「斎藤宗次郎・雨ニモマケズ」のお話し [キリスト者(クリスチャン)]

「西郊に新築せる農学校を訪うて宮沢賢治先生に会うた。(中略)氏は予を款待して呉れた。椅子を取出して予をして之に倚らしめた。更に蓄音器によってピアノの数曲を予に供したのであった。予は例の如く冥目拱手して氏と共にベートーベンの第四シンフォニーに心耳を傾倒して恍惚たるものがあった。」

これは、斎藤宗次郎(さいとう そうじろう)という人が書いた『二荊自叙伝(にけい じじょでん)』という自伝に書かれている文章です。有名な宮沢賢治と宗次郎が親しい関係であったことが分かる内容ですね。今日は長くなりますが、斎藤宗次郎のご紹介をしたいと思います。このブログに2016年6月20日に掲載した記事をほとんどそのまま掲載いたします。
宮沢賢治といえば、『雨ニモマケズ』という詩が学校の教科書にも登場するくらい有名ですね。暗記している方もいらっしゃると思いますが、ここに全文をご紹介します。

「雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫なからだをもち
慾はなく
決して怒らず
いつも静かに笑っている
一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを
自分を勘定に入れずに
よく見聞きし分かり
そして忘れず
野原の松の林の陰の
小さな萱ぶきの小屋にいて
東に病気の子供あれば
行って看病してやり
西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行ってこわがらなくてもいいといい
北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろといい
日照りの時は涙を流し
寒さの夏はおろおろ歩き
みんなにでくのぼーと呼ばれ
褒められもせず
苦にもされず
そういう者に
わたしはなりたい 」

(原文)
「雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ」

この詩の最後に「そういう者に、私はなりたい。」と書かれていますが、この「そういう者」の実在のモデルが存在したことをご存知でしょうか?その人こそ冒頭でご紹介した斎藤宗次郎です。宮沢賢治のこの詩は、斎藤宗次郎のことを詩にしているのです。斎藤宗次郎(1877年~1968年)は、キリスト教無教会派のクリスチャンです。岩手県東和賀郡笹間村(現在の花巻市)で、曹洞宗のお寺の三男として生まれました。小学校の教師になり、何かのきっかけで聖書を読むようになり、1900年の冬に洗礼を受けました。この時は、カナダのキリスト教プロテスタントのバプテスト派の宣教師から洗礼を受けていますが、やがて東京に出てからは、内村鑑三に傾倒してキリスト教無教会派の信徒になっています。

この時代は、キリスト教がまだ「耶蘇教(やそきょう)」となどと呼ばれ、人々から迫害(偏見)されていたころでしたので、クリスチャンになった日に親から勘当されたそうです。町を歩いていると「やそ!」とあざけられ、何度も石を投げられたそうです。彼はいわれのない中傷を何度も受け、ついには小学校の教師を辞めることになります。また、宗次郎の長女はある日「ヤソの子供」と言われ腹を蹴られ、腹膜炎を起こして数日後9歳という幼さで帰天しました。帰天(きてん)するとは、天国に帰ること、つまり死亡することです。

それでも、彼は信仰を捨てずに生き続けたのです。ただ、宗次郎にも迫害(偏見)される一因はあるという研究者もいます。それは、養父の一周忌をキリスト教式で行っただけでなく、仏教の法事、神道の祭礼などを一切やめると、親戚や近所の住民に一方的に通告し、一周忌に集まった人々には、もちろん酒などは一滴もふるまわないというように、慣習や風習に従わず妥協しないところがあり、町の祭礼の寄付金はことわるし、神社の社殿の改築費の割り当てにも一切応じなかったそうです。

こんな頑なな態度をとっていたら、町の人々から反感をもたれるのは当然だろうと思いますし、このような時代に、原理主義的な考えでいたら、融通がきかない窮屈な人ということになってしまいますね。そのくらい“表裏のない真正直な性格で、生き方に下手な人”だったのだと思います。でも、そこまで徹底した信仰に、私はただただ自戒するのみです。教師を辞めることになった宗次郎は、朝3時から新聞配達をして生活をするようになり、重労働の中、肺結核を患い何度か血を吐きながら、それでも毎朝3時に起きて夜遅くまで働き、必ず聖書を読んで祈ってから寝るという生活を続けました。

不思議な事に、このような激しい生活が20年も続いたにもかかわらず、彼の体は支えられていたそうです。主イエス・キリストのご加護があったからだと思います。また、自分の娘を失ったのにかかわらず、冬に雪が積もると、彼は小学校への通路を雪かきをして道を作ったそうです。彼は雨の日も、風の日も雪の日も休む事なく、地域の人々のために働き続けました。また、新聞配達の帰りには病人を見舞い、励まし、慰めました。宗次郎の生き方は、第一にイエス・キリスト、第二に周りの人々、最後に自分という優先順位をつけていたのです。

やがて彼は、東京に引越しすることになったのですが、その彼を見送るために迫害(偏見)していたはずの町長や、学校の先生や、たくさんの生徒、そして町中の人々が駅に集まりました。人々は宗次郎がいつもしてくれたことに、感謝をしに駅に見送りにやってきたのでした。その人々の中に宮沢賢治もいて『雨ニモマケズ』の詩を創ったといわれています。宗次郎は、町のみんなから迫害され、愛娘が殺されたにもかかわらず、主であるイエス・キリストを信じ、そしてイエス・キリストの教えである「隣人への愛」と「人への赦し」を自らが実践したのです。誰でもできることではありませんね。1968年(昭和43年)に90歳でご逝去されましたから、私が小学校4年生の年です。是非お会いしたかったですね。このような人を「聖人」として崇めたいと思います。

ところで、斎藤宗次郎の自伝「二荊自叙伝」ですが、この「二荊(にけい)」について説明いたします。まず、「荊(いばら)」の意味ですが、これは、イエス・キリストが磔刑される時、荊の冠をかぶせられたのを「一」、つまり一番目とし、宗次郎もイエス・キリストに倣い、自分への荊の冠を「二」、二番目とする考えから「二荊(にけい)」としたそうです。荊で編んだ冠ですから、頭にかぶれば痛いのは当然ですね。イエス・キリストの磔刑の場面を画いた絵画には頭から血が流れている様子が画かれています。これを宗次郎は、イエス・キリストの痛みを自分も同じように感じて同じ苦難を受けることで、主であるイエス・キリストと共にいるのだという想いを込めて「二荊」と名付けたようです。「二荊自叙伝」は、岩波書店から上下2巻で出版されていますが、現在は絶版になっています。
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布台 一郎

 岩手県花巻市からご挨拶を申し上げます。調べ物をしていて、こちらのサイトに参りました。当地出身の斎藤宗次郎さんについて詳しくご紹介していただき、大変ありがとうございます。
 斎藤宗次郎さんが花巻市で最初のクリスチャンとの記述がありますが、上田哲氏が書かれた『岩手福音宣教百年史』(1974)に、カトリック盛岡教会の洗礼原簿の紹介があり、花巻における受洗者として、1878年6月19日プロトラント神父によって箱崎ヨウスケ、19歳という記述があります。プロテスタントとしては花巻出身で後に北海道大学の総長となる佐藤昌介が1877年に札幌で受洗しております。参考としてお知らせいたします。

by 布台 一郎 (2019-10-17 16:38) 

アウグスティヌス

こんにちは。コメントありがとうございます。花巻での最初のクリスチャンのこと、詳しくお教えいただきありがとうございます。感謝いたします。早速、訂正させていただきます、ありがとうございました。
by アウグスティヌス (2019-10-20 12:56) 

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