徳川家康のことば(第1日目) [非キリスト者(ノンクリスチャン)]

「人の一生は
重きを負うて遠き道を行くがごとし。
急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なく、
心に望みおこらば困窮したる時を
思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、
怒りは敵と思え。
勝つ事ばかりを知って、
負くる事を知らざれば、
害その身に至る。
己を責めて、
人を責むるな。
及ばざるは、
過ぎたるより優れり。」

NHKの大河ドラマ「どうする家康」で、俳優のマツジュンこと松本潤さんが好演をしていますが、今日から徳川家康公のお言葉をご紹介いたします。信徒の方によっては、「徳川家康は、江戸幕府草創期にキリスト教を禁教し、信徒を弾圧した張本人なのに、どうして家康の言葉など掲載するのか!」とお怒りの方がいらっしゃるかもしれませんが、「それとこれは別物」と言うことでお赦しいただければと思いますが、いかがでしょうか?

徳川家康(1543年~1616年)は、 元々は松平元康と言います。戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名で、江戸幕府の初代征夷大将軍です。三英傑(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)の一人です。本姓は先に藤原氏、次いで源氏を称し、家系は三河国の国人土豪・松平氏です。1567年2月18日(永禄9年12月29日)に勅許を得て、徳川氏に改めました。松平元信時代からの通称は次郎三郎。幼名は竹千代(たけちよ)です。

家康公のことは有名ですから皆さんよくご存じですよね。ちなみに、キリスト教とはまったく関係がありませんし、もちろんクリスチャンではありません。この言葉は、徳川家康公の理念や理想の精髄を伝える「東照公御遺訓(とうしょうこう ごいくん)」として今日に伝えられています。家康公の有名な言葉ですね。読んだとおり、現代においても活かされるべき教訓(言葉)です。私座右の銘の一つです。ところで次の言葉に注目です。

この言葉の最後2行ですが、「及ばざるは、過ぎたるより優れり。」とあります。これは、「過ぎたるは、なお及ばざるがごとし。」と似ていますね。この言葉は、孔子が『論語』で述べている言葉です。意味は「何をするにも、いき過ぎになっていると、それがどんなに良いことでも、むしろ不足ぎみや、不満足な状態と変わらない。過度になってしまうようであれば、むしろ控え目にしている方がよい。」という意味で、“ 中庸(ちゅうよう) ”の大切さを説いています。いつも “ お節介焼き ” な私の最も自戒とするところです( ̄◇ ̄;)

『論語』は、孔子の弟子、その弟子の弟子達が、孔子の言葉をまとめたものです。『中庸』とは、儒教の経典で朱子学の〈四書〉の一つです。もともと「礼記(らいき)」のうちの一編で全文3,500余字の書物です。孔子の孫の子思の作とされる書です。この『中庸』の書が説いている、すなわち「かたよることなく常に変わらないこと。過不足がなく調和がとれていること。」の意味です。

この言葉の起源は次のとおりです。
孔子の弟子に子貢(しこう)という人がいました。彼はできる人物でしたが、人物評が好きで、孔子はややもてあましていました。あるとき、子頁は同門弟子の2人を比較して、「どちらが賢明ですか?」と尋ねました。孔子が「A氏の方は度が過ぎているし、B氏の方はやや不足ぎみだ。」と答えると、子貢はすかさず「すると、A氏の方が優れているのですね。」と重ねて尋ねました。

これに対する孔子の答えが、「過ぎたるは、なお及ばざるが如し。」だったのです。子貢はもちろん学問がよくでき、しかも頭の鋭いA氏の方がB氏より優れているという返事を期待していたのですが、孔子は期待に反して「同じようなものだよ。」と答えたのです。この返事の中には、ものごとはなんでも、行き過ぎの状態よりも、むしろ謹んだ方がよいという意味が込められていますね。

この言葉は、孔子が子貢の “ 小賢しさ ” を諫める言葉でもあったと思われます。家康公は、ご自分の経験上からのこともあると思いますが、確実に『論語』を読んで勉強していますね。皆さんもこの言葉を日常で使いましょうね。度の過ぎる人がいたら、「過ぎたるは、なお及ばざるが如し。」と言ってやってくださいね!
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