「蟻の街」のお話し・第六話「尊者エリザベト・マリア北原怜子」のことば(第2日目) [聖人・福者・尊者]

「貧者を慰問することは、偽善者のごとき大きな罪である。」

この言葉は、イエス・キリストの教えにし従って献身的な奉仕活動を展開した社会奉仕家の北原怜子さんの言葉です。この言葉の説明に入る前に、記事のテーマとなっている北原怜子さんのことを知っていただくため、まずこのブログの2022年年4月23日に掲載した「「蟻の街」のお話し・第一話「尊者エリザベト・マリア北原怜子」のことば」をお読みください。
https://jesus195876.blog.ss-blog.jp/2022-04-23

北原さんは、貧しい人を慰問するという行為は、偽善者と同じ大きな罪であると述べています。貧しい人を慰問するという行為は、裕福な人とは限りませんが、貧しくない人、貧しい人と同じ立場でない人が、慰問という不幸な境遇の人や、災害・病気で苦しんでいる人などを見舞うことです。北原さんは、自ら貧困者の境遇に身をおいて行うことが本当の姿であって、貧困者と同じ立場でない人が行う慰問という行為は、偽善的であると述べているのです。本心からではない、うわべだけの善行を行う人のことを意味する「偽善者」は、それ自体が「大きな罪である。」と断定しています。後に、北原さんは自ら「蟻の街」の貧困生活の中に身を投じ、その「蟻の街」で生涯を全うしたことで、この「偽善者のごとき大きな罪」というものを克服されました。

この言葉は、ホームレス支援活動をしている私にとっては、非常にショックな言葉でした。私が参加している「山谷夜回りの会」活動は、月に2回(第一、第三木曜日)、ホームレスの皆さんにおにぎりや多種多様な生活物資を無料配布する活動ですが、これが、北原さんのいう「偽善的な行為」に当たらないかと………もちろん自信をもってやっていることですから、偽善的な行為であると思ってはいませんが。北原さんのほどの生き方をした人からすれば、私の行っていることは偽善的なのかな?と自問したくなり、一時的に動揺してしまいました。実は、北原さんのお言葉以前から、私が悶々としてきた自己の指摘事項でもあるのです。なぜ悶々としているのか?それは、ホームレス支援活動への「覚悟・心構え・姿勢」の正解が見出せていないからです。

北原さんは、著書の『蟻の街の子供たち』の中で、次のとおり書いておられます。
「………その途端に、「コリント後書(コリントの人々への第二の手紙)、第八章の九段」という言葉が、たった今耳にしたばかりのようにはっきりと聞こえました。私は、はっとして、手に持っていた聖書をぱらぱらとめくり出しました。「富める者にて在(ましま)しながら、己(おの)が貧しきを以(もっ)て、汝等を富ましめんとて、汝等の為に、貧しき者となり給いしなり」
私は、はっとして立ち上がりました。天主様(神様)さえ人間を救うために、御子(おんこ)イエズズ(イエス)様を貧しい大工の倅(せがれ)に生まれさせ、十字架の上で殺させになっているのに、自分のような卑しい者が、蟻の街の子供に勉強を教えてあげる位のことだけで、もう立派なカトリック信者の務めを果たしたような気になっていたのでした。………」と。
◯新約聖書:コリントの信徒へ手紙二・第8章・第9節
「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」
『新共同訳聖書』から

