な世俗性」、すなわちグノーシス主義や新ペラギウス主義の誘惑に警鐘を鳴らし、典礼はこうしたものに対する「もっとも効果的な解毒剤」であると述べています。グノーシス主義や新ペラギウス主義の個人を中心に据えた信仰理解に対し、典礼はキリストの教会に属するものであり、聖体のいけにえへの参加は自力で得たものではないからです。
ここに加えて教皇は、大切な点への注意を促しています。「解毒剤としての典礼が効果的であるためには、キリスト教典礼の祭儀の真の美しさを、わたしたちが日々、再発見していく必要があるのです」
美しさを再発見することによって、わたしたちは過越の神秘に対し驚くことができる、この驚きが大切なのだと教皇は説きます。信仰における驚きの必要性、これもフランシスコ教皇がたびたび訴えていることです。
本書においてきわめて印象的なのは、「典礼的養成」には二つの側面があるという教えです。一つは、文字どおり典礼について学ぶ、典礼についての知識を習得するということです。そしてもう一つの面は「典礼祭儀への参加によって、わたしたちはそれぞれの召命に応じて養成されるということ」です。典礼にあずかることそれ自体が、典礼についてわたしたちを「養成する」のです。
そこにおいて求められるのは、象徴(シンボル)を読み解く力です。「わたしたちはもはや、聖フランシスコのまなざしをもっていません」と教皇は述べて、次のように教えています。
「身体とすべての被造物の象徴的(シンボリック)な価値を理解する能力を失ったことによって、典礼の象徴的(シンボリック)な言語は、現代のメンタリティにとって遠く離れたものとなってしまいました。それでも、このような言語を放棄するということはありえません。なぜ放棄できないかといえば、それは聖なる三位一体がみことばの肉体を通してわたしたちに達するために選んだ方法だからです。むしろ、典礼のさまざまな象徴(シンボル)を使い、理解するための能力を回復することが問題なのです」。
ある種の厳しさが込められたことばだと思います。ここで批判されている現代人のメンタリティは、時代の流れとともに、日々いっそう幅を利かせているのではないでしょうか。ということは、わたしたちは知らぬうちに、どんどんと典礼の美しさを味わうことができなくなっているのでしょうか……。
長い文書ではありません。日々の忙しい生活の中で、少し時間を作れば読むことができます。ぜひご一読ください。
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