「三位一体」の祭日のお話し [キリスト教関係事項・用語等]

今日5月30日は、「三位一体」の祭日です。
「主の昇天の主日(5月15日の夜~16日の日中)」のミサの次の日曜日が「聖霊降臨の主日(5月22日の夜~23日の日中)」のミサで、これで「復活節」が終わりますが、その次の日曜日には「三位一体の主日(今年は5月29日の夜と30日の日中)」が祝われます。

そこで、三位一体の主日のミサで、第二朗読で読まれる聖書のローマの人々への手紙を見てみましょう。
◯新約聖書:ローマの人々への手紙・第5章・第1〜第5節
「それ故、信仰によって義とされたわたしたちは、わたしたちの主イエス・キリストによって神との平和を得ています。わたしたちは、このキリストのお陰で、今そのうちにある恵みの状態に、信仰によって立ち入ることが許されました。神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難さえ誇りにしています。苦難は忍耐を生み、忍耐は試練に磨かれた徳を生み、その徳は希望を生み出すことを知っています。この希望はわたしたちを裏切ることはありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心の中に溢れ出ているからです。」

この聖書の箇所で重要なのは、この手紙を執筆している使徒パウロは、三位一体の神を「父と子と聖霊の神」として理解しているということです。パウロの時代には、まだ「三位一体」という言葉は定着していませんでしたが、「三位にして唯一である神」をパウロは「父と子と聖霊の唯一の神」として、はっきりと確信を持って理解していました。三位一体の神というのは、3つの異なる位格(ペルソナ)でありながら、唯一の神であるという教義的な側面が先行してしまうためかもしれませんが、どちらかといえば、私達の理解を越えている、なんだか難解で私達の毎日の生活の中ではあまり実感することはない………といった印象を持つ人が多いのではないでしょうか。

三位一体の神とは、「父なる神」、「子なる神」と「父と子から出る聖霊」による3つの位格(ペルソナ)が一体となった“一つの神”ということです。ここでいう子なる神がイエス・キリストのことです。このブログでは、よく「主(神)」と書きますが、主は父なる神のことであり、子なる神であるイエス・キリストのことも指します。ですから、聖書の中に「父」とでてくるのは、イエス・キリストの父なる神のことです………という表現をすると、神様は聖霊を合わせて3神じゃないか!って思うかもしれませんが、神様は聖霊を含めて1神というか1つなのです。
この三位一体の神様は、もちろん、カトリック教会、プロテスタント教会諸派、正教会、聖公会に共通していることです。「三位一体」を教義としていない(拒否して・否定して)、キリスト教を名乗って一般市民を勧誘する宗教団体がありますが、それはキリスト教ではありません。現在、そのような宗教団体に対して、カトリック教会、プロテスタント諸教会、日本正教会(ギリシャ正教会等の東方正教会系統)及び日本聖公会(イングランド国教会系統)は、これらの宗教団体を「正統なキリスト教団体とは認めない」旨を公表しています。

このブログに何度もご紹介していますが、ここで分かりやすく説明いたしましょう。
これを理解するのに最適な本があります。それは、カトリック浅草教会の主任司祭である晴佐久昌英(はれさくまさひで)神父様が書いた『幸いの書』という本です。この中に三位一体の優しい表現が例え話しとして記載されていますのでご紹介します。少し長くなりますが引用しますね。
「小さな子供が道で転んで泣き出しました。どうやら、足をすりむいてしまったようだ。かわいいひざ小僧に、血がにじんでいる。
すぐにお母さんが駆け寄り、わが子を抱き起こして、優しい声で語りかける。
『おお、よし、よし、あらあら痛かったねえ。ほらほら、もうだいじょうぶよ。痛いの、痛いの、飛んでけー』
お母さんの腕に抱き上げられて、すぐに子供は泣き止む。お母さんが耳元で何かささやくと、途端に笑顔になった。子供はいつだって、親心に包まれている。
この幸いな子供を私たちとするならば、お母さんは天の父、お母さんの手と声がイエス・キリスト、お母さんからあふれ出て子供を包む親心が聖霊である。
この三つ、すなわちお母さん自身と、お母さんが伸ばした手と声、そしてその親心は、一つであって分けることができない。
そこにあるのは、ただ子供を助けたいという純粋な思いだけである。天の父とイエス・キリストと聖霊は、純粋な一つの愛として存在する。……」
ご理解いただけましたでしょうか?
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