また、私がつまずいている次の聖句が、ますます正解を見出せていない状態にしています。
◯新約聖書:ルカによる福音書・第8章・第4~8節・第11~15節にある「種蒔きの喩え(たとえ)」
「さて、大勢の群衆がイエスのもとに集まり、あちらこちらからの町からも人々がやってきたので、イエスは喩えをもってお話しになった、「種を蒔く人が種蒔きに出ていった。蒔いているうちに、ある種は道端に落ちた。それは踏みつけられ、空の鳥がついばんでしまった。ほかの種は岩の上に落ちた。生長したが、水気がないため枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。やがて、茨も一緒に生長して、これを覆ってしまった。ほかの種は善い地に落ちた。やがて生長し、百倍の実を結んだ………(途中略)………この喩えの意味はこうである。種は神の言葉である。道端のものとは、一応はみ言葉を聞く人々のことである。しかし、その人々が信じて救われることのないよう、悪魔が来て、彼らの心からみ言葉を奪い取る。岩の上のものとは、み言葉を聞いて、喜んで受け入れるが、彼らには根がないので、しばらくは信じても、試みに遭うと、離れ去ってしまう人々のことである。茨の中に落ちたものとは、み言葉を聞いても、生活の中で、日々の思い煩い、富、楽しみに覆われて、実が熟するまでに至らない人々のことである。善い地のものとは、正しく善い心をもってみ言葉を聞き、これを固く守って、忍耐のうちに実を結ぶ人々のことである。」
『原文校訂によるフランシスコ会聖書研究所訳注聖書』から

この聖句にある「種」とは、神様の言葉(教え)の喩えことです。この神様の言葉(教え)=種が、①道端に落ちた種、②岩の上に落ちた種、③茨の中に落ちた種、④善い地に落ちた種の4種類あります。それぞれに人々がどうなるかの結果が、後半部分に書かれていますね。私は、実を結ばない(救いのない)①と②は、信仰心が生長したことで克服できていると確信しています。でも、実を結ぶ(救いのある)④には未だ至っていないのです。私の場合は③です。「ほかの種は茨の中に落ちた。やがて、茨も一緒に生長して、これを覆ってしまった………(途中略)………茨の中に落ちたものとは、み言葉を聞いても、生活の中で、日々の思い煩い、富、楽しみに覆われて、実が熟するまでに至らない人々のことである。」ということです。※み言葉 = 御言葉

実が熟するまでに至らない → 実はなるが熟していない状態なのが私なのです。これを克服しないと、北原さんが言うところの「偽善者のごとき大きな罪である」という言葉から逃れられないのではないかと思うのです。であったら、ホームレスの生活に身を投じるかです。北原さんと同様に、自分を同じ境遇に身を置けば正解を得ることができるのではないか………でも、そこまでできるのか?或いはそこまでやる必要があるのか?本当のところはどうなのか?
私には家族を養う義務があり、仕事は責任ある地位にあり、交友関係は広く、人間関係も多岐にわたり、富はありませんが家のローンがあり( ̄▽ ̄;)、思い煩いはたくさんあります。そのような状況の中における私の問題は、やはり善き行いであるホームレス支援活動への「覚悟・心構え・姿勢」だと思うのです。イエス・キリストは、「すべてを捨てて、私に従いなさい。」と命じておられます。その覚悟はあるのか?まだまだ正解は見つけられません。心の葛藤、悶々とした日々が続きますが、なんとか茨に覆われないように、生涯を終えるまでに実を結びたいものです。

【蟻の街】
戦後直後、復員軍人(ということですが未確認)の小澤求氏が、仕事のない人々を日雇いで雇いあげ、ガラスくず、鉄・銅くず、縄くず、紙くず等を拾い集め、回収させて再生工場へ送る仕事を行うため、廃品の仕切り場とするために隅田公園辺りの製材工場跡と約600坪の土地を借り受けました。このような労働者たちを当時「バタヤ」と呼びました。このバタヤが収集して来た物品の買い取り価格が低いため、バタヤの生活は貧しく苦しかったのですが、自前の仕切り場を開設し、バタヤたちに適切な報酬を支払うことを目指しました。小澤氏の仕切り場での報酬は出来高払いで、仕切り場の労働者とその家族たちを居住させ、仕切り場はいわば生活共同体となりました。人々はアリのように勤勉に働き、助け合って生活したことから、この共同体の名称が「蟻の会」となり、住んでいる場所を「蟻の街」と呼ぶようになりました。
